#4
陣痛が始まってから四時間がたった。ノーラ婆曰く、「普通ならまだまだだが、早産にしては少し長い」とのことだった。あまり時間がかかると、その分だけ母子ともに命への危険が高まるのだという。ノーラ婆は大丈夫だと泰然としていたが、レネットの声には焦りが滲んでいた。
「早く出てきて……お願い……!」
レネットが祈るように呟く。ジョシュアに手を握られているモニカの様子はぐったりとしており、レネットの指示に従って痛みを逃しながらいきんでいるが、一向に産まれる気配がない。アルレクスはノーラ婆の隣に座って、時折手洗い用の湯を取り替える以外に、事態を見守るしかできなかった。
さらに二時間が経過する。事態に変化はない。土気色のモニカの顔色を見て、ノーラ婆が重々しく口を開いた。
「モニカ。子供は諦めなさい」
その場にいた全員が固まった。レネットが呆然と、ノーラ婆を見つめる。
「どうして、」
「無理して産めばモニカが死んでしまうよ。堕胎薬は用意してある」
レネットの唇が震えた。薬を飲めば、胎児の形が崩れて流れるというわけではないのは、アルレクスにもわかる。子宮内に留まった胎児をどう処理するのか、少し考えれば容易に想像がついた。皆一様に言葉を失う。
「……嫌です」
朦朧とした意識の中、モニカがか細く呟いた。真っ白な手で腹を撫でて、涙をこぼす。
「あの人との、最後のつながりなの。産ませて」
産ませて、とモニカはしゃくりあげる。だが、ノーラ婆は現実を突きつける。
「子供か、お前か、だ。子供が生まれれば、お前は死ぬかもしれないよ」
「私は、どうなってもいいから……」
「勝手なことを言うんじゃないよ。お前まで死んでしまったら、マルスランはどうなる」
マルスランに視線が注がれる。あれだけ弟妹を楽しみにしていたのに、突然「赤ん坊か、母親か」の選択を目の当たりにして、愕然としていた。
自分のために、赤ん坊が殺される。それは、あまりにも酷なことだ。マルスランは首を横に振った。しかし、赤ん坊の命を選べば、母親を失うかもしれない。
「アルル、マルと一緒に外にいて」
レネットが、ノーラ婆を責めるように鋭く言う。アルレクスは席をたち、震えるマルスランを抱き上げた。
「あ、アルル……」
「大丈夫だ」
なんの確証もない、気休めの言葉だ。だが、他にかける言葉がない。レネットは、決断を迫られるだろう。ちらりと横顔を伺う。ヴェールの下で、彼女はどんな表情をしているのだろう。
「諦めないから。どっちも」
「レネット。こういうことは珍しくない。覚悟を決めな」
レネットが押し黙る。アルレクスはマルスランを抱いたまま廊下に出ると、長椅子に腰掛けた。
「アル、アルル。どうしよう。どうしよう……」
泣きじゃくるマルスランを抱きしめたまま、アルレクスは瞑目した。自分たちにできるのは、ただ奇跡を祈ることだけだ。
それからどれほどの時間が経ったかわからない。日はとっくに沈み、わずかな明かりが灯された。二人は言葉もなく、揺らめく火を見つめ続けた。
「アルル! お湯!」
と、突然部屋の中でレネットが叫び、アルレクスはマルスランを抱き抱えたまま椅子を蹴って立ち上がった。ついで、弱々しいが、産声が聞こえる。
「……うまれた」
呆然と呟くと、再び名前を呼ばれ、アルレクスは慌ててマルスランを下ろして風呂場へ向かった。湯桶を手に部屋へ入ると、真っ赤に染まった小さな命を、レネットが抱き抱えていた。
「赤ちゃんを温めるから、早く。この子は任せるから、ノーラ婆に教えてもらって」
赤ん坊は、思ったよりも小さく、軽かった。アルレクスはレネットから赤ん坊を引き取ると、ノーラ婆のそばで赤ん坊を洗う。何度か湯を取り替えながら綺麗になる頃には、モニカへの分娩後の処置も終わっていた。
「……モニカ」
ジョシュアが声をかけるが、モニカは目を閉じたまま反応を示さない。分娩後の止血処置に使った布と出血量を見て、アルレクスは血の気が引いた。
「出産で命を落とす母親は珍しくもないんだよ」
ノーラ婆は静かに呟いた。止血は済んだようだが、失われた血の量が多い。レネットはモニカの脈を図り、頬に触れて声をかけ、意識を確認する。ロイクが煎じた薬湯をなんとか飲ませ、体温が奪われないように毛布で体を包んで四肢をさする。するとやがて、モニカがうっすらと目を開いた。
「あか、ちゃんは」
「無理しないで」
レネットはそう声をかけ、アルレクスを見た。アルレクスは毛布に包んだ赤ん坊を抱えて、モニカの傍らに跪く。いつの間にか、マルスランも隣に来ていた。
「元気な娘だ」
その小さな体にどれほどの力があるのか、赤ん坊はずっと泣き叫んでいた。モニカが手を伸ばしてその柔らかな頬に触れる。すると、赤ん坊は小さな手でモニカの指を握り込むと、ぴたりと泣き止んだ。
「かわいい……」
そういうと、モニカは再び目を閉じた。腕から力が抜けて寝台の上に落ちる。それを見たジョシュアが狼狽するが、レネットが素早く脈を確認し、大丈夫と告げる。
「疲れたから眠っただけ。もちろん、油断はできないけど……」
レネットの言葉に、皆へなへなとその場に座り込んだ。終わったのだ。
「お疲れ様」
ノーラ婆だけが最初から最後までどっしりと構えていた。アルレクスから赤ん坊を受け取り、ゆりかごの中に置く。それを、マルスランが覗き込んだ。
「ぼく、お兄ちゃんになったんだ……」
「も、もう……疲れた……」
レネットが声を絞り出す。分娩にあたっていたレネットもまた、血まみれだった。
「浴槽に湯がまだ残っている。浸かってこい。よくやった」
近づいて声をかけると、レネットが笑ったのが気配で分かった。しかし動こうとしないので、アルレクスは首を傾げる。
「どうした?」
「こ、腰が抜けちゃって……立てない。連れてって」
アルレクスは目を瞬いた後、ふっと笑って、レネットの体を抱え上げた。
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