#3
湯を抜いた後の浴槽を綺麗に掃除してから、アルレクスは手早く清潔な衣服に着替えた。この季節、湯上がりとてすぐに体が冷えてしまう。長い髪の水分をしっかり切ってから居間に戻ると、ノーラ婆がおやおやと声を上げた。
「誰だか分からず、少し驚きました」
「こちらこそ失礼を。ゆえあって……この髪色は目立つものですから」
コベリの実から作った染料が残り少ないこともあって、髪を染めるのを断念した。別に、綺麗だと言われたからではない。ノーラ婆はともかく、そんな一言で周囲の人間の記憶に鮮烈に残るような真似はしたくない。数日人目につかないように引きこもらせてもらうつもりで、椅子にかける。そうして息をついたところで、にわかに家の外が騒がしくなった。
「なんでしょう?」
立ち上がりかけたノーラ婆を声で留めて、アルレクスは髪を適当に括ってフードをおろすと、玄関先まで出ていった。するとジョシュアが明かりを片手に走ってくるのが見えた。
「あ……アルルか? ノーラ婆は起きてる?」
「起きている。なんの騒ぎだ?」
あたりを見回すと、家々に明かりが灯され、男衆がジョシュアと同じように明かりを持って——マルスランの名前を呼んでいる。何か良くないことが起きていると理解した矢先、ジョシュアを追いかけてきたのか、腹を大きくした女が息を切らして歩いてきた。
「兄さん。マルスランは見つかりましたか?」
「モニカ! お前、来月はもう臨月なんだから家で待ってろって言っただろ!」
ジョシュアを兄と呼んだその妊婦は、どうやらマルスランの母親であるらしい。今にも倒れそうな顔色である。ひとまず二人を家の中に入れて、モニカをソファで休ませると、ノーラ婆がぎこちない動作で立ち上がった。
「マルスランが見つからないのかい。心当たりは?」
「子供達の話では、
「はあ?」
素っ頓狂な声を出したジョシュアに、置いていかれているアルレクスは訊ねる。
「月幽石とは?」
「あー、えっと。月の光を溜める不思議な石だ。お守りとしても使われる。この村には、十五歳の誕生日にそれを森に取りに行かせる慣わしがあるんだ」
——早くおとなになりたいな。
マルスランの言葉がアルレクスの脳裏を掠めた。まさか、無謀な背伸びをして石ころひとつ探しに行ったというのか。
「それは森のどこに?」
「月幽石は、前の年に試練を受けた子供が隠すんだ。だから……場所はあの子しか知らない」
ジョシュアの言っているあの子がどの子供かわからず、アルレクスは首を捻る。するとモニカがこわごわと言った様子でつぶやいた。
「〈誘いの魔女〉……」
「魔女?」
「レネットのことです」
モニカの腹の様子を見ていたノーラ婆が続ける。レネットはそんなふうに呼ばれているのか、と思わず眉根が寄った。妖精の機嫌を損ねたのはレネットの軽率な行動ゆえだが、こうまで言われる筋合いはないだろう。
「私が行く。マルスランも彼女に会いに行くだろうから」
壁に立てかけていた槍を手にすると、ジョシュアが慌てた声を出した。
「あんたを巻き込むわけにはいかねえよ。大体あの子は呪われていて、近づくと危ないんだ」
「知っている。時間が惜しい。では」
ジョシュアたちの制止を振り切り、アルレクスは家を出て真っ直ぐ森へと向かった。走りながら、無意識のうちに奥歯を噛む。義憤というものが、まだこの胸のうちには残っていたらしい。
何も危険なことなどない。レネットはひとりで、毎日辛い思いをしながら耐えている。ほっと息をつける時でさえ泣いたりはしない。そんなレネットならマルスランを保護してくれているだろう。
月明かりを頼りに茂みをかき分け、レネットのいる小屋へと辿り着く。夜は明かりを消しておくようにという言いつけをきちんと守っているのか、小屋は一見無人であるように見えた。しかし微かな油の臭いが、そこに人がいることを示している。
扉まで近づき、弾む息を整えてから軽く叩いた。
「レネット、私だ」
「……アルル?」
小さな声が返ってくる。扉の前に置いたもの——これもアルレクスの助言だ——を退かす気配がして、ゆっくりと扉が開き、ヴェールを被った少女が現れた。
「何事もないか?」
「……マルがいるわ。えっと、マルスランっていう」
「知っている。無事なんだな。よかった」
ほっと胸を撫で下ろす。しかしレネットは視線を逸らして、声色を落とした。
「魔女に
ヴェールの下の表情はうかがえないが、思うところがあるらしい。あるいは、マルスランが何か言ったのかもしれない。アルレクスは首を横に振った。
「そうではない。夜も遅いのに、見通しの悪い森を探し回るなんて、あまりに無謀だ。君もそう思ったから、マルスランを探してくれたのだろう?」
「どうしてわかったの?」
思わず、と言った様子で顔を上げたレネットの足元を、アルレクスは指差す。
「裾も靴もずいぶん汚れている」
「……あ」
恥じ入るように、レネットはスカートの裾をぎゅっと下に引っ張って、汚れた足を隠そうと奥に引っ込む。続いて小屋の中に入り扉を閉めると、マルスランがひょっこりと物陰から顔を出した。
「さあ、マルスラン。戻ろう」
「まだ石が見つかってないから……」
やはり、月幽石を探して家を飛び出したらしい。マルスランの手も足もレネットと同様に汚れている。どうしても石を持ち帰りたいという態度を崩さなかったので、アルレクスはレネットに水を向けた。
「レネット、石はどこに?」
「……教えちゃったら試練にならないじゃない」
レネットは顔を背けて、不満そうにそう呟いた。その態度の意味するところがすぐには分からず、アルレクスは問いただす。
「何を拗ねている?」
「拗ねてなんかない」
どう見ても拗ねている。アルレクスが一歩近づくと、レネットはきっとアルレクスを睨みつけた。
「……みんなは、心配するのね。私だってお父さんがいなかった。誰だか分かりもしなかった。お母さんも私を産んで死んじゃった。だから頑張ったのに。一人でも大丈夫だって、私も頑張ったのに、みんな遠巻きにするだけ。迷子になっても誰も探してくれない」
「レネット、」
「何が違うの? 私だけ邪魔者。マルは愛されて、どうして私は……!」
声を震わせるレネットの肩を、アルレクスはぐっと引き寄せ、抱きしめた。レネットはそれ以上言い募ることなく、ただ息を呑んでアルレクスの腕の中でおとなしくしている。暖炉も何もない小屋にいるためか、冷え切った体がいたわしい。ヴェールが落ちてしまわないようにそっと頭を撫でると、強張った体からゆっくりと力が抜けていった。
「……落ち着いたか?」
「うん……いや、ううん、だめ。離れて。どうにかなりそう」
上着越しに胸に触れているレネットの頬がなんだか熱を持っているので、アルレクスは言われるままそっと体を離した。マルスランが顔を覆った手指の隙間からじっとこちらを見つめているのが実に気まずい。
「……そんなつもりではなかったんだが」
「そんなつもりではなかった!? 私はこれでも花も恥じらう乙女なの! 私との関係性ももっと真剣に考えてくれる? こっちは好きになって欲しいって思ってるのに!」
「それはありえないから諦めて欲しい」
「ちょっと——結構顔がいいからってど失礼な言い分がまかり通ると思わないで! ありえないってどこが?」
「君は元気すぎる」
そういうと、レネットはむっと赤くなった頬を膨らませた。ヴェールが落ちないように手早く整えて、こほんと咳払いをする。
「わかりました。それで、月幽石の在処でしたね」
指を胸の前で組んで、やたらと神妙に、神託が降りた巫女のように告げるので、マルスランが背筋を伸ばした。どうやらマルスランが望むようにしてくれるらしい。
「月幽石の在処は——」
「あ、ありかは?」
マルスランが先を促す。しかしレネットは、ふいに顔を背けた。
「忘れちゃいました……」
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