9歳児の花嫁修業

 まだおままごとが通りそうな小学校三年生に婚活など笑い事以外の何でもない話だが、加奈子はいたって真剣だった。


「パパもママも結構年齢が上なのよ、だから早くいい人を見つけないとダメなの」


 だから料理に洗濯掃除、花嫁として必要そうなスキルをどんどん身に付けさせようとした。

 もちろん思い立った所で一日二日では土台無理な話だが、それでも10年先の事を考えれば立派に果実が身を付けると言う加奈子の方針は何も変わってなどいなかった。


 どんなに容姿を磨いた所で、死ぬまで持つ物ではない。

 美女は三日で飽きるが、料理は死ぬまで飽きない。家庭の事を安心して任せられる人間だからこそ亭主も仕事に精を出すことが出来る。

 自分がそこまでの存在であるとうぬぼれているつもりはないが、実際に円満かつ長持ちする夫婦と言うのはそういう物だと加奈子は思っていた。


「なんで急にそんなこと言い出したの」

「今言った通りよ、パパは今年で五十歳。おじいちゃんでもおかしくない年齢よ。パパはあと十年ぐらいで社長じゃなくなるの。その間に優樹菜はいっぱい身に付けなきゃいけないの。優樹菜がみんなより前に行けているのは今だけなの、ちゃんと使うべき時に使わなきゃいけないの。おいしい食べ物だって腐らせちゃ食べられないでしょ」


 優樹菜の素朴な疑問に対し、加奈子は優樹菜の数倍の言葉を持って答えた。その声は早口ながらいつになく甘く、そしていつになく重かった。




 藤平浩輔に熱愛発覚、その日の朝のニュースの第一報は全局それだった。


 そして政治やら事件やら国際情勢やらの他の多数の重要なニュースを差し置いてその件についてダラダラと10分以上垂れ流していた。NHKすら、普段のニュースがひと段落した所でそのニュースを述べていたくらいだった。


「ええっ……ショック……」

「どっちのですか、ああ藤平さんの方か、私は浩輔さんの方が好きなんでまだ……でもうちの妹は藤平さんの大ファンで」

「とにかくおめでとうさん、結婚してもネタの切れは失わないでよね」


 小学校の時の同級生だったがその時以来顔を合わせておらず去年ライブでただの客として来ていた時に17年ぶりに再会し、その時にその縁で一緒に言葉を交わして以来の付き合いだと言ういきさつまで事細かに語られていた。町の人たちの声もまた加奈子の顔を苦々しくせしめ、頭の毛を逆立たせていた。


 何が超人気漫才師だ、所詮は二十九歳になっても子どもどころかやっと彼女一人作れただけの少子化対策に全く貢献できない連中じゃないか。

 あっちこっちに出ずっぱりで金があるのならばこの国の為にたくさん子どもを産んでみろ、それがこのニュースを聞いた時の加奈子の本音だった。


「上だよ上、ほら上だ!……まあわたくしたち自分の芸を12年間かけて育ててみましたけど、上見てみたら3年でこんなすごいのができてました」

「やっぱり大自然にはかなわない、やっぱりうまいな甲州の桃!」


 陳腐でローコストな農作物のCM、いかにもその時旬な芸人を引っ張り込んで適当に持ちネタまがいのアピールをやらせるだけ。

 その桃がどう優れているのかのアピールは全くない。確かにローコストかもしれないが、ハイリターンも見込めそうもないCM。こんな連中が年間11本もCMをやっていると言う話がヘラヘラした顔のキャスターから放たれると加奈子は全身の血が吹き上がりそうになり、あわてて同じニュースばっかりで面白くないわと言いながらテレビを消した。



「お料理は大変なの。まず包丁よ。肉や魚が切れる物が、指が切れない訳ないでしょ?

 それからもっと危ないのは火よ火。火がうっかり木とかに燃え移ったら、この家あっという間になくなっちゃうわよ。そうでなくてもやけどとかするし」


 もちろん掃除をしないのは衛生的に良くないし、洗濯が下手なのもまたしかりである。とは言え、掃除や洗濯で人が死ぬ話はほとんどない。

 動かそうとしたタンスに潰されるとか、水にぬれた手で洗濯機を触って感電するとか言う話がない訳でもないが、料理に付きまとう危険とは程度が違う。だからこそ加奈子はまず優樹菜に料理を教えにかかった。



 古臭い発想だと言う自覚はある。とは言えその古臭さは、加奈子にとっては芳香と言うべき物だった。古くから受け継がれ自分たちもまた受け継いで行くべき物が世の中にはある、それを伝える事を怠れば自分の人生まで壊れてしまう。


 ある意味では利己主義的な発想と言えなくもないが、それもまた親として当然の責務と言う物であり、遅かれ早かれやらねばならない事を今やってるだけなのだと信じていた。


「包丁が重たいよ」

「やっぱりそうよね。でもそれがお料理を作るって言う事の重みなの」


 とは言う物の、優樹菜に加奈子と同じ包丁を持たせるのは無理があった事は言うまでもない。むろんその手つきもおぼつかず、練習用に切らせた大根はずいぶんと不揃いかついい加減な切れ方であった。


「じゃあ明日軽くて優樹菜にも使える包丁を買いましょうか、そうそれがいいわね。とりあえず探さなきゃいけないわね。どんなのがいい?もちろん安くてできれば長持ちなのがいいけど、まあまずは小柄な果物ナイフとかから始めた方がいいかな」

「話が早いよ」

「さっき言ったでしょ、パパは五十歳でママは四十二歳よ。優樹菜ぐらいの年齢の子どもがいるならばパパもママももう十歳若くても全然おかしくないの。だからそういう事なの、時間は有限なの」


 加奈子が饒舌な時は、優樹菜は何も言わない。

 何か言った所で反論が幾倍になって帰って来る相手に対し抗弁するのは相当に難儀な話であるし、しかもその理論が立て板に水の上に理屈が通っているから小学校三年生には言い返す隙が見つけられず、ただ黙っているしかなかった。







 優樹菜が借りて来た猫のようにおとなしくふるまい、徹底的な主従関係を仕込まれた犬のように心底にわだかまっている不満を覆い隠して作り笑顔をしながらじっと立っている。

 その一方で、その猫と犬をかけ合わせたような存在に物を渡そうとする鳥は、嬉々とした表情で目を光らせながら人間の女性に話しかけまくっている、


 何よりも無駄を嫌っているはずの鳥が、まともに使うかどうかわからない果物ナイフを積極的に探し求めているのは、鳥に言わせれば全くの雑音かつゴミである存在のせいなのだが、本人は全く気付いていない。

 商品の存在をアピールするためという目的で煌々と照っている照明により、自分の雛がまぶしがって顔をしかめ十月半ばに着るには厚すぎた服のせいで汗を掻いていると言う現実もまるで目に入っていなかった。


「ママ優樹菜の作るお料理早く食べたいなー。パパだってきっと喜んでくれると思うよ。ああそれから、おばあちゃんも。もちろん優樹菜の恋人の男の人も。ああごめん、ついあわてちゃって」

「ああ、うん」


 店員も冷たいもので商品を売り利益を稼ぐために、優樹菜の学芸会レベルの芝居を見抜きながらもこちらのお嬢様にならば大変よくお似合いと思いますよとか言うセールストークをこねくり回していた。

 その店員のセールストークと営業スマイルは加奈子の気分をひたすらに高揚させ、彼女の舌の潤滑油になった。優樹菜と店員の笑顔、それだけで加奈子は幸福な気分になれていた。


 加奈子にしてみれば、優樹菜を怒鳴りつけた記憶は一切ない。あくまでも理性的かつ丁重に自分の意見を述べ、してはいけない事はきちんと理性的に教えているつもりであった。

 何かが起こるとなぜそうしてはいけないのか、その旨をきちんと伝えていた。どんなに優樹菜が駄々をこねても決して怒る事はしなかった、いや怒鳴り声を上げた事もあったがそうしたら必死にその理由を説いて聞かせた。そうして自分の考えを伝えるのは、優樹菜を物や人を大事にする理性的で賢い人間に育てたいからだった。


 優樹菜とて赤ん坊から今まで、家族のみならずありとあらゆる他者に触れて来た。他者から投げかけられたそれぞれの物に対し、優樹菜は自分なりの感性で反応しようとした。

 しかしその度に加奈子は優樹菜に向かってカモシカの足で走り寄り大きな翼を広げ、優樹菜にとって害悪であると判断したらゆっくりと羽を動かし弱い風を起こして優樹菜より遠ざけ、優樹菜の未練をゆっくりとかつ着実に断ち切って行った。

 やがて優樹菜が第一次反抗期を迎えると加奈子は妥協への着地点を考えるようになり、絶対に浪費にならないお菓子と言う物に優樹菜の興味を向かせた。それも強い味とカロリーを与える事が本領である駄菓子ではなく、ちゃんとした専門店で作られた名前付きの菓子を与えた。本格的な味を学んでパティシエにでも目覚めてくれればよしという期待も込めた発想である。

 


「お買い上げありがとうございました」

「ありがとうございます!さあ、帰ったらこれでリンゴを切ってみましょうね。優樹菜が切ってくれたおいしいリンゴ、パパにも食べさせてあげたいよねー」

「ママ」

「何どうしたの、大丈夫使い方ならば家に帰ったらママがゆっくり教えてあげるから、それとも何か他に欲しい物でもあるのかなー」

「前!」


 満面の笑みで横を向いて優樹菜と話していた加奈子は、前と言う優樹菜の叫び声にとっさに前を向き、すぐに優樹菜の方に視線を反らした。


「うわっと!」


 そんなちぐはぐな事をやった結果、加奈子は自分の方に向かって歩いて来た男性と衝突してしまった。加奈子は立膝になって体勢を保とうとしたが叶わず仰向けに倒れ込み、財布の中身が散らばってしまった。


「すみません!大丈夫ですか」

「いえいえすみません、私もよそ見してまして」


 目鼻立ちが整った顔をしながらどこか疲れている感じの男性、加奈子と衝突したその男性は極めて申し訳なさそうな顔をしながら加奈子の財布に入っていたカード類を拾い集めていた。

 倹約を旨としていた加奈子の財布にはポイントカードその他の類のカードが山と入っていたが、そのどれよりも存在感は放っていた銀色に輝くカードに、その青年は少しの間見とれていた。


「凄いな……ああすみません失礼」

「ああいえいえ」

「僕なんかじゃ一生持てそうにないカードを」

「私もできる事なら一生使いたくないカードですけどね」


 クレジットカード。亭主と義母から言われて作ったもののカード破産の恐怖を中高生時代にテレビや親から徹底的に叩き込まれていた加奈子には全くもって無用の長物であり、ほぼ二人へのお義理で持っている代物だった。

 その代わりに財布には常に十万円以上の現金が入っており、それで買えないならば諦めろと言うのが加奈子の発想だった。


「かっこいいお兄ちゃんだね」

「ありがとう、じゃあ僕は買い物があるので失礼します」

「ごめんね優樹菜、ママつい優樹菜とお話しするのが楽しくなっちゃって。じゃあおうちに帰ろうね」

「うん」



 優樹菜のさわやかな笑顔に加奈子は改めて喜びが沸き上がり、そして意気揚々とデパートを後にした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る