翼を広げる鳥
あまり高級な物を着て行くのは敷居の高いと言う印象を与えると同時にあからさますぎて反発を買うし、かと言って普段着で行くのは逆に嫌味ったらしいし、場合によっては逆に空気を重くする。
だから平均よりやや高額なぐらいの、ある意味での制服と言う物を加奈子は身に纏っていた。
優樹菜の通う小学校のPTAの集まりのためだけの服。あまりにも高額かつ無用な投資にしか思えない服装。加奈子は優樹菜とか優樹菜の同級生の母親とかと会うと言う事云々以前に、この服を着ていると言う事実が嫌だった。
「さて今日はクリスマス前に開かれる音楽会のお話ですけど、皆さんはどう思われます」
持ち回り同然の格好で任命されながら真面目に会長を務めている女性の一言により、それまで好き放題におしゃべりしたり番茶をすすったりしていた母親たちも目的を思い出したかのように彼女の方を向いた。
「今回の楽曲はこれまでと比べてずいぶんと目新しいそれのようですけど、一体どなたが決めたんでしょうか」
「それはもちろん先生がお決めになったんですけれど、ああ担任の先生だけではなく音楽の先生もかなり強力に推したみたいですけどね」
普段は童謡やクラシック音楽が演奏される事が多かったが、今年は違っていた。
二十年ほど前の恋愛ドラマの主題歌であり、CDも二百万枚近く売れ、今でもクリスマスシーズンになると流れて来る曲。それが今年の音楽会で使われる曲であった。その時大学生であった加奈子も当然嫌になるぐらい耳にしていたし、そのドラマで描かれているような恋愛を望んだ学友もいるし実際にやった人間もいたらしい。
もちろん加奈子もそれなりに魅かれはしたが、すぐに住んでいる世界が違うなと諦めていた。
「島さんはどうお思いなんです」
「まあ、その時は私も女子大生でしたしちょっとだけ憧れたりもしましたけどね、今になってみるとなんでそんな物なんか追いかけてのかなーってお恥ずかしい限りで」
「私はその時女子高生でしたけど、大学に入ったらそんな恋愛が出来るのかなーなんて思って必死になって勉強しましてね」
「ああわかりますわかります、私も必死になってロケ地になった大学に入ろうと勉強して受かってみたら全然別のキャンパスに通う羽目になっちゃって泣きながら笑ったなんて思い出もありまして」
「私はその時女子中学生でして、三つ上の姉さんがもう夢中になってテレビにかじりついててまして」
加奈子は母親になった年齢としては自分が一番年かさなのだろうと言う事はこれまでの付き合いでなんとなく察していたが、それにしても同じ年の子どもを持つはずの女性たちの盛り上がりぶりが異様に思えた。
こういう世俗的なドラマに憧れた母親が同じように世俗的な流行に飛び付かせる子どもを育てるのもごもっともな話であり、いいとか悪いとかではなくそれもまた処世術の一種なのだろうと加奈子は思っていた。
「それでも私としては心配なんですよね、なんか下手なクラシック音楽や童謡とかよりもそういう曲って古臭くなる危険性が高そうで。今の子たちはどう思ってるのか」
「島さんったら本当にそういう事気になさいますよね。でもこうして生き残ってるって事はそういう事なんじゃないですか」
「まあそうでしょうね、私には何十年先の事はわかりませんよ。
でもまあ、私としては優樹菜がどんな男性と結婚するにあたっても恥ずかしくない女性にだけは育てなければならないですし、皆さんもそうでしょう。まあなんだかんだ言っても少子化のこの時代、一人でも多くの子どもを産んで立派な親になってもらいたい物ですし。
ああしゃべりすぎたみたいで申し訳ありません、それで音楽会のお話でしたね。まあ私としてはそれでいいと思いますけど皆さんは」
「私はいいですけど。あのそれから話はずれますけどちょっと島さんに伺いたい事があるんですけど、島さんってあの藤平浩輔って二人組がお嫌いなんですか」
「いや別に」
状況に乗っかって自分の思想信条を思いのままにぶちまけてしまい赤面した加奈子に、やはり少し顔を赤らめながら声をかけて来た隣の席の女性の質問に対し加奈子は何事でもないようにさらりと答えたが、この何のことはないつもりの雑談に対して自分が回答した瞬間部屋の中にいた人間が一斉に自分を見つめて来たのに加奈子は内心びっくりした。
好きでも嫌いでもない、ただの無関心。ただの一過性。
それが藤平浩輔に対しての加奈子の評価の全てだった。大事の娘の、限りある時間をそんな物に費やさせる訳には行かない。だからこそ、意図的に遠ざけて来た。決して、嫌いなわけではない。
だから嫌いなのかと聞かれたら、嫌いではないと答えるしかなかった。
「あらそうですか、優樹菜ちゃんが藤平浩輔さんの話になるとなんかつまらなさそうな顔をしてそっぽを向いてしまうってうちの息子が言ってましたけど」
「私にはどうしても面白さがわからなくてですね」
そうとしか言いようがなかった。
正確にはまともに見てなどいないだけなのだが、それを言えば見もしないで判断したのかと言われるかもしれない。食わず嫌いと言うお子様その物の物言いであり、四十二歳の母親の取る態度ではない。
加奈子は自分の逃げ口上の情けなさっぷりに呆れ、帰宅するやPTA用の制服を脱ぎ捨てて床に叩き付けた。彼女が心の平静を取り戻したのは、ベートーベンの運命を30分間ほど聞いてからだった。
そして次の日、加奈子は義母にせがまれる形でデパートへと向かっていた。お若いですねと言う言葉が美辞麗句にならないほどに足腰の矍鑠とした義母は、デパートに着くやエレベーターではなくエスカレーターで5階まで上った。
「あんまりその、はしゃがないでくださいね」
「加奈子さん、あんたは私を年寄りだと思ってるのかい。まあ実際年寄りなんだけどさ、これでも放蕩亭主をしっかり支え幸雄って言う息子を立派に育てた女なんだからね。その事を忘れてもらっちゃ困るよ」
義母にしてみれば、優樹菜と言う可愛い孫娘に何か与えたくてたまらなかったのに、嫁は自分の手を全力で薙ぎ払ってくる。その代わりにそれ以外の事に対しては恐ろしいぐらい忠実に仕えてくれている。
自分の発言権を増すためと言う目的が見えていても、自分の事を厄介がらず扱ってくれる心地の良さは何事にも代えがたいのもまた事実だった。
「加奈子さん、私はもうちょいであの世へ行っちまうんだよ。その前に認知症なんて恐ろしい物にかかっちまうかもしれないし、最期ぐらい好きにさせておくれよ」
「まあいいですけど、その際にはおばあちゃんのおかげだって事を加奈子によーく聞かせてあげて下さいね」
「昔から思ってたけどさ、あんたって鳥みたいだね。そんなにピーチクパーチク鳴いてて疲れないのかい」
「クラシック音楽っていいですよ。昔の人と対話してる感じでして、古い小説とかも読んでいると作者や登場人物の周りに広がっているであろう世界が思い浮かべられて」
義母が四十二歳だった時はどうだったか。昭和の時代であったからより嫁姑の関係は厳しく嫁が姑に対してうんぬん言う事は許されにくい空気があったが、それを加味しても自分はおおむね文句も言わずにおとなしくきちんと姑に仕えて来たつもりだし、その暇を盗んで休んだり自分なりの楽しみも見つけたりもしていた。
だが義母に言わせば今の加奈子はきちんと自分に仕えている事は変わらないが小鳥のようにせわしなく動き回っては激しく鳴き、こちらが人生の先達として経験を持ち出して口を塞ごうとすると一時は成功するが極めてまじめに勉強して改善策を叩き付けて来る女だった。そんな生活を数年も続けている間に、自分がすっかり嫁に主導権を握られている事を認めざるを得なくなってしまっていた。
一方で、加奈子が何を楽しみに生きてるのかと言う事について疑問も感じていた。親鳥が羽を汚し時に他の生物に襲われる事があってなお必死に雛鳥にエサを運ぶように加奈子の肌は四十二歳と言う年齢以上に荒れており、白髪やしわも目につき始めていた。
いくら分厚く化粧を塗りたくった結果とは言え、七十五歳の自分より加奈子の方が顔のしわが多かったのには驚き、出がけに遠慮する加奈子に強引に化粧をしたぐらいだった。
「ねえ加奈子さん、いくらぐらいだったら孫にポーンと与えちゃっていい訳」
「お義母さんの今月の年金の一割か、せいぜい六分の一ぐらいですかね。それ以上やったらお義母さんみたいな年金生活者の生活は成り立ちませんよ」
「何よ、せっかく財布に五万円も入れて来たのに」
「お義母さんは自分のお洋服や化粧品でもお買いになってください。足りなければ私が出しますから」
加奈子は小鳥のようにせわしなく動きながら、優樹菜に対しては大きな翼を広げていた。自分を育ててくれた義母には最大限の感謝を示しつつ、優樹菜に向かって飛んでくる物に対してはその両翼を閉じたり開いたりしていた。
例えその目的が善意であったとしても、優樹菜に向かって害になるであろうと判断すれば容赦なく弾き飛ばす。はるか未来、優樹菜が一人で空を舞い、自分でエサをついばめるようになるまで自分が立派に育てなければならないと加奈子は信じて疑っていなかった。
包まれている分には実に温かく心地の良い翼に包まれながら、義母は苦笑いを浮かべつつ自分の為の洋服を探した。
「やっぱり優樹菜にもねえ」
「それでお義母さんが満足するのならばいいですよ」
自分に甘えて来た義母に対し、加奈子は好きにすればと言わんばかりの口調で優樹菜へのプレゼントの購入許可を出した。そして結局、義母はオウムのぬいぐるみを買った。
「あんまりしつこく感謝しなさいって言うんじゃないよ」
「わかりました」
義母の言葉を口では了解した物の、内心では優樹菜にきちんと祖母へのお礼を言わせなければならない、恩知らずだけには育てないようにしないといけないと強く思っていた。信念を持った加奈子の翼は、一匹のぬいぐるみを優樹菜に通すとまた固く閉じた。
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