島加奈子と言う女

 夫に焚き付けられた翌日の日曜日、加奈子は四十年以上生きていて三度しか行った事のないビデオショップに足を運んだ。


「申し訳ありませんが藤平浩輔のライブその他のDVDは全てレンタル中で……」


 そして加奈子は棚をまともに見ようとせず、直接レジにやって来て藤平浩輔のDVDの場所を聞いた。

 こんな何の意味もない茶番に一秒たりとも無駄に時間を使いたくなかったからである。そして何より、どうせ巷で大人気とか言うならば有り余っているだろうからまともに探さなくても一枚ぐらいあるだろうと言う期待もあった。


「いや本当ですかも何も、本当にそうなんですから。ああセルDVDなら一枚だけあったはずですけど」

「おいくらですか」


 店員から三千五百円と言う値段を聞かされた加奈子は、高くもない天井を仰ぎながらわざわざ懇切丁寧に対応してくれた店員に何も答える事なく店を出た。

 レンタルなら三、四百円の代物をわざわざ三千五百円も払ってまで見る必要があるのだろうか。その挙句加奈子の背中から飛んで来た


「あああったあった、この藤平浩輔のライブDVD下さい」

「はい毎度ありがとうございます」

「いや助かったよ、ネットで転売野郎が五千円で売りつけてるのを見て嫌になっちゃってさ、しかも今朝試しに見たら一万円になってたし」


 三千五百円どころか一万円でも買おうとする人間がいると言う男性と店員との会話は、加奈子の心を容赦なく打ち据えた。

 宝石や金を買うのとは訳が違うと言うのに、一体彼らの何にそこまでさせるほどの魅力があるのだろうか。

 クリスマスまで待つべきか、しかしその時には既にピークが終わっているかもしれない。その時になって与えた所で何の意味があると言うのだろうか。加奈子は優樹菜に小遣いを与えていない訳ではないが、その小遣いは自分が必死に誘導して確実に無駄にならない菓子に注ぎ込ませていた。







「ごめんなさい、全部借りられていてなかったわ。全く大企業の社長の妻がこんな調子で大丈夫なのかしらね、時代の流れも読めない鈍感な人間で。

 まあ少しあの二人の人気を甘く見てたってのもあったかもね。でもまあ、代わりにおいしいケーキ買って来たからどうかこれで我慢してちょうだい。まあ話が全然違うって言われたらごめんなさいしか言えないママを許してね」


 優樹菜と他の同年代の子どもとの間に溝を作らせないために藤平浩輔のDVDを入手しなければいけないと言う話が、加奈子の中で優樹菜を満足させるために何をすべきかにすり替わっていた。

 加奈子はそのすり替え行為をやたら饒舌になって優樹菜に詫びたが、優樹菜は極めて小さな声でうんと言う二文字を返しただけだった。


「このケーキを売ってる店ってのはねえ、パパが生まれたぐらいの年からやってる」

「ママ」

「ああごめんなさいごめんなさい、つい調子に乗っちゃって。でもねえ、やっぱり」

「昔から残ってる物はいい物、でしょ?」

「そうそう、それよそれ!だってダメな物はすぐ消えちゃうじゃない、わかるでしょその事は。だからね、こういう物を、ああごめんね」


 おいしいとさえ言わないで流れ作業のようにケーキを口に運ぶ優樹菜に対し、加奈子は水を得た魚のように舌を動かしつつ皿を並べフォークを出していた。


 キツネがどうしても手が届かない高さにあり食べられなかったブドウをどうせすっぱいに決まっていると負け惜しみを述べたと言う話があるが、加奈子と言うキツネにとってそのブドウは自分の背の高さと同じ高さにあったブドウであり、かつ本人にとって食べる事が大変に望ましいはずのブドウであった。

 にもかかわらず加奈子は十数分で食べ終わるはずのブドウを、すぐに腐敗するだろうと言って手を出そうとしなかった。空腹をわざわざやせ我慢してまで一体何を得ようと言うのか、鳥たちもあざ笑う前に呆れる方が先だろう振る舞いである。




 家族三人で暮らすには少し大きな邸宅。大企業の社長が暮らす家としてはふさわしいのかもしれないが、その家を守る主婦としては大変である。特に掃除は大変だ。

 もちろん優樹菜に手伝わせる事もあるが、小学生ができる仕事などたかが知れている。まあ掃除と言っても基本的には掃除機を動かすだけだが、この日は違っていた。


 優樹菜を送り出してから帰宅するまでの四時間余りで、加奈子は水回り以外の全部をやってしまうつもりでいた。はたきがけを行い、叩き落したほこりを掃除機で吸い込むだけではなく、たくさんの雑巾を用意していた。水拭き用に乾拭き用、もちろん洗剤も用意されている。ハンディクリーナーやモップもある。潔癖症と言う訳ではないと自分では思っているし、実際加奈子がここまで大掛かりな掃除を行うのは二ヶ月に一度である。


 加奈子はタンスに洗剤を吹き付けた。力強く、二度三度と吹き付けた。そして洗剤を雑巾に馴染ませるとゴシゴシと言う音が聞こえそうなほどに力強く磨いた。

 その後にさらに乾拭きを行い、黒くなった雑巾をビニール袋にしまい込んで笑みを浮かべた。そして、同じことをもう一回繰り返した。


 確かにハウスダストは健康の大敵であるが、それにしても今日の加奈子は執拗だった。普通の家の倍近くの数と大きさがある家の中の、チリやホコリがありそうな場所をその都度二度拭きどころか四度拭きし、家具は照明の光を受けて輝きを放つようになった。

 四十二歳の特段スポーツをしている訳でもない女性が行うにしては骨が折れそうな行いを、加奈子はまるで水を得た魚のように行っていた。一年に一度の大掃除と言う訳ではなく、二ヶ月に一度の定期的な掃除だと言うのにである。


「あーあ、まったく掃除をさぼっちゃうと困るわね。まあもう少し掃除が好きにならないとダメなのかな」


 両手に雑巾を持ちながら嬉々とした表情であちこちを磨いていく加奈子の口から放たれたその言葉を誰も聞いていない事は、加奈子にとって相当な幸運だったろう。顔と声となし様からあまりにも乖離したその物言いに、加奈子は何の疑問も抱く事はなかった。



 加奈子が幸雄の妻になった時、アイランド産業の経営は決して順調ではなかった。このままでは数年で数多の企業のように不況の波に呑まれて消えてしまうのではないかと思われる程度には不安定であり、加奈子もまた遠い世界であった社長業の妻としての務めを果たすべく義父や姑に付き従い奔走した。

 その結果もありアイランド産業は立ち直ったものの、優樹菜を作る暇が出来たのは三年も後だった。別に幸雄が大企業の社長であると知って結婚した訳ではない加奈子にとり、それまでの三年間はこれまでの人生のどの時にもまして大変な時代だったと自認している。

 夫に代わってのお得意先や銀行詣で、まるで慣れなかった礼儀作法や大人の教養などの習得。もちろん家事スキルの向上。たいていの事は、その三年間に比べれば大した事はないで方がついてしまっていた。


 当然ながら、就職して結婚し退職するまでの間も加奈子はいっぱい叱責を受けて来た。だがその三年間の間に受けたストレスやプレッシャーは、それまでの三年間とは桁もベクトルも違っていた。

 義父母に対しては先人の言う事に間違いなしと言う精神で素直になり乗り切っていたが、会社の事となるとそうもいかなかった。

 アパレル企業及びCDショップの店員上がりと言う加奈子を、ほとんどの人間は端から飲んでかかった。三代目様の夫に、大した経歴のない夫人が率いる会社など潰れるのは時間の問題だと思っていたらしい。

 だからこそ、大胆な措置を取るように夫に勧めた。今では会社の経営に口を出す事もなくなり優樹菜の子育てに集中している加奈子だったが、その加奈子の影響は幸雄の中で未だに色濃く残っていた。


 隙を見せたらやられるのは当たり前。それが弱肉強食の世界と言う物ではないか。加奈子自身社長夫人になってからの十二年間の間に、たくさんの会社が潰れるのを新聞・雑誌・テレビ・ネットなどありとあらゆるメディアで見て来ている。そしてこの目でも三社ほど見て来た。そしてその全てが、元をたどればほんのちょっとの油断から発した蟻の穴によって堤が崩れたのである。


 自分の年齢は既に分かっている、もはや二人目以上の子どもは望めそうにない。だからこそ一粒種である優樹菜の将来には蟻の穴さえも開けさせたくない。

 加奈子は両手に持った雑巾で必死にハウスダストを取り除いた。加奈子の両手に握られた雑巾は意志を持った生命体のように機敏に動き、主の期待に答えチリもホコリも雑菌も吸い上げていた。

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