島星人

 土曜日の夕刻、家に帰って来た優樹菜は手も洗わない内に玄関先にへたり込んだ。その顔には生気は乏しく、全身から疲れと言う言葉が醸し出されていた。


「どうしたのよ優樹菜そんなに疲れ果てた顔をしちゃって」

「お母さん私、同じ年の子どもがいない所へ行きたい」

「無理な事を言わないの。さあ早く立ち上がって手を洗ってうがいをしなさい」

「うん………………」



 優樹菜がその言葉を口にしたのは今年になってから十回目である。学校がある以上無茶ぶり以外の何でもない話だが、優樹菜がそれをわかっていてなおそれだけの回数言っているという事が事の深刻さを物語っていた。

 もっとも、加奈子にとっては言われる度に忘れていたため一回目と何も変わらなかったし、今回もまた加奈子はつまらない泣き言の一環だと思い特に気にする事はなかった。


「ねえ、塾で一体何があったの。同じ年の子どもにいじめられたの。どこの誰」

「ううん、塾でも休み時間があるんだけど、私だけひとりぼっちなの」


 しおりがはさまった文庫本を持ちながらと言う加奈子は優樹菜に視線を向けた。


「そう……なんで?なんで他の子とお話しできないの?」

「ママ、やっぱり私も……」

「何を?」

「いや、何でもないよ!何でもない!」


 必死に助けを求めるポーズをしておきながら肝心な所になると話を引っ込めてしまった優樹菜を怪訝な目で見つめながら、加奈子は再び文庫本に目を通した。

 十五年前に発売されたベストセラーとなったサスペンス小説であり、一日や二日で読み終えるのは困難な長編である。実際に加奈子はまだ四分の一も読んでいない。言いたい事も言おうとせずぐずぐずする優樹菜より、目の前の小説の方が今の加奈子には大事だった。


「ちゃんと復習しておきなさいよ」

「お水ー」

「自分で飲みなさい」


 優樹菜がペットボトルからミネラルウォーターを注ぎコップ一杯分飲んで適当に片して去って行く有様を、加奈子は悲しそうな目で見つめた。

 あそこまでふらふらになっておきながらいざとなると口をつぐんでしまった我が子を見てしまった加奈子は一体何が優樹菜の口を塞いでいるのかわからす、その事が親として不満だった。




 もっとも、心当たりがない訳でもない。いつまで居続ける気かわからないあの二人組の話についていけない事が辛くて仕方がないのだろう。

 真面目なニュース番組でさえ、彼らの事を取り上げている。経済効果がうんぬんとかファン層がどうとか動画サイトがどうたらとか、大企業の社長夫人としては気に留めなければならない情報ばかりが揃っているがそれにしてもと思わずにいられない。社長夫人なんては気楽なもんだとか抜かす奴らに加奈子は心の中で強く毒づいた。


 学校にせよ塾にせよ、同学年の子どもたちと触れ合わない訳には行かない。そうなればどうしてもあの二人組が頭をもたげて来る。そんな中で落語やら狂言やらの話をした所で教養があるなと感心されるような事がある訳はない。


「たまにはトロでも食べさせてやらないといけないって事かしらね……」


 加奈子は義父が二十年前に買った文庫本を閉じると深くため息を吐いた。今はつまらないと思っているかもしれないが、十年後二十年後には絶対に莫大な財産になる。その為には我慢させるべきところは我慢させ、人に迷惑をかけない様な人間に育て上げなければならないと信じている。

 とは言え、目先の事を考えない訳にもいかない。流行の物に触れさせないのと同じ意図で粗食ばかり与えて来たせいか、優樹菜はクラスで五番目に背が低く体重も二番目に軽かった。

 金持ちが太っていて貧乏人が痩せているのは前世紀の話であると夫から聞かされた時は正直驚きもしたが、言われてみればそうかもしれないとも思っている。健康に気を配ってカロリーが低く栄養価の高い物を選んで食べている自分たちに比べ、腹を満たす事が優先と言う人間はどうしても脂肪と糖分との付き合いを強いられる事が増えると言う理屈らしい。


「高いわね、何を見ても高いように見えて来るわ」


 年収3000万円の会社社長を夫に持つ身であっても、高いと言う言葉から逃れる事は出来なかった。いつ何時会社や夫に何が起こるかわからないのだから、むやみに無駄金を使う事なんぞ出来ない。だからこそ削れるところは徹底的に削っているつもりだ。だから不必要な物はなるべく買わない事にしている。服だって必要な時以外は数千円の普段着しか着ていないし、着せていない。


 夫の事を所詮三代目様だなと思った事もある。たまには自由に優樹菜に同級生の好き好むような代物を与えてやればいいのにと言われた事もある。幼稚園や小学校低学年の女子の好む物と言えば甘い菓子に赤やピンクの洋服やアクセサリー、それに可愛らしいキャラクターのグッズと相場は決まっていたし実際優樹菜もそういう類の代物を好もうとした。


 だが加奈子にはそれらの代物が大変な浪費に見えて仕方がなかった。


 社長令嬢、その上に四十歳にして初の子ども。父親や祖母から甘やかされるに足る条件は十二分に揃っていた。


「そんな安物で大丈夫かい?」

「お義母さんはまず他人に見られる事のない普段の買い物に数万円のハンドバッグを使いますか?費用対効果に経済観念、その2つを忘れたら企業は簡単に潰れますよ。使いやすくて丈夫で長持ちって言うのならば喜んでお金を出しますけどね、子供服なんて子供が成長したら基本的にはいそれまでですよ。まあどうしても人様に見せなければいけない時はお義母さんが選んでくれた物に従いますけど」


 良い妻良い母であろうとすると同時に、良い嫁であろうともした。だから今年七十五歳になる義母の言う事は極力聞ける範囲で聞こうとして来た。

 料理も掃除も洗濯も、八年間の独り暮らしの経験を積んだ上に義母に師事して必死に励んだ。それでも自己の主張を引っ込める事はせず、むしろ逆に忠実であることを武器に主張を振りかざしていた。

 当初は六十代後半になってようやくできた孫にまともに触れられない事にいら立っていた加奈子の義母も、今では半ば諦めていた。


「これはまた意外な物を持って来たじゃないか。そんなに安かったのか」



 それで島幸雄と言う大会社の社長にとって、妻子と食卓を囲む機会と言うのは貴重な物である。そういう時に限ってありふれた家庭料理を作ってくれる加奈子は、取引相手との会食その他で豪華なディナーに慣れてしまっている幸雄にとってはありがたかった。

 それがこの日に限ってたくさんの、トロを始めとした多数の魚の刺身を並べて来た事は少し意外だった。一食だけでも五千円は下らなそうな食事を幸雄が家で取ったのはいつ以来の事だか、幸雄も加奈子も覚えていない。


「たまにはいいじゃない、優樹菜が最近疲れちゃってるから」

「優樹菜がか……優樹菜、どうしたんだ一体。悩みがあるならお父さんに言ってくれよ」

「ううん、何にも……あっおはしの使い方が難しいなーって」


 うつむきながら刺身を、ぎこちなくも正確であろうとする手つきで口に運ぶ優樹菜の姿にはほほえましさと言うより痛々しさが際立ち、幸雄は不安を覚えずにいられなくなった。だが加奈子は構う事なく右手に持った箸で刺身を口に運び、左手で醤油差しを握って幸雄に渡した。


「ねえあなた、こんな時に仕事の話もなんだけど、そんなに流行って早く動く物なの」

「ああ動くね、この刺身が傷むぐらいの速さでね。まあだからと言ってガツガツ求めすぎるといけない。その中でしっかり残る物とそうでない物を見極めねばならない」

「そうよね、むやみやたらに飛びついて損をしたら一大事だからね」

「あまりはしゃぐなよ加奈子、優樹菜をまた島星人にしたいのか」




 幼稚園に上がった時加奈子に叩き込まれていた古めかしい知識を振りかざしていた優樹菜を、園児たちは優樹菜の姓をもじって島星人と呼んでいた。

 島と言う姓は決して珍しい訳ではないが、島と言う言葉には大陸とは違った比較的小さい物であると言う概念が含まれている。ましてや本人たちにその意識がどれだけあったのかは定かではないが、星人と言う言葉には同じ星の人間でないと言う意味合いが込められており、優樹菜を自分たちの理解を超えている存在であると規定するには十分であった。


 その事を訴えた優樹菜に対し加奈子は気にする事はないと言ったがその結果優樹菜はますます孤立し、結果登園拒否の状態に陥ってしまった。

 この登園拒否は結局解消されず、年長組になって別の幼稚園に籍を移す事によりようやく優樹菜は幼稚園に通うようになった。



「そんな」

「じゃあはっきり言うけどさ、休み時間になると社の若い連中みんなスマホ見て笑ってるんだよ」

「ゲーム?」

「違うよ、あの藤平浩輔って二人組の漫才。いやコントがあったり時には手品もやったりするんだけど、ああ十月末とは言え気の早い奴は忘年会のネタとして仕込もうとしてるのかステップを真似してるのもいてな。うちの社でも今度」

「やっぱりそうなるのね……わかったわよもう、今度DVD借りて来てあげるから」


 無駄とわかっていても現金を注ぎ込むしかないと言う現実を夫から突き付けられ、不承不承と言わんばかりの調子で加奈子はようやく腰をほんのわずかだけ上げる事にした。


「でもね、せっかく借りるからにはちゃんと何べんも見てしっかり覚えないと無駄にしかならないと思うけど、時間は有限だし」

「愚痴をこぼすなよ、人間なんて多くの場合同世代の人間と付き合って生きて行く物だからさ、その為の投資と考えれば安いと思うよ」

「……ごちそうさま」


 それでもなお抵抗しようとした加奈子であったが、幸雄から正論でやり込められて言葉を失い、自分の皿と茶碗に何も残ってなかったのをいい事に逃げるように自分の皿と茶碗を持って食卓から去って行く背中には、まるで牙を失ったライオンのような影がのしかかっていた。

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