藤本弘樹

工員

「あっはっはっはっは!」


 粗野な笑い声が、建物の中に鳴り響いた。しかも一人や二人ではない、十人近い人間が二十四インチの空間を眺めて笑っている。



「やっぱさ、藤平浩輔って最高に面白いよな!特にあの上見てってギャグ!」

「オレは漫才の方が好きだな」

「ぼくはコントをやってる藤平浩輔のが好きです」



 薄汚れた緑色の作業服を身にまとった男たちの目を引き付けているのは二人の男たちだった。中肉中背で金髪姿の男と、真っ黒なサングラスをした背の高い男。二人の真っ黒なスーツ姿の男たちが右手の人差し指で天井を指しつつ、両足でステップを踏んでいる。

 いわゆるリズム芸であり、今時の大半の小学生が真似しているステップであった。


「とりあえずはさ、何でも身に付ける事って必要だよな。十年もここにいりゃそれなりに技術も付いたつもりだよ。こんな風に派手にガンガンって訳にはいきゃしないけど、それでも半年後には立派な親父だよ」

「先輩、サラッとすごい事言わないで下さいよ!ああおめでとうございます!」

「テレビの向こうでギラギラしてる連中だって俺らの作ったもんを使ってる、要するに俺らが貢献してるかもしれねえと考えると笑えるよなあ、だろ?」

「先輩面白いっすねえ!」


 その作業着服姿の男の中でもひときわ強い存在感を放っていたのは、童顔で小柄ながら強い存在感と高い笑い声を放っている津和野と言う男だった。


「俺さ、大学出て必死こいて就職活動したけど全部落っこちまって、ぶっちゃけしょうがなくここに来たんだけどさ、今になって思うとそれでよかったかもって思うんだよ。津和野先輩と工場長がいるから」


 恒久化する不況の中で、就職活動に悩みやむを得ないと言う形で妥協に妥協を重ねて希望と違う職種に付かざるを得ない事はまるで珍しくない。

 そういう過去を振り返りつつ頭をかきながらさらに笑うと言う器用な真似をやってのけた長髪の男の隣に、この場の空気にそぐわない顔をした一人の工員がいた。


「おいどうした藤弘、テレビ見ようぜ。ああもしかしてお前、お笑い嫌いだったっけ」

「いいえ全然、最近何となく疲れがたまってて」

「そりゃまずいな、オレが特別大サービスで肩でも揉んでやろうか」

「どうせそこまでしてもらわなくともなんて言う権利は僕にはないんでしょうね」

「おおそうだその通りだ、午後もお互い頑張ろうじゃねえか」


 今工場の食堂に置かれているテレビの中で己が芸を見せ付け、世間の話題を席巻しているお笑いコンビ・藤平浩輔をもじって藤弘と津和野に呼び付けられた藤森弘樹の顔には、まるで力がなかった。


 弘樹がこうして津和野に親切にされる事は全く珍しくない。この小さなコミュニティの中で四六時中過ごしていれば、どうしてもその組織の中で権力を持った物の色に染まっていく物である。

 だが藤森弘樹と言う人間だけが、権力者の色に染まらなかった。


「工場長もお前さんの事を心配してんだよ、そりゃいろいろあっただろうけどここにいる以上お前は俺たちの仲間、そういう事だ」


 この工場において最大の権力を持っているのは工場長の浅野治郎であり、その次に権力を握っているのは副工場長ではなく津和野だった。

 工員長と言う名目的にヒラの工員よりやや上だと言う意味の肩書きを与えられてはいるが同僚の誰もそう呼ぶ事はなく、津和野さんや津和野先輩と呼んで彼の事を慕っていた。

 津和野の立ち居振る舞いから自然発生した権力は、本人の意図とは関係なく徐々に膨れ上がって行き、浅野以下工場の責任者たちからも当てにされていた。

 大企業の下請けであるこの板金工場からはある程度のキャリアを積むと出世と言う名目で半ば強制的にその親会社に引っ張られる事が多く、その結果三十代後半以上の工員が少なくなっていたこの工場において津和野は貴重な存在であり、浅野たちの手により津和野は半ばプロテクトされていた状態だった。そして弘樹もまた津和野と同様にプロテクトされていたが、弘樹本人はその事を知らない。




 藤森と言う人間がこの工場に入って来たのは、四年前の事である。サラリーマンとして三年間勤めて来た会社が消滅し、路頭に迷っていた所に亡くなった彼の父親と旧知の仲である浅野治郎に拾われるような形でこの工場に務める事になった。

 同い年の津和野から比べれば偏差値で20以上の格差がある高校に進み、大学もまた工業とは全く無縁の分野に進んで十分に勉学を重ねた。そんな人間がいきなり異世界に等しい板金工場に、二十五歳になって放り込まれたのであるから戸惑わないはずもない。

 当然ながら最初はまともに仕事もできず叱られ通しであった。最初の一年間はほとんど研修を受けているような状態であり、僕なんてお荷物の給料ドロボーですよねが口癖だった。


「まあな、俺らに取っちゃどんな形でもここに入って来た以上仲間だ。足が早い奴もいりゃ遅い奴もいる。お前みたいに頭のいい奴もいれば俺みたいに頭の悪い奴もいる、一人ぐらいそういう奴がいたって構いやしねえだろ」

「でも……」

「まあサラリーマンに未練があるのはよーくわかるよ、でもこういうとこで技術身に付けとくと結構便利だぜ。工場長だってさ、お前がこうしてやる気があるからこそ使い続けてくれてんだ」

「それはここを追われたらもう次がないだけで」

「動機なんてそれで十分だよ。まあマイペースで行けよ、俺も同僚としてできるだけの事はしてやるしよ」


 浅野と津和野の厚情に甘える日々を過ごしながら、藤森は確かに板金加工の技術を身に付けた。しかし、未だに両名が醸し出す泥臭くもいとおしさのあふれた空気を身に付ける事は、未だにできずじまいだった。

 四年の間に、後輩もできた。だがその後輩たちに対しても藤森は丁重と言うより卑屈と言った方がいいぐらいの調子であり、その度に後輩たちを困惑させた。


「別に負い目を感じる必要はないんだよ、お前はここの工員なんだから」


 当然ながら、その藤森の態度に対して不満をこぼす人間も出る。その不満を耳にした浅野はある時食事中に温かい笑顔を作りながら藤森の隣に座り、右腕を伸ばして藤森を抱きかかえながら温かい言葉をぶつけた。

 だが藤森は無言のまま左手に持っていた缶コーヒーに口を付けると、一段と申し訳なさそうな顔をしてキョロキョロし始めた。すると浅野はバンと言う音が上がるほどの強さで藤森の右肩を叩き、今度は同じ笑顔でも先ほどとは違った威圧感のある笑みで藤森をにらんだ。


「あのさ、お前はいつまでよそ者のつもりだよ。俺ばっかり優遇されてみんなに迷惑かけてるんだろって思い込んでさ」

「思い込んでるも何も」

「いいか、お前はちゃんとしたこの工場の一部だ。でもな、機械の部品って奴は大半が普段機能してねえ。パソコンにキーボードってあるだろ?俺だって数年向き合ってるけど使った事のないキーたくさんあるぜ。俺は確かにそいつらは使わないが、でもそいつらは少なくとも邪魔はしない。でもな、言いたくないけどお前がそうやって腐ってるのははっきり言って邪魔だぞ。お前死にたいのかよ」

「そんな!」

「だったらもうちょい堂々としろよ、どんな経緯であろうが入ってしまえば同じだ。何せ俺はここの工場長だぞ、ここでは俺が一番偉いんだ。わかったな、お前は俺たちの仲間なんだから」


 いったん脅しめいた事を言っておいてから俺が味方になってやるからそんなに怯えるんじゃないと言わんばかりの浅野の物言いに、藤森はわずかに頬をほころばせた。

 そしてその時以来、藤森は一応背筋を伸ばして振る舞うようにはなった。後輩にはそれらしく技術指導の真似事も始めるようになり、逆に工業高校卒の後輩に教えられて愛想笑いをする程度の余裕もできた。


 とは言え親会社に上がる事が出来るほど藤森の金属加工業従事者としての能力が高い訳ではなく、また津和野のようにコミュニケーション能力が高い訳でもない。今の藤森にはここ以外に生きられる場所はないと言うのもまた事実だった。


(まあ、俺だってそれなりに夢は見たよ。でも今の俺にはカミさんと娘三人がいる、それだけで十分だ。藤森にもそういう奴が必要かもしれねえ。そりゃビジネスマンとして夢を叶えたいってのは俺にもよくわかるよ、でもさすがに無理ってもんがあるだろ。夢を捨てろだなんて言わねえよ、夢を変えた方がいいぞ)


 藤森が本当は何を望んでいるのか、浅野はよく知っていた。藤森の立場であればそうしたいであろう事もよくわかっていた。とは言え、あまりにも遠大な上に困難な道のりだ。一生かかっても無理だろうその夢を追い続けるよりは、家庭でも持って妻と子たちの事を考えてゆっくり過ごした方が藤森のためになる。浅野は心底からそう思っていた。


 だから浅野は、既婚者のくせに結婚相談所に通って藤森を半ば強引に登録させたり津和野が今の妻を見つけた場である合コンにも藤森を連れ回したりしたが、その度に藤森はお義理のように適当な事を言っただけで当然実りはなかった。

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