没落御曹司
藤森弘樹の母親とも浅野は十年来の顔見知りである。とは言え今の弘樹の母は、浅野の知っている人間ではなかった。
五十七歳だと言うのに髪こそ黒いままだったが、それが逆に顔の皺を悪目立ちさせていた。
「確かにあの子ももう来年で三十歳、もうそろそろいい相手を見つけるべきかもしれません。でもあの子自身にその気がなくては……」
「申し訳ありませんけどそのセリフは何べんも聞きました。もう少しはっきりとお願いしますよ」
「わかりました、言ってみます」
「今度こそ頼みますよ」
浅野は幾度となく藤森の母に息子に結婚するように言ってくれと勧めているが、まともな成果が現れる兆候はまるでなかった。
やる気があるんですかと言いたくなったが、今の彼女にそれを求める事自体が酷だとも思っている。
何十年も売れているベストセラー食品の味が実は年代によって変えられていたと言う話を聞いた時には浅野も驚いた物が、同じ看板がかかっていても中身が全然違っていたと言う事はままある話であるもまた知っていた。
それでも改善であれば別にいいのだが、劣化となると大問題である。
浅野が今籍を置いている板金工場の工場長になったのは十三年前であり、当時高校一年生だった藤森弘樹及びその母と出会ったのもその頃であった。
工場長と言っても現場上がりのそれでありスーツなど年に数回しか着ない様な浅野は初対面の時も作業服姿であったが、そんな浅野に対し弘樹の母は極めて鷹揚に接してくれた。
通りすがりの誰かさんにすぎない自分に対してのその態度に、浅野は引き込まれてしまった。
その時の弘樹は板金加工の事など存在ぐらいしか知らないような人間であり、知る必要もなかった。高校一年生と言う段階、いやそれ以前に彼の進む方向は決定付けられており、よくも悪くもレールの上をはみ出す事はなかったはずだった。
藤森産業と言う、総合商社。九つのグループ企業を抱える、地元の顔役と言うべき存在。それが弘樹の実家であった。生まれた時から弘樹は社長の孫であり、文字通りのおぼっちゃまであった。
そして弘樹はその身柄に甘える事なく、祖父や父の後を継ぐべく勉学に励んだ。一流のビジネスマンになり、一流の経営者になる。子どもの時から目標はその一点であり、そのために努力を重ねて来た。
後にその事を知った浅野は、ますます弘樹とその母に深い好感を抱くようになった。
「お仕事ご苦労様です」
通りすがりにこう声をかけてくれた弘樹の顔は実に明るく、これからの彼の輝かしい未来を平易に想起させる物であり、その時の笑顔は今でも浅野の目に焼き付いていた。そしてそれにも増して温かい気を放っていたのが弘樹の母であった。
全身にごてごてとアクセサリーが並べられてはいたが、彼女からはどこか悪趣味と言う反論をねじ伏せてしまう様な力があった。その顔からは社長の妻であると言う自信が満ち溢れており、地位は人を作る物だと言う言葉をいかんなく体現していた。その時はまだ社長であった夫の事は知らなかったにせよ、彼女が支えているのであれば大丈夫だと浅野は思わされた。
当然ながら大企業の社長への面会には苦労したが、苦労の末に会うことになった弘樹の父と浅野はすぐに親しくなれた。それからは馬が合ったのかはわからないがあれよあれよと言わんばかりに親密になり、一年もしない内に家族ぐるみの付き合いを始めるようになり、サファリパークに藤森家と浅野家で一緒に出掛けた事もあった。
その際に弘樹は浅野の三人の子どもの誰よりも年上だったのにやたらにはしゃぎ回り、弘樹さんってかわいいなとその時五歳だった浅野の娘に言わせていた。
厳格なビジネスマン志望の優等生だと言う弘樹のイメージをいい意味で覆させた行動に浅野家も藤森家も笑みがこぼれ、両家の仲をますます親密にした。
一見順風満帆に見えた弘樹の人生は、弘樹が翌年に大学に入学したその年に、音を立てて壊れ始めた。
その年の四月にアイランド産業と言う企業が、藤森産業の中核である繊維産業に手を伸ばして来た。
藤森産業のやり方は確かに牧歌的で穏やかではあったが、その分力弱かった。
アイランド産業は、合法的ながら強引とも思えるやり方で工場の買収を図った。油断があった社長はこのアイランド産業の行動に対し対応が後手後手になってしまい、そして結局繊維産業の関連工場は全て持って行かれてしまい藤森産業は中核を失った。
そして芯のないコマがまともに回るはずもなく、何より若い社員たちから社長の弱腰を責め立てる声が続出した。その結果社内で内紛が発生、連鎖を起こすかのように他の各分野も次々とアイランド産業の手に収まってしまった。
もしこの時自分が藤森産業側の会社であったら、あるいはアイランド産業側の会社であったらどうしていたか。
その答えについて浅野は考えない事にしていた。確かに藤森家の人間には親しくしてもらっていた中ではあるが、所詮自分にとって大事なのは工員であり家族であった。浅野は現場上がりの工場長で経営云々に口を出せる立場ではなかったが、その事だけは理解していた。
「第三者として何かできる事はありますかね」
あまりにも空しい問いを、親会社の人間にぶつけた事もある。金属加工業と提携していなかった藤森産業に対し、自分の板金工場が一体何をできると言うのだろう。年収六百万の人間が、資本金数億の藤森産業に対し効果的な資金的援助ができる訳もない。
かと言って頑張ってくださいと声をかけた所で、一体何になると言うのだろうか。
結局傍観するしか手がない事を悟った浅野は現実から目を反らすように、目の前の仕事に集中した。
自分が今できる事は目の前の仕事を片す事、そして直接の親会社の期待に答える事。家族ぐるみの付き合いもできていた藤森家を見捨てるしかない苦悩を噛みしめながら、浅野は入社したての時のように仕事に打ち込んだ。
家族サービスをするにしても旅行をしようとせず、ゲームのように家の中で出来る物や近場の豪華なレストランに連れて行くと言う形で済ませていた。
藤森産業と藤森家が苦難の中にある現状を弘樹と親しくなった子どもたちに思わせたくないと言う理由で妻を口説き落とした結果だが、実際一番そういう風に思いたくないのは浅野自身だった。
「ねえねえ、どうしたの藤森さん。最近お父さんにも私にも全然連絡くれないし、私たちの事嫌いになっちゃったの」
「今は藤森さん所の会社が危ないんだ、弘樹君も必死に動いて戦ってるんだ。一緒に遊んだり仲良くおしゃべりしてくれたりする様な暇はないよ」
それでも浅野は娘たちに突っつかれてやむなく口を開いたものの、それで藤森産業の状態が良化する物でもない。
浅野の娘たちもほどなくしてその現実を理解し、そして自腹を切って菓子や果物を送るような事もしてみたものの、それは藤森産業に対しては何の助けにもならなかった。
アイランド産業に手足をもぎ取られ続けた藤森産業は、弘樹が大学に入学してからわずか七年間であっけなく消滅した。
そして後に残ったのは藤森産業と言う会社が入っていた建物だけであり、藤森家に残ったのは残務整理に奔走して燃え尽きるようにこの世を去った社長の死亡保険金と元の邸宅の十数分の一の大きさの3LDKのマンションだけだった。
借金が残らなかったのは不幸中の幸いであったが、藤森家は私財のほとんど全てを吐き出して経営ミスの責任を取らねばならなかった。
日本が資本主義経済の中にある手前、どうしても経済的敗者は生まれてしまう。その敗者が責任を取らねばならないのは仕方のない話であるが、とは言えその生活の落差を思うと悄然とせざるを得ない話である。
そして弘樹もまた魂の抜け殻になっていた。
藤森産業と言う会社を盛り立てるためにこれまでの人生を送って来たよう人間から、藤森産業を取ったらどうなるか。答えはあまりにもわかりやすく、あまりにも残酷だった。
「ああ、浅野さん……何ですか…………」
藤森産業が地上から消えてからひと月後、新宅へと訪問に向かった浅野を待っていた弘樹の顔は、まるで別人のようになっていた。自分が何をしたらいいのか、何ができるのか全く分からなくなってしまった。
とは言え自分と母を何とかして食べさせなければいけない。どうすればいいのかわからない。それだけの言葉を聞き出すのに、浅野は延々三十分もの間空を見上げながらああだのはいだのとしか言わない弘樹の相手をせねばならなかった。
そしてその上に更に一晩かけて弘樹を口説き落とし自分が工場長を務める板金工場の工員にさせた浅野であったが、弘樹の母に対しては微妙に愛想が尽きかけていた。
確かにこの年齢にしてすべてを失ってしまった人間の気持ちたるや察するに余りあるが、それにしても唯一残された持ち物である自分の息子に対しても無気力な、かつて接した時のような鷹揚さと懐の広さを失ってしまっていた彼女が藤森産業の社長夫人と同じ人間だとは思いたくなかった。
「おふくろさんもあれだ、女でも連れてくればシャキッとすんじゃねえのか?こんなかわいい子のためにももうひと頑張りしなきゃとか、あるいはこんな女には負けないぞってなるかさ。いずれにせよマイナスにはならねえだろ」
「母はもうそんなに多くを望んではいませんよ。母はできる事ならば早く父の元へ行きたいんです。もう四年も会ってないんですから、津和野さんだって」
「お前みたいに顔が良きゃ女なんてすぐ寄って来るだろ。俺みたいな男でもこうして結婚できるんだからさ、ましてや手に職を持ってるってのは結構デカいぜ。俺みたいな工員って奴はサラリーマンとは違って結構どこでも生きていけるもんだと思うよ俺は。まあ俺もその手で嫁を口説き落としたんだしさ、な」
「ああ……」
「おいしっかりしろ!お前おふくろさんと何かあったのかよ!」
津和野も浅野からの報告を受けて弘樹に活を入れにかかったが弘樹の反応はどうにも鈍く、そして津和野が声を張り上げると弘樹は無言のまま身をのけ反らせて震え上がった。
津和野がもういいとばかりにため息を吐くと、弘樹は体の強張りを解いて深呼吸をした。まるでライオンにさんざん追いかけ回されたシマウマのような有様の弘樹に、津和野は黙って缶ビールを差し出した。
生活がうんぬんと言う名目でまともに金を使おうとしない弘樹に対しての温情であったが、弘樹は餓死間際の所に握り飯を差し出されたかのような極めてか細い感謝の声を上げるだけだった。
延々四年も一緒にいるのにまだ自分に遠慮しているのかよ、そう思ったもののそれを言えば弘樹がますます委縮するだけである事を知っていた津和野は、心の中で右足を強く踏み鳴らした。
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