第8話 ENDmarker.

 深呼吸して。息を整えて。

 彼女の部屋に入る。

 どこだ。彼女は。


 彼女。

 キッチンにもたれかかって、眠っていた。

 どうやら、泣き疲れたらしい。


 彼女に、触れようとして。

 やめた。

 彼女に触れるのは、こわい。なにか、大事なものを、壊してしまいそうな気がする。


「どうしよ」


 でも、彼女がキッチンにもたれかかっているかぎり、料理は開始できない。

 彼女の目元。光っている。

 涙。

 彼女は、泣いていた。


「泣かないでよ」


 彼女の悲しみがなんなのか、自分には、分からなかった。それが、ちょっとだけ、つらい。彼女と感情を共有できない。できることは、料理をして、お風呂を沸かして、彼女を待つだけ。それだけ。


 彼女の隣に、座り込む。


「俺さ」


 なんとなく、眠っている彼女に話しかける。


「親の顔が、分からないんだよね。生まれたときから、ずっとひとりで」


 そう。ずっとひとり。


「初めて会ったときのこと。覚えてる?」


 覚えてないだろうなあ。


「俺も覚えてない。スーパーだっけ。コンビニだっけ」


 なんか、たぶん口論になって。


「気付いたら、きみの部屋でごはん作ってたんだよね。喧嘩したことも忘れてさ」


 何で喧嘩したかも、もう忘れてしまった。


「泣かないでよ。ごめんよ」


 どうしていいか、分からなかった。

 とりあえず、ポケットから指輪の箱を取り出して、自分と彼女の中間地点に、置いてみる。


「これ。渡そうと思って」


 彼女。寝ている彼女になら、告白できるのに。


「ついさっき、大きい仕事が終わったんだ。これからは普通に暮らせるから、その」


 一緒に暮らしたい。


「一緒に」


 無理かもしれないと、なんとなく思った。彼女には、彼女の暮らしがあって。もう、恋人とかもいたりするかもしれない。


「だめだなあ、俺」


 彼女にも、触れられないまま。このまま、ひとりか。

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