第18話・どちらかといえば、北へ
それは数Ⅲの参考書と格闘していた夜だった。
『中務。あんた明日、学校のあとちょっと付き合える?』
月曜の夜からこのひとは何を言っているんだろ。平日の夜に生徒を夜遊びに誘うとか、もともと教師の自覚薄いと思ってたけれど、今度のはまたすこぶる付きでひどい。
大体わたしにはこころに決めたひとがいるのだ。いくら結婚を焦っているからって、従姉妹の彼女を連れだそうとか見境無しにもほどがあるだろうに。
『…バカ言ってるとぶっとばすわよ。助手席にくくりつけて』
「ぶっとばす、ってそっちの意味ですか。先生の運転に振り回されるより直接引っぱたかれた方がマシなので大人しく言うこと聞きますけれど、受験生をどこに連れだそーってんですか」
『あんたと話していると疲れるわね……。冗談じゃなくて、由津里さんからのご指名よ。あんたに話があるんだって』
「わたしに?………うーん」
何事かと良い方から悪い方までいくつかパターンを考えた。
…が、どれもしっくりいくものが無くて、ちょっと癪に障ったのだけれど先生に素直に尋ねてみる。
「何が起こるんです?」
『そんな警戒しなくても大丈夫でしょ。多少深刻な声で謝りたい、って言ってただけだし』
「それじゅーぶん警戒する要素まんまんなんですけど…」
謝りたい、と言われても、なあ。まあどの件についてかは想像ついたし、どうせ諸々踏まえた今の状況で、また話はしないといけないと思っていたから否も応もない。
「けどまあ、分かりました。それでどこまで行くんです?」
『車に乗って一時間、てとこかしらね。晩ご飯は出してあげるから、おうちにはそう言っておきなさい』
「……結局助手席に縛られるんですね。大人しく言うこと聞き損じゃないですか」
『うっさいわね。シートベルトしないとこっちの免許に影響あんのよ。ガタガタ言ってないで今晩はさっさと寝ておきなさい』
「今日のノルマと戦ってる受験生に電話かけてきてなんてこと言うかな、このひとは」
『知らないわよ。あんたの勉強でしょ?こっちは秋埜のためにやってるんだから、自分のことは自分でなんとかしなさい』
「その、秋埜のため、ってところを本人に話してあげるともーちょっといい関係築けそうなのになあ」
『………』
先生、黙る。わたしの勝ち。
けど秋埜に対する先生の態度ってのも、よく分かんないな。傍から見れば甘々に甘やかしてるの丸わかりなのに、肝心の本人に伝わってなくっていっそ気の毒なくらいなのに。
こういうのなんて言うんだっけ?確かー……あ、つんでれ、だっけ?
『……こまっしゃくれたガキどもの腐れた表現なんかして欲しくないわ。いいから明日は終わったら保健室に顔出しなさい』
「あー、せんせ、ひとつだけ」
『なに?』
これを聞いておかないと後で面倒になった時に責任押しつけらそーなので。
「秋埜には、言っておきます?」
『………任せた。じゃあよろしく』
だけどほとんど言い捨てるよう言われて、先生の方から電話は切られた。
またもやわたしに丸投げとか相変わらず大人げないなあ、あのひと。
ただ最近思うんだけれど、先生もわたしに甘えてる感じはある。それはまあ、秋埜が大事で、だからこそ抱えてるものの重みに耐えかねて、ってのは分かる。分かるけれど、こっちだってあなたのかわいー従姉妹様よりひとつ年上なだけなんですけど。あ、今は同い年か。わたしの誕生日までは。
そういえば秋埜、わたしの誕生日までは「麟ちゃんて呼んでいい?」とか前に言ってたな。うーん、今考えるとなかなか悪くない…というか、そろそろ呼び捨てされてもいーかも。「麟子…好きだよ」とかって。とかって。きゃーっ。
……などと、アホなことを考えているうちに夜は更けて、こなすべきノルマは週の後半にどんどんしわ寄せされていく。この調子だと週末のデートはお預けかなあ…。
・・・・・
そして翌日火曜日の放課後。
わたしは秋埜には何やかんやと誤魔化して保健室へ向かった。
「すいません、お手数かけます」
「いいわよ。どうせこっちの事情なんだし。じゃあ、行きましょう」
すっかり退勤の準備も整えていた先生。あいさつもそこそこに、職員用の駐車場へ行くと、以前乗せてもらったイタリアの車とご対面した。修理から戻ってきたのかな。
乗り込むと、相変わらずシートがぎゅうっとして体が押さえ込まれる。これはこれで気持ちいいのだけれど……ってことを言うんじゃなかった、とわたしは直後に後悔することになった。
うん。車が好きってひとの車をほめるととんでもないことになる。例えお愛想とか話に詰まって話題にするとか、そいうことでも止めておいたほうがいい。
何故かというと、目的地に向かうまでの間、相原先生はいかに自分のこの車が好きかを長年の恋のよーに語り、ついでに日本の車のダメ出しを山のようにしてくれたのだ。特に車が好きでもないわたしには、壊れないで長持ちするのが一番だと思えるのに、車好きのひとに言わせるとそういうものでもないらしい。一つ言ったら十くらい言い返されたので、もう二度と先生とは車の話なんかするもんか、と固く誓った。いつか自分の車を持つ時が来ても、先生にだけは相談するまい。
「秋埜には言ったの?」
それで、いーかげんにしてください、と半ブチ切れしたら流石に反省してか、一番大事な話題になった。いやそれ最初に聞くべきことでしょうに。
「話してはいませんけど、想像はついてると思いますよ。今日は一緒に帰れないって伝えたら散々どこに誰と行くんだー、って問い詰められて、先生と一緒に遠出、とだけ答えたらビミョーな顔してましたし」
「…それ絶対後でこっちに飛び火するパターンね」
それが楽しいんじゃないですか?って言ってやったら苦笑していた。
その後はまあ、先生の方にお任せした形になっていた、お母さんの様子を一通り聞かされた。
意外に思ったのは、お父さんとも一度だけではあるけれど電話で話をしていた、ということで、それを聞いてわたしはスゴく不安になってしまったのだけれど、大人っていうのはこういうとき、子どもには想像できない強さがあるものかもしれない。
「互いに近況を話し合って、秋埜のことも相談したみたいよ。ま、流石によりを戻そうとかそういうことも無いでしょうけれど、赤の他人みたいなことにはならないと……いいわね、くらいには思えるわ。私も」
「まー、先生も百パーお父さんの味方だったのに、そこまで転向しちゃうくらいですしね」
「そうね。篤さん、いろいろ言いたいこともあるだろうけれど、今は秋埜のことを一番大事に思ってそういう風に思うようにしたのだと思うわ」
「結局、何もかもあのコ次第って、ことですか」
「なに他人事みたいなことを言ってんのよ」
「……あー、ですね。確かに他人行儀だったかも」
「そうじゃなくって」
「え?」
車はちょうど高速道路を降りるところ。
いーてぃーしー、ってやつ?の機械の声が料金を話した車内で、先生はほんの少し楽しそうに、あるいはわたしをからかうように言う。
「秋埜の事情ならあんたの将来やらなんやらにも当然関わることでしょ、って言ってんのよ。いろいろ難しいこと考えてるみたいだけど、秋埜次第じゃなくてあんた次第でもあるのよ。そこんとこ理解しておきなさい」
「………はぁい」
若干ふて腐れたようになってしまっただろうか。
だって、散々大人げないとこをわたしに見せていた先生に、こんなにもぐうの音も出ないことを言われてしまったものだから。あるいはまだまだわたしは子どもなんだろうな、って突き付けられて拗ねてしまったとか。そんなとこか。
でも、そうだよね。秋埜だけが選ぶことじゃなくて、わたしにだってその権利と責任はあるんだ。
この間決めたこと、秋埜にもちゃんと話しておかないとな。
…そんなことを考えているうちに、車は街中に入り、いかにも古い「団地っ」…って感じの場所に止められる。
「着いたわよ」
先生はエンジンを止めて、シートベルトを外す。駐車場なんかないから路上駐車だ。いいのかな。
「どうせ他に住んでるひともあまりいないみたいだし。いいんじゃないの」
「生徒の前で交通法規ぶっ千切るよーなことを言うのはどうかと」
「いちいちうっさい子ね。ほら、いいから降りなさい」
なんだかもう、教師の自覚ってのを完全に失っているようなことを言っていた。まあ秋埜の身内がわたしに接する態度としては別に間違ってない気も最近してきたから別にいいんだけれど。とはいってもそんな生産性の無い会話をしてる余裕なんかない。わたしは言われた通りに車を降りて、明らかに自分の生活圏とは違う空気に少し怯む。
それにしても、埼玉まで連れてこられるとは思わなかった。渋滞に途中巻き込まれつつ、なんだか初めて通る高速道路にのって、来たこともない街に来ている。なんだか変な感じ。
「…ここどこでしたっけ」
「狭山よ。ま、私も来るのは初めてね」
お茶で有名な土地だったっけ?だったらお土産でも買っていこーかな、って思った。日本茶がコーヒーよりも好きなわたし。
「呑気でいいわねえ、あんたは」
「緊張しているのを軽口で誤魔化そうとしてる、ってとってもらえないでしょうか?」
「あんたがそんな繊細なタマか」
先生、とっても胡散臭いものを見るような目付き。あのですね、先日あれだけやさしー言葉をかけてくれたひとと同一人物とは思えないんですが。
「ああもう、話が進まないわ。ほら、さっさと歩く」
「はぁい」
流石に無駄口が過ぎたかと思い、大人しく先生の後に続いた。
前に来たことがあるみたいに迷いの無い足取りで、あんまり清潔にされているとは言えない団地の廊下を歩いて行く。
「…お母さん、ここに住んでいるんですか?」
「再婚してしばらくは千葉の方にいたみたい。けど今はこっちね」
「ふぅん…」
わたしたちの家からはそこまで遠いわけじゃない。といって、子どもの足でそうそう来られるとも思えない。
そんな場所に住んでいる辺りに、なんだかお母さんの複雑な心境ってものを見てとれてしまう。考えすぎかな。
「ここよ」
「またなんていうか…女のひとが一人で住んでるにしてはさみしーとこですね」
「そういうこと言わない…って、なんでそう思うわけ?確かに人気は少ないけど」
「え、だって…こんなに遠くでもなくて近くでもない場所にいるのって、やっぱりいろいろ考えたんだろーな、って。それだけですけど……なんで呆れるんですか」
「…呆れたっていうよりかね……まあいいわ」
先生がここで話をやめたのはきっと、説明に窮したとかめんどくさくなったとかじゃなく、単に目的の部屋に着いたからだと思う。多分。
「…時間通りか」
途中渋滞に巻き込まれたんですけどね。その後必死の形相…いや、あれは絶対楽しんでいたな…でとばしてきたから時間取り戻せたみたいだけど。
『…はい』
「相原大葉です。連れてきました」
『……っ。ありがとうございます、今開けますから』
インターホンの、建物の古さ相応に聞き取りづらい声は、自分で呼んでおいて驚く必要ないんじゃないかな、って思えるくらいにはお母さんの感情を伝えてきていた。
この向こうでどんな顔をしているのだろうか、と思って見つめていた扉が、重々しい音と供に開く。鍵を開けた様子がなかったのは……まあ、そういうことなんだろう。
「いらっしゃいませ。中へどうぞ」
「はい」
「…おじゃまします」
散らかってますけどとか何もない部屋ですが、とかいった常套句もなく招き入れられた部屋の中は、なるほどそんな謙遜する必要も無いなあ、ってくらいには整った生活感は感じられた。
散らかるほどのものは置かれず、けどそこに住んでいることは分かる程度の物品は、ちゃんとある。
お母さんのお部屋は、いわゆる2DKというのか、台所との他に部屋が二つほど。そのうちの一つは八畳の畳敷きで、わたしと先生はそこに迎えられて、コタツ兼用のテーブルの前に腰を下ろす。
「いまお茶をいれますので」
返事も待たずに台所へ行くお母さん。なんていうか、こうして生活している場で見ると……どこにでもいる感じの、母親なんだよなあ。
「あまりきょろきょろするもんじゃないわよ」
「あ、はい」
暮らしの様子が気になってあちこち見回していたわたしは、先生に小声で窘められる。間が保たないんだからしょうがないと思うんだけど。でも不躾なのは確かかもだと思うので、正座の居住まい正して大人しく待つ。うう、正座苦手なんだけどな。
「お待たせしました」
と、待つほども無くお母さんが戻ってきて、わたしと先生の前に不揃いの湯飲みを二つ。お客さんが慣れないんだろうな、と思った。
頂いたお茶は、お茶好きのわたしでも「あ、美味し」と思える味だったので、暮らしぶりはともかくとして良い物を揃えてるんだろう。お嬢さま育ち、といつか言われたことを思い出す。
「………」
「………」
「……ずず」
音を立ててお茶を飲むのは先生だけ。えー………ま、いっか。
静かな団地に相応しく、三階のこの部屋には外の音など聞こえてはこない。住人の多いところであれば、もう六時になろうとしてるこの時間でも子どもの声や、会社帰りのお父さんとかの様子が聞こえてきそうなんだろうけれど、そういうものもなくて、余計に寂しく感じる。
けれど、足の痺れに耐えつつもその静寂をどこか落ち着くと思え始めた頃、お母さんはこう話をし始めたのだった。
「…中務さん。聞いて頂きたいんです」
わたしは、目力のはっきりしたお母さんの視線を正面から向けられて、どこか怯む思いだった。
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