第12話・わたしが守りたいもの

 わたし確か紅茶を頼んだはずなんだけど…。

 目の前には空のティーカップ。その傍らに、見たこともない形のガラスの容器。

 中に入っているのは確かに紅茶色の液体だったから、注文間違えられたってことはない、と思う。


 と、戸惑っているわたしを見かねてか、「こうするのです」とこれまで黙ったままだった藤原由津里さん…秋埜のお母さん…が、手を伸ばしてわたしの代わりに容器の中の紅茶をカップに注いでくれた。

 ガラスの容器の中で舞っていた茶葉は藤原さんが上に伸びていた軸みたいなものを下に押し込むことで容器の下の方に押しつけられていて、なるほどこーしてジャンピングを充分にさせつつ茶葉がお茶に混ざらないようにするわけか、と感心するわたしだった。


 「ありがとうございます」

 「いえ」


 しっかりカップも温められてあったため、早速一口いただくと、香りも味も、いつも使ってるティーバッグとは比べものにならないものだった。うーん、こんなの味わったら家で紅茶飲めなくなってしまいそう。いくらくらいするんだろ?と、メニューを開いて確認しようと思ったのだけれど、流石にそれは不躾か、と諦める。

 …いや、分かってる。間が保たなくってそんな真似をしてるってのは。

 だってしょーがないじゃない。こういう場合、年長者の方が口火を切るってものだと思うのだけれど、さっきからだまーってこっちの方を見もしないんだから……って、呼び出したのわたしの方みたいなものなんだし、無理も無いか。

 仕方ない、腹括りますか。

 わたしは意を決して……まず観察から始める。ヘタレとか言わないで欲しい。


 秋埜のお母さん、っていうくらいだから予想はしていたけれど、明らかに美人の面立ちだ。

 つり目がちな点は特に秋埜とよく似ていて、けど秋埜と違うのは、和風の楚々とした色白美人だというところだろう。

 お歳は、というと秋埜のお父さんが確か今年厄年?とか言ってたからー…まあ、四十歳てとこなんだろうけど、お父さんが苦労のために老け込んでしまっているのと対照的に、とても若々しくて三十歳でも通用するんじゃないか、って思うくらい。相原先生と比……脳内で怒鳴られたので、その先を考えるのはやめる。

 ただ、着ているものは和服とか上等なドレスとかそーいうものではなく、どちらかといえば小さい会社で事務をしているひとが着ているような、地味なスーツだ。それも、かなりくたびれた感じの。

 だから、苦労してるのかな、って思って一見で反感を覚えるようなことも無かったのだけれど。


 「…ええっと……わたしですけど、こうしてお話させてもらうようにお願いしたのは、その…」

 「はい。娘が…秋埜が、私に会いたがらないから代わって、と聞いております。中務さんにはご迷惑をおかけして申し訳ありません」


 それはこうして、ようやく話を切り出した後の反応でも変わることはなかった。

 わたしみたいな小娘にも礼儀正しいし、不倫相手と逃げるよーな感じには見受けられないんだけどなあ。

 ただ、気になるのはこの期におよんでわたしと目を合わせようとしないことだった。こっちは一応話をするつもりで来てるんだし、ひとと話すときは顔見て話せ、ってのは基本的な礼儀だと思うのに。

 まあいいか。

 とにかく、聞きたいことは山ほどあるんだ。時間がどれくらいあるかは分かんないけど、自分たちのために、先に進まないと。


 「別に迷惑ってわけじゃありません。秋埜はわたしの…その、大切な友だちなんですから」


 あやうく最初から自爆するところだった。あぶない、あぶない。


 「秋埜からはお母さんのことは聞いています。だから、秋埜がお母さんに会いたがらない気持ちも分かります。それで、どうして秋埜にまず連絡しようとしたんです?別に秋埜をないがしろにするわけじゃないですけど、こういう場合お父さんに話をしようとするのが常識…ええと、家族の気持ちに一番沿うと思うんですけれど」

 「………」


 返事はなかった。それはまだいい。問題なのは、こっちに顔を向けてはいるけれど、俯き加減で微妙に視線を逸らしたまんまなこと。流石にイラッとするわたし。


 「……中務さんは、篤さんに会ったことがありますか?」

 「あります。遊びに行った時はお話させてもらうこともあります。とてもいいお父さんだと思います。秋埜も慕っていて、仲の良い親子だな、って見てていつも思います。それが?」

 「いいお父さん、ですか……そうですね。確かにそうです。私も、そう思います」


 だったらどうして不倫して離婚なんかしたんですか……とは言わなかった。だって明らかにわたしにそう質問させようって意図が見え見えだったし、相変わらずわたしと目を合わせない辺り、本音で話してるとも思えなかったもの。

 …秋埜。あなたのお母さん、けっこう曲者かも。


 「…だから、秋埜がお母さんの話になると取り付く島がなくなる気持ちもよく分かるんです。でもわたしは、そんな秋埜を見ていて辛い。出来れば秋埜にはそんなこと忘れたまま、明るくてお父さんといつも仲のいいままで過ごしていって欲しい、って思います。……わたしの言いたいこと、分かりますよね?」

 「…………ええ」


 これは全部が全部、わたしの本心ってわけじゃなかった。

 最終的には秋埜自身で選んで欲しい。お母さんを何かの形で許して、また親子、一家として元通り…にはならないとしても、あんな苦しそうに苦い顔でお母さんのことを話すようなこと、して欲しくない。

 そのためには秋埜がお母さんと、話をしなければならない。そのための、話し合いだ。

 だけど。


 「秋埜は、どうしていますか?私のことを酷く言っていますか?」


 …どうしてこのひとは、秋埜のことやお父さんのことじゃなくて、自分のことをまず気にするんだろう。最初にするべきは、ごめんなさい、の一言なんじゃないだろうか。

 わたしはテーブルの下の両手をぎゅうっと握り、そこに先生からもらったハンカチがあることに気がつくと、ああ、あのひともこういう気持ちになってたんだろうな、って思った。


 「……大事な友だちが一応でも母親であるひとのことをキツく言っていることなんか、思い出したくもありません。あなたが秋埜やお父さんに何をしたのか、よく考えてどうして秋埜があなたに会おうとしないか、答えを出せばいいじゃないですか」

 「親が子に会いたい、というのはいけないことなのですか?」

 「一般論で話を逸らさないでください。わたしは、秋埜のことを話してるんです。世間だとか他の家がどうのだとか、そんなこと知ったこっちゃありません!」

 「秋埜に会わせてください!」

 「だから!!」


 身を乗り出しかけたお母さんを、わたしは何故か泣きそうになりながら怒鳴りつけた。そうでもしないと涙が零れそうだった。


 「……どうしても会いたいんだったら、拒まれたって罵られたって、何度でも追いかけて、秋埜の心を自分で解きほぐしてください。それが出来ないあなたのことを、わたしは秋埜に会わせたくありません」

 「話が違います!」

 「どんな約束をした覚えもありません!わたしは、秋埜が会いたがらないあなたがどんなひとなのか知らないと、何も始まらないと思ったから会ったんです」


 こんなことを言っていいのか分からないけれど…このひとは、秋埜に謝りたいんじゃなくて、自分を正当化したいから秋埜に会いたいだけなんだ、って思う。

 正当化って言葉が過激なのだとしたら、自分が会いに行けば秋埜もお父さんも笑って許してくれて、それで元通りになれる、って甘えているんだろう。

 だめだ。秋埜に会わせたりは、できない……いや、そういうのじゃなくって、会わせてもきっと秋埜の苦しみが増えるだけだ。


 お母さん……藤原由津里さんは、秋埜によく似て気の強そうな顔を苛立たしげに歪めてわたしを睨んでいる。こと話がこうなって、ようやく目が合ったように思う。


 「なま…」

 「ええ、生意気な子どもだと自分でも思います」


 先回りしてやったら、悔しそうにしていた。ざまあみろ、って気分には…残念ながら、なっていた。


 「………私は、秋埜にどうやって会えばいいんですか。あなたが、会わせてくれるのではないのですか」

 「そんなもん知りません。会いたいんでしたら、どんな手を使っても、必死になればいいでしょう。でも言っておきますけどね、わたしも相原先生も協力なんかしませんからね」


 お父さんはどうなんだろう。あの、とても穏やかに笑う、お歳の割には苦労しただろうことが分かってしまうひとのことを思い出し、チクリと胸が痛む。でも。


 「……せめて、篤さんには…」

 「そんな残酷な真似出来ますか。お父さんは、ですね。あなたが出て行ったあと、本当に苦しんで苦しんで…そして、あなたが想像も出来ないような姿になってしまったそうです。だから、あなたもその分くらいは苦しんでください」


 …こんな話、するつもりはなかったんだけどなあ。

 情けなくて涙が出てくる。止められなかった。もらったハンカチは、わたしの泣き顔をを隠すのに役立ってしまっていた。



   ・・・・・



 「…おつかれさま」


 お店を出てきたわたしを出迎えてくれた先生は、涙の跡の残るわたしの顔を見てもそう言っただけだった。


 「つかれました」

 「でしょうね。由津里さんは?」

 「なんか言いたいこと言ってやったら、ぼーっとなってそのまんまです」

 「そ。歩ける?」

 「なんとか」


 わたしの足取りはよっぽど頼りなかったんだろうか。

 先生はわたしの肩を抱くようにして、そしたらわたしもふらっとなってしまい、


 「ほら、歩けるならしゃんとしなさい。送ってってあげるから。それともどこかで休んでいく?」


 あー、やっぱり車で連れてきてもらって正解だったなあ。歩いて家に帰る自信ないや。


 「酔っ払いか、あんたは」

 「お酒呑んだこと無いんですけど」

 「大学入る前に呑んでおいた方がいいわよ」


 まだふらふらしてるわたしに文句も言わず、先生は苦笑しながらとても教師とは思えないことを言う。


 「なんでまた」

 「自分の体がお酒入ったらどうなるか、女の子は予め知っておいた方がいい、ってこと。新歓コンパで新入生の女の子酔い潰して良からぬ真似をするバカがいるからね、たまに」

 「…あー、肝に銘じておきます」


 ぶっちゃけ、見てくれだけならわたしは男の子の目はひくだろーし。性格は外から見えないもんなあ。


 その後は余計な口も利かず、流石に制服姿で引きずられていくのも体裁が悪いので、自分の足で歩いて車のところまで行き、来たときと同じように…ああ、うん、先生の運転は別人のよーにまともだった。

 もう帰宅時間の渋滞なのか、車が進むのも随分とゆっくりめの中、そのせいでさっきの話をする時間も充分ある。

 わたしは、秋埜のお母さんを怒鳴りつけたことも含めて包み隠さず話したのだけれど、先生の反応というと、だな。


 「でかした中務っ!」


 …ってな感じの、予想もしないものだったりした。

 だって、話がこじれたのは間違いないし、場合によってはお父さんにも迷惑かけるんじゃないか、って戦々恐々としてたものだから。


 「篤さんには、散々迷ったけどさっき知らせておいたわ」

 「え……お父さん、なんて?」

 「そりゃまあ驚いてはいたけど。ただねえ…『そうか、生きていてよかった』って。あのひと善人過ぎてこっちが心配になるわよ」


 まあそれは秋埜のお父さんらし過ぎて、思わず納得してしまうわたしだ。

 でも、生死くらいは実家と連絡してたんじゃないんだろうか。


 「藤原さんとこは、秋埜のことは気に掛けてよく連絡してたみたいだけど、篤さんには年賀状くらいしか来てなかったものね…ああ、別にそれが悪いってわけじゃなくて、面目立たないというかあまりやりとりがあるのも迷惑かけるんじゃないか、って思ってたみたいよ。秋埜の話だと」


 私はあの家にはそれほど悪印象ないわ、と苦笑しながらわたしの家に向かう最後の角を曲がる。


 「そろそろでしょ。あんたを下ろしたらすぐに帰るわ。ご家族によろしくね」

 「ええ。いろいろありがとうございました」

 「礼を言うのはこっちの方よ。ま、面倒ごとになりそうだったら遠慮無くこっちに振りなさい。もともとうちの話なんだしね」

 「はあ。まあわたしももう他人事じゃないですし」


 おっきなため息をひとつ吐く。

 ああ、秋埜に会いたいなあ。会って、今日のことなんか何事もなかったように、楽しい話したいなあ。


 「……ま、疲れてのうわごとだと思ってその惚気は聞き流しておくわ。ほら、着いたわ」


 口に出ていたみたい。

 先生はどう反応したらいいか判じかねるみたいな複雑な顔で、わたしの家の前に車を止める。


 「お疲れさま。今日はありがと」

 「…先生に一日でこんなに感謝されることって、もうこの先無いんじゃないですか」

 「そうね。そう思うんなら、今日あったことはよぉく心に留めておきなさい」


 言われなくたってそーします。

 わたしは我ながら生意気な態度で車を降り、玄関に灯りがついていることになんとなくホッとして、最後にもう一回先生に「送ってくれてありがとうございました」と礼儀正しく、ぺこり。

 先生の方は……まあ、最後に教師の顔から秋埜の優しい親戚の顔になって、つまりわたしには秋埜の悪友に対するみたいな、ちょっと厳しめの顔を向け、「夜更かしして遅刻すんじゃないわよ」と、見透かしたよーなことを言って、それで帰っていった。

 そりゃまあ、ね。こんな気分のまま寝たら悪夢とまでは言わないまでも、寝付きは絶対悪いだろーから、秋埜とお話するくらいは、まあするよね。


 「……あれ?」


 秋埜に夜の予定でも伝えようとスマホを取りだしたら、見計らったように秋埜からLINEの着信。なんだろ、って見てみたら。


 『せんぱい ちゃんと帰ってきましたか?』


 だって。

 …うん。いろいろ悶着あったけど、秋埜はこうしてわたしを気遣ってくれる。

 そんな、当たり前になってしまったことに改めて感謝しながら、わたしは返信する内容を考えつつ、我が家の扉を開けて帰宅した。今朝、家を出た時と同じくらい明るく、「ただいま」と言えたと思うんだ。

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