第十五話 グレちゃんとわたし

 ハナちゃんと二人でグレちゃんを見送った時、「ねーさん、グレちゃんに『早く戻っておいで』っていってあげなきゃ」とハナちゃんに云われたが、その時わたしが言葉にせずに考えていたのは、別のことだった。


 戻って来なくていいよ、グレちゃん。わたしはもう、君から充分過ぎるほど沢山のものを貰ったから。今度は、グレちゃんが自由に行きたい所に行っていいよ。そして、戻りたくなった時には、いつでも帰っておいで。わたしはいつでも、君を歓迎するから。この先の時の流れの中、わたしの傍ではないどこかいても、君が幸せでいてくれるなら、もうそれだけでいい。


 その一方で、わたしらしくない事も考えた。

 わたしが、今すぐに妊娠したのなら、間違いなくグレちゃんが産めるという妙な確信があったのだ。そんなことを考えてしまう辺り、わたしも女の端くれだなぁと思ったものだ。

 かといって、随分長い間おつきあいという物がないので、『今すぐ』の相手はいない。精子バンクに当たってみるという手も真面目に考えたが、自分の年齢を考えると、産んでも育て上げることは不可能なので断念した。何よりも、『戻って来なくていいよ』と思った自分の気持ちに反してしまう。


 次におこなったのは、グレちゃんが使っていた物の処分だ。

 わたしが、もう二度と新しい子を迎えないとは、自分でも思わない。

 けれども、いつか次に来る子が犬でも猫でも、グレちゃんが使っていた物は、グレちゃんだけの物。猫ベッドも二段のキャットタワーも、フード付きのトイレもキャリーバッグも、グレちゃんの物である品はすべて処分した。

 それらは、グレちゃんとの思い出の品───と、言えなくはないが、我々の間にはもはやそれすら必要ではなかった。

 そして、仕事の合間を縫って、グレちゃんの晩年の幸福を願った某有名神社に参拝し、お酒を奉納して御礼を述べた。また、最初のスイートホームの近くにあるお稲荷さんにも伺い、やはりお礼のお酒とお賽銭を奉納し、二人で長く幸せに暮らせたことの報告とお礼を述べた。

 生命を失いかけていた野良猫と、心が壊れかけていたわたしとが、こんなにも長く幸福な日々を送れたのは、決してわたし達だけの力ではなく、陰になり日向になり沢山の助けがあったからである。ハナちゃんやぷーや、新旧合わせた友人達。獣医の先生・わたしの治療をしてくださった先生、新しい職場で厳しくも細やかな指導をしてくださり、励ましてくださった大先輩方。そして、天上から見守ってくださっていた方々もいたのだと、そう素直に思うのだ。


 グレちゃんが亡くなってしばらくして、グレちゃんが病院で受けていた皮下点滴が、自宅でも可能だったのだとテレビの動物番組で知った。

 もしも、それが出来ていたのなら、グレちゃんはもう少し居てくれたのだろうか?

 もしかすると、もう少しは楽にしてあげられたのだろうか?

 そう思いはしたものの、だからといって後悔したり、腹が立ったりはしなかった。本当に───本当に、我々は二人三脚で出来る限り頑張ったのだから。

 後日、別の動物病院の先生に伺ったところ、自宅での皮下点滴治療は、おこなっている病院とおこなっていない病院があると聞いた。事が点滴である以上、素人がすると、支障がある場合があるからだそうだ。

 まあ、それはそうだろう。

 それらを知ったからといって、グレちゃんの治療に当たってくださった病院や先生方には、長い間お付き合いいただいたことに感謝するばかりで、悪意やクレーム的な気持ちは湧かない。一落ち着きしたあとに、「医療過誤などの問題があったというわけではなく、グレちゃんに関するすべての記録を保管しておきたいので、一連の医療記録のコピーをください」という素っ頓狂なお願いにすら、快く応じて医療記録をくださったのだ。


 誰しも、人の長い生を全うするという事は、辛く苦しいことが多い。

 それでもわたしは、グレちゃんと暮らした十六年と九日の日々で、すべての苦難が報われたと、心の底から思うのだ。

 優しいばかりの世の中ではない。

 幸せな出来事ばかりでもない。

 けれども、時間の流れも、世界も、そうそう捨てたものではないと、今では本当にそう思うのだ。


 西暦一九九八年・平成十年十二月十五日、わたしはグレちゃんというパートナーと巡り合った。

 そして、二〇一四年・平成二十六年十二月二十四日、そのパートナーを失った。

 だが、そのパートナーを、本当の意味で失うことはなかったのである。


 君と伴に生きた時間は、わたしを構成する一部となって、永遠に失われることはない。

 君という名の贈り物は、わたしが一生を終えるその瞬間までわたしの中に在り続け、内側からわたしを支えてくれるだろう。

 だから、わたしはもう大丈夫───これから先、折れそうになっても、砕けそうになっても、わたしの中の君がわたしを護ってくれる。

 君が居たという奇跡が、わたしを生涯幸せな人間にしてくれるのだ。



 だから、いつの日かまた……。

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