第七話 グレちゃんと迷子の森

 時間の流れと共に巨大化した、心の中の深くて暗い森の真ん中に、わたしは幼い迷子を置き去りにしてきた。


 幼少の頃は体が弱かった兄と、中学生になるまで尋常ではなく虚弱だった弟を抱えた両親にとって、わたしは唯一の女の子で、唯一の象が踏んでも壊れない類いの丈夫さを持っている子供だった。それ故に家庭内の働き手で、面倒をかけて欲しくない相手で、放っておいても構わない子供だった。

 「そんなことはないよ。一人娘が可愛くない親なんていないよ」───と、多くの人は言う。両親もそう言うだろう。ある一面においては、それも間違いではないとは思う。

 けれど、日々の中で親の庇護を受けられず、子供時代に泣いたり笑ったり怒ったりを含む子供らしさを許されず、言いつけを守らない子は嫌いだとはっきり言われ続けた人間にとって、その言葉は何の慰めにもならない。


 小学生のころから、病院には一人で行った。

 小学一年生で歯医者に通うようになった時、母親が付いて来たのは、初診の時と抜歯の時だけである。稀に風邪をひいて発熱した時はさすがに一緒には来たが、かなり渋々だったことは良く伝わった。小学三年生ぐらいの頃に、人生初めての中耳炎になり、痛みで眠れなかった翌朝、弟が頻繁にお世話になっていて、いつも親の代わりに同行して場所を知っている病院に、路面電車に乗って一人で行った。行って、鼓膜の切除を一人で受けた。挙句、痛みの痺れが舌まで来て、帰宅後の報告業務が上手く行かなかったのだが、「あんたはいつも大袈裟に振る舞うから、すかん」と母親に言われたものだ。

 中学生になる頃には、風邪の発熱ぐらいでは病院に行くこともなくなった。「あんたは市販の薬で充分」という理由で。

 ある日、ちょっとしたことで左膝を強打し、一日置いて激痛で膝を曲げる事すら出来なくなった時も、「打撲ぐらいで病院に行くの?」と言われた。強い痛みを訴えた為一応受診することは許可されたものの、一人でバス停二つ分を歩いて病院に行き、入院を要するほどの怪我であることが判明して、やはり歩いて帰宅して報告した時も、最初の台詞は罵りの言葉だった。

 例を挙げれば枚挙に暇がない。けれど、この場合の最大の問題は、患者が兄か弟であれば、親は必ず同行するのだということだ。

 お陰で、社会人になって最大に嬉しかったのが、自分の保険証を得られたことだったというオマケが付く。

 これらは、今でいうところの児童虐待でありネグレクトでありモラハラなのだが、当時はそんな言葉は浸透していない。

 なので、わたしにも兄弟と差別されている事は判っても、自分だけは両親にとって役に立つ人間でいなければ価値がないのだとジタバタした挙句、わたしの中の幼い女の子を森の中に置き去りにして来てしまったのだ。


 この事もまた、過ぎてしまった時間の中で、取り返しがつかないことの一つである。

 わたしであるその子を、森の中から連れ出す術をわたしは持たない。

 だから、わたしの子供の頃の葛藤そのものである迷子と深くて暗い森は、これからの人生をずっと供に生きて行くのだと思っていた。


 ───思っていたのである。


 十数年ぶりに実家に戻って住むことになった老朽化した離れは、グレちゃんとわたしだけの、誰の邪魔も入らないパラダイスだった。

 けれどもある日、そのパラダイスに帰還したわたしは、酷く打ちのめされていた。

 原因は何だったろう?───仕事で何かやらかした事だったか、わたしの事を『心が欠陥品』・『人間としてかたわ』と評する両親とまた揉めたのだったか───あるいは、その両方だったかもしれない。

 ただ、酷く打ちのめされて、疲弊していたことを覚えている。

 横になることは勿論、リラックスすることすら出来ないわたしに、グレちゃんは新妻席で仁王立ちになり、きっぱりと主張した。『ここに来て休め』と。

 「ありがとグレちゃん……でも、今、それはちょっと……」と云い淀むわたしを、グレちゃんは許さなかった。『言い訳なんて聞かない。とにかく休みなさい』と、脳内超翻訳による断固した態度。

 渋々その主張に折れ、ベッドに横になると、どうもグレちゃんの様子が違う。

 いつもであれば、一つ枕を共有し、鼻息をかけ合いながら眠るのだが、今夜のグレちゃんは横になろうとしない。それどころか、枕元でエジプトの猫のように背筋を伸ばして座り、周囲に気を配っている。

 「グレちゃん?」───と訊いたわたしの声は、不安に満ちて力無いものだっただろう。

 そんなわたしの顔を、座ったまま頭だけを下げて、何度も優しくグレちゃんは舐めた。どんなに優しく舐めても猫の舌は痛いものなのだが、まるで仔猫にするように、根気よく・優しく舐め続けた。

 理由は判らずとも、グレちゃんには、わたしが弱って打ちのめされていることが理解出来るのだ。

『ちゃんとここに居るから。ここで守っているから、大丈夫。眠っていいのよ』

 脳内超翻訳に頼らずとも、グレちゃんの気持ちは伝わって来る。そんな最強ガーディアンに宥められながら、どうにかこうにかわたしは眠ることが出来た。モフモフの毛皮に指を絡めながら。


 翌朝、目を覚ますと、グレちゃんは昨夜と寸分違わぬ場所に座っていた。エジプトの猫の座り方で。

 まさか、一晩中、そうやって守っていてくれたのだろうか?───じっと見つめるわたしの視線に気づいたグレちゃんは、喉を鳴らしながら優しく舐めてくれた。

『もう大丈夫?』

『悪いものは、何も来なかったよ』───と。


 ───グレちゃん……。

 グレちゃん。

 グレちゃんっ!


 ただの子供のように守られたのは、初めてだった。

 何も理由を知らずとも、優しく慰撫されたのも初めてだった。

 子供の頃に傍に居た近親者の大人が、誰も与えてくれなかった何の打算も見返りも求めない優しさを、初めてくれたのは君だった。


 『生きる』という事は、こんなものかもしれない。

 どんなに求めても得られなかったものを、わたしに足りなかった欠片を、遠い昔に見失ってしまった帰り道を、たった一匹のただの猫が───君が、全身全霊で与えてくれる。

 いつしかとうに諦めてしまっていた救いを、思いがけず与えられることもあるのだ。


 森の中で迷子になっていた、わたしの片割れでもある幼い女の子は、大きなモフモフの猫に出会い・迎えに来てもらって、これからはもうずっと、二度と淋しくなることはないのである。

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