第六話 グレちゃんとぷー・再び

 わたしは、ぷーの訃報を聞いても、すぐには理解出来なかった。

 ハナちゃんとぷーとの同居同盟をやめてから、まだ二年しか過ぎていない。


 だって、元気だったでしょ?

 何か、変調も聞いていないし、病気とか怪我とかしてたの?


 電話口で泣きじゃくるハナちゃん曰く、今日出掛ける前は元気だった。いつも通りだった。病気も怪我もしていなかった。でも、さっき帰って来たら亡くなっていた。体もまだ温かかった。


 確か、連絡は夜遅く。

 わたしは明日も仕事で、資格が必要な介護タクシーの予約は抜けられなくて、ぷーに会いに行くのは夕方以降になると告げた。

 ハナちゃんは、今夜はもう無理だから、明日ペット葬儀社を探してみると、決まったらメールすると云った。

 慰める言葉もないとは、このことだ。加えて、慰めるも何も、わたし自身がよく状況が飲み込めない。ぷーは、グレちゃんよりも四つも年下で、仔猫の時にハナちゃんのところに行ったから、避妊も予防接種もきちんとしていて、大きな病気一つしたことがなくて……。

 なのに、何の前兆もなく、こんなに突然なんて、現実味のない作り話のようで───ハナちゃんの泣きながら話す声だけが、妙にリアルだった。


 その夜のわたしは、確かめるようにグレちゃんを撫で、抱き上げ、話し掛けた───筈だ。けれど、その情景を覚えていない。これは、わたしにしては珍しいことである。わりと何でも、余計なことまでも覚えている方なのに、その夜のことはよく思い出せない。

 どんなふうに眠ったのか、どうやって普通の顔で仕事に行ったのか───記憶が繋がるのは、ハナちゃんからぷーの葬儀が決まった事を聞いてからだ。

 予約の仕事を終え、小さな花束を用意して、営業車でハナちゃん達を迎えに行く。ハナちゃんとぷーと旦那と───そして、比較的住宅街にある葬儀社を経由して、山の中の火葬場へ。

 その間、ハナちゃんと旦那はずっと険悪な様子だった。わたしには、猫ベッドごと抱えたぷーを、もう一度抱いてやって欲しいと云ったのに、車から降りる時に旦那が、「ぷりん、抱いとこうか?」と云うと、いつにない剣幕で「ぷりに触らないでっ!」と怒鳴る一場面もあった。


 ハナちゃんが選んだ葬儀社と葬儀場がセットになっている会社は、御夫婦だけの小さい会社ながらも、きちんとしたところだった。住宅街の事務所で手続きを済ませ、骨壺を選び、移動した山中の葬儀場には一間の日本家屋様の待合室を兼ねた離れがあり、その部屋には涙が止まらない家族の為に、高級ティッシュ=鼻セレブが常備してあるという細やかさである。

 火葬の準備が整うと火葬場の方に移動し、棺こそないものの、我々の手でぷーをお花で囲んであげることが出来た。お坊さんではないが、社長自ら読経もしてくれた。そして、実際の火葬に入ったら、一時間半から二時間待ちだと言われる。

 九月も下旬の頃だ。あれこれの段取りをするうちにすっかり陽は沈み、人家の灯りさえない周囲の森は黒々と闇に溶け込んで、秋の虫の音と、耳が痛くなるような山の静けさで満ちていた。


 そうして、泣きながら笑い、笑いながら涙が止まらず、ぷーのことを話し続けた二時間───徐々に、ぷーが亡くなる前後の状況が判ってくる。ハナちゃんが旦那に邪険だった理由も。

 ぷーの死因は、余りにも急な状況から、心臓発作だろうと動物病院に言われたそうだ。

 ハナちゃんがいつも座る座椅子の上で、ぷーは亡くなっていた。吐いた形跡があり、体が長く伸びていたそうだ。心臓発作ならば、おそらく時間は短く、長く苦しくはなかっただろうと先生は云ったという。

 推定であっても、『長く苦しまなかった』というのは、唯一救いのある情報だ。慰め程度のことであっても。

 そして、ハナちゃん達が帰宅していなかった理由が、旦那だった。

 二人でハナちゃんの実家を訪ねていて、夕食を共にし、お酒が入った旦那が「まだ飲みたい」・「帰りたくない」とごねたのだそうだ。幾度か言述したように、旦那はかなり酒癖がよくない。その旦那をハナちゃんが、『ぷぷが待っているから』と、最終電車に間に合うように引き摺って帰って来たというわけだ。


 そして、すでに亡くなっている、まだ温かいぷーを見つけたのである。

 つまり、そういう事だったのだ。


 いつの頃からか、わたしが心の指標にしている事がある。

 本気で、力を尽くして事を行うのであれば、汚名は返上することができる。名誉も挽回できる。全く、少しも取り返しのつかない事等、そうそうあるものではない。チャンスはあるし、作るものだ。

 一方で、失うと取り返しがつかないのは、生命と心と時間だ。生命に関しては語るまでもないだろう。愛情や信頼は常に更新が必要だし、努力してキープするものだ。そして、時間は───時間だけは、決して巻き戻しが効かない。過ぎてしまった時間は、誰にも取り戻すことができない。どんな権力者でも、どんな聖人だったとしても……。

 その取り戻すことが出来ない生命と時間を、ハナちゃんは取り零してしまったのだ。


 ハナちゃんの後悔は、どれほどのものか……。


 もし、予定通りに帰宅していれば、まだ息のあるぷーに会えた筈だった。発作が短いものであったなら、一緒に居れば出来ることもあったかもしれない。

 けれども、そのどちらも努力することさえ出来ず、最後を看取ることすら出来なかったのである。

 おそらく、わたしに伝えはしなくても、ハナちゃん自身こそが何十回・何百回・何千回と考えただろう。もう取り戻すことが出来ないと判っていても、考えずにはいられなかっただろう。

 現にハナちゃんは、八年が経った今でも、現在いる猫たちを置いて、宿泊を伴う外出が出来ないでいるのだから───。


 そして、わたしも考えてしまうのだ。最早、選びなおすことなど出来ないif を。

 もしも、わたしが強引にでもぷーを引き取っていたら、何かが違っていただろうか?

 変則疑似家族の同居同盟で、みんなの健康管理はわたしの仕事だった。グレちゃんとぷーも悪くはない関係だった。例え、永遠のNo.2だったとしても、わたしがぷーをうちの子にして、ハナちゃんに「新婚生活を楽しめばいいよ」とでも云えば、違う結末が待っていたのだろうか?

 事前に何度も考えた事だけに、堂々巡りだけが繰り返される。

 わたしの中のif もまた、繰り返しても、最早どうすることも出来ないのに……。


 そしてそれとは別に、着々と近づいて来る不安が、はっきりとした形を持ち始める。

 いつか来るその日───次は、グレちゃんの番なのだ。

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