第三話 グレちゃんとお散歩・再び
実家では、離れの玄関ともいうべきベニヤの薄いドアの横に、戸建てならではの物干し台がある。両親・弟・わたしがそれぞれの都合で洗濯をして、みんなで共有している場所だけに使用率が高く、空いている日は少ない。そして、拘束時間の長い仕事をしている身の上で、物干し台が空いている日を狙って洗濯出来るわけではないのだ。なので、わたしの洗濯物は、通常部屋干しである。
けれど、天気の良い休みの日に、たまたま物干し台が空いている場合、ついでにシーツなども洗い、空間を贅沢に使って思う存分に干す。
そんな時、離れのドアは開けたままだ───と、いうより、重石を置いて閉じないようにしてある。勿論、助手であり見学者のグレちゃんが、自由に出入り出来るように。
『庭』というものが判っているのかいないのか、グレちゃんはわりと呑気に外に出て来た。約九年に渡って部屋猫生活をしていたのだが、若い頃に二年程の間を野良経験しているせいか、お外に対する忌避感が少ないようだ。わりとのこのこ出て来て、洗濯物を干しているわたしの横で日向ぼっこをしていたり、久しぶりの土や植物の臭いに誘われて、庭の奥の方へ足を延ばしたり、好きに過ごしている。
そんな時、わたしがふと思うのが、好き放題に伸びている植物の奥にグレちゃんが行ってしまうと、本質が忍者である猫だけに探すのが大変だなぁとか、実家の敷地は、路面から人の背丈以上に高くなっているので、すっかりシニアになったグレちゃんが落ちたらどうしよう───などだ。なので、洗濯物を干す手は止めず、顔だけグレちゃんの方へ向けて云う。
「グレちゃん、ママから見えないとこに行かないでね」
すると、ちゃんと振り返って立ち止まり、「うにゃ」と良い子の返事がある。
本当は、『ママから見えないとこ』の定義は、理解していなかっただろう。けれども、見えない所に行こうとする度にわたしがそう云うので、『まあ、大体この辺までか』と自分で見当を付けていたようだ。
今更だけど、どれだけ賢いのかね、キミは……。
やはり、二本目のしっぽを隠しているだろう?
そんなこんなで、グレちゃんは二度目の転居を楽しんでいるようなので、久しぶりに夜のお散歩に行くことにした。
一応、昼間も出てはみたのだが、明るい公園の子供達の声や、公園を挟んだ反対側の幹線道路の車の音が気になるらしく、余り乗り気ではなかったのだ。夜行性の忍者は、やはり夜の方が楽しいらしい。
ファースト・ステージの時は、近辺が元々のグレちゃんのテリトリーだったので、さして気にせずにリード無しのお散歩をしていたが、今回はさすがにリードが必要だろう。なにせ、転居して幾日も経っていない上、実家のご近所は昔ながらの戸建てばかりで、隣家との境界が垣根の所が多い上、ジャングルになっている広い庭の家が多い。わたしが学生の頃は、野良のアヒルや野良の烏骨鶏や野性の雉・鴨・鷺、フクロウにマムシにシマヘビ、狸やイタチが出没していた地域だ。まあ、最近は雑木林も減り、多少は新しい住宅も増えて、出るのは狸とイタチぐらいだが、見失ったら探すのはかなり困難である。
そういう訳で、リードを付けてのお散歩に出た。
門の近くまでは抱いて行き、階段アプローチは自分で歩いてもらう。とにかく、ここが家の入口だということを覚えてもらわなければならない。そして、いざ路上へ。
やはりというか、案の定、夜のグレちゃんの足取りの方が軽快だった。
とことこ進んでは伏せ。わたしの方をきらんと振り返る。
この時点で気付いた事が二つ───アスファルトの色とグレちゃんの灰色猫っぷりは、とてつもなく保護色であるということ。もう一つは、緑の瞳が反射する『きらん』が、ファースト・ステージの頃より弱くなっていることだった。
犬や猫もかかる白内障は、グレちゃんにも多少の兆候があるものの、年齢を考えると無いに近い。それでも、目が衰えていることに気付かざるを得なかった。
けれども、わたしが気にする程には
こんなに楽しんでくれるのであれば、また時間のある限り夜のお散歩をしよう。勤務時間と家事の時間を除けば、わたしのフリータイムはグレちゃんの為だけに使えるのだから───と改めて、わたしは思った。
そして、そう思ったことが逆目に出てしまったのだ。
それからのわたしとグレちゃんは、出来るだけ夜のお散歩に出た。
夜のお散歩の犬に遭遇することもあったが、その時はわたしが抱き上げることでトラブルを回避した。ちょっとこのパターンも慣れて来たかなと思った頃……。
───油断した時に、事件は起こる。
夜の散歩にも改めて慣れて、わたしは念のために装着しているリードを手放していることも多くなっていた。グレちゃんに自由に楽しんで欲しかったし、呼べば勿論戻って来る。咄嗟の時にはリードを踏めばいい───そう思っていた。けれど、わたしはやらかしてしまったのだ。
自宅の前の公園は、以前は農業用の溜め池だった。それを埋め立てて公園にしたのだが、池だった時の土手の名残はある。公園があり、土手の名残にフェンスがあり、挟んで個人住宅がある。その名残の土手の、人間が踏み入ったら家宅侵入になってしまう際を、グレちゃんがスッタカスッタカと歩いて行ったのだ。時折振り返り、わたしを誘いながら、とっとこ離れて行くグレちゃん。
さすがのグレちゃんも、人間が侵入できない場所であることまでは理解してはいない。そして、犬も猫も、遊び心の時は、追いかければどんどん離れて行ってしまうものなのだ。だって、『追いかけて欲しい』遊びをしているのだから。
グレちゃんが向かった先には、上を都市高速が、下を幹線道路が走る近隣最大の道がある。下手に家宅侵入をしながら追いかけて、幹線道路まで出てしまえば───その先は考えたくもない。
葛藤した末、わたしは土手には侵入せず、自宅に戻る決断をした。
追いかけて欲しい子は、追いかけて行けば調子に乗ってなお逃げる。追いかけて行かなければ、イジケながらも戻って来る。この経験則に賭けた。
問題は、グレちゃんがわたしの実家に来てから、十日も経っていないこと。そして、門まで辿り着いても、母屋を挟んで庭を大回りしなければ離れに戻って来られないことである。それでもわたしは、猫又直前と讃えられるグレちゃんの賢さに賭けた。
正直に云えば、探しに行った方が気は楽である。けれども、その方がより遠くへ隠れに行き、帰還率が低くなる事をこれまでの経験で知っていた。だから、グレちゃんを信じて待っている方が得策なのだ。
だが、門を開け、離れのドアを開けたまま待つ小一時間は、正直気がおかしくなりそうだった。
やがて、ずいぶん以前に聞いたことがある、グレちゃんの行進マーチが聞こえて来た時、どれほど腰が抜けそうになったことか……。
わたしが追いかけて来なったことに対する不満を、歩くリズムに合わせてブチブチ・うにゃうにゃ垂れながら、グレちゃんは自力で離れまで帰って来たのである。
土地勘など無い筈だ。それでもグレちゃんは、わたしを目指して帰って来てくれた。
以前にも述べたことだが───犬は人につき・猫は家につくと云った奴出て来いっ!! 不安だった分、言いたい文句は山ほどあるぞっ!!
そうしてグレちゃんは、ちゃんとわたしを目掛けて帰って来てくれたのである。
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