第十六話 グレちゃんとたろうさん

 たろうさんは、実家で飼っていた犬の四代目(四匹目)で、グレちゃんとの面識はない。けれども、グレちゃんを語るのであれば、やはりたろうさんもまた、語らなければならない。


 たろうさんは柴犬二世の柴雑種で、わたしが高校生の時に両親が何処からか貰ってきた仔犬だった。享年は十三歳。わたしが現在よりもっと無知で、無力で、泳ぎ方も知らないのに大海に放り込まれ、このまま溺れてなるものかと必死になっていた時代を、傍らに寄り添ってくれていた大切な子。

 たろうさん亡きあとも、実家では犬を飼い続け、現在は七代目(七匹目)を数える。けれども、わたしにとって愛犬と呼べるのは、現在もたろうさんだけだ。

 二度目に実家を離れ、のちにグレちゃんと暮らすことになる1Kの部屋に移ったのは、たろうさんが亡くなり、実家で母と介護していた母方の祖母が寝たきりになって、徘徊している時より手がかからなくなったからだ。いずれ来る両親の介護は、男兄弟ではなく、自分がすることになるだろう。早くから介護の大変さの実態を知っていた為、「その前に、自分の時間が欲しい」と両親には云った。つまり、市内別居である。

 実際のところ、最終的に二十二年続いた祖母の介護も半ばを過ぎ、わたし自身のフルメンテナンスが必要になっていたのだ。

 実家を離れることにはなったが、たろうさんの形見の黄色い首輪はしっかりと持って出た。普段から出しておいて感傷に浸ることはなかったが、布に包んで常に衣装ケースの中にある。その存在を常に意識していたわけではないが、そこに在ることそのものが最も重要な、お守りのような物だった。


 そして、事件は起きる。


 日記をつけていないわたしには、西暦一九九八年・平成十年は判るが、何月何日の出来事だったか明示できない。けれどもある日、仕事を終えて帰宅してみると、部屋の中に異臭が満ちていた。

 鼻をつまむほどではないが、決して気のせいでもない奇妙な臭い。

 わたしは自炊をするが、独り者なのですべての食材は冷蔵庫に収納できる。また、貯蔵するような余分な食材も置かない。いつも閉め切って出勤する為、シンクの中も片付けてから出ていた。故に、台所関係ではない。

 取り敢えず、留守中に籠ってしまった部屋の換気をしながら、臭いの種類を考えた。

 排水溝関係にも多少似てはいるが、それとも違う。淀んだ空気のせいばかりではなく、不快な生々しさと不安を煽る臭いだ。

 着替えもそこそこに、狭い部屋の中を嗅いで回る。狭い部屋だから、さして捜索する場所もないので、程なくその起点を見つけた。


 それは、押し入れの衣装ケースの奥に収納していた、たろうさんの首輪からの臭いだった。


 毛皮や肉塊の欠片が付いているわけでもない乾いた革の首輪から、そんな臭いが発生する謂われはない。そもそも、そんな臭いが発生する要因があるのであれば、もっと早くに起こっていた筈である。それでも、間違いようもなく、原因は首輪だと確信した。

 急にこのような不可解な出来事があると、場合によっては祟りだ・恨みだと感じる人もいるかもしれない。けれどもわたしは、亡くなったあとのたろうさんも生前と同じように信頼している。たろうさんは、決してわたしに危害を加えない。どんな時であろうと、信頼できない理由はどこにもない。

 だとしたら、どういう事なのだろう?───強いメッセージには、理由と意味がある筈だ。

 いつまでも自分に未練を残すなという、わたしを案じての警告か、もっと他の理由があるのか……。

 とにかく、この首輪を一刻も早く手放さなくてはならないと、その合図だけはしっかり受け取った。しかもその日はゴミ出し日で、全く、亡くなってなお、出来た愛犬だと思ったものである。

 いうまでもなく、わたしは即座に彼の警告に従った。


 この一連の出来事の理由に納得がいったのは、しばらく時間が経ってからのこと。

 自分にしか判らない非常に個人的な事件が起こる前から、野良のグレちゃんと出会ってはいた。そして、首輪を手放していくらもせずに、グレちゃんはうちの子になった。

 闘病から避妊からワクチンに至るまでのドタバタが終わる頃には、極当たり前の顔をして、ほんわかと安心しきって、グレちゃんはわたしの傍にいる。何もかもを心得た様子で。

 何を心得ていたのかが明らかになるのに、さしたる時間は必要ではなかった。

 グレちゃんがうちの子になって然程日数が過ぎていなかったある夜、玄関先に座るグレちゃんが、ドアを見詰めたまま微動だにしないことがあった。

 呼べば一応返事をするが、真剣な面持ちで玄関ドアから視線を切らない。抱き上げても抵抗せず、生活空間である六畳間の方に連れていっても逆らわず、それでもひたすら玄関ドアを見詰め続けていた。そのドアの向こうに何があるのか、わたしには判らない。けれど、とてもよくない『何か』がいるのだと感じた。

 余計な干渉をせず、静かに見守ることしばし───唐突に、いつもの懐っこい猫に戻ったグレちゃんが、振り返って甘えん坊一〇〇%の声で『うにゃん』といった。


 ああ、そういうことなのか……。

 そうわたしは、一連の出来事を理解した。

 たろうさんもまた、わたしが警戒心を抱くような人が近くに居る場合や、具合が悪いまま強制的に散歩を担当させられた時など、わたしを護る位置に立っていたものだった。

 彼らは継承したのだ。わたしの傍らにいるパートナーの役割を。

 ガーディアンとしての任務を。


 よく、ペットは家族だ・我が子も同然だ───と言う方々がいる。

 『家族だ』には賛同するが、『我が子も同然』には「?」。

 加えてわたしは、ペットという言葉も好きではない。自分にとって、たろうさんやグレちゃんはパートナーだ。ペットという家畜や愛玩動物では在り得ない。欧米では、彼らのことをアニマル・コンパニオンと呼ぶらしい。


 確かに普段は、わたしが生活環境を提供し、健康管理を行っている。それに必要な金銭という、人間社会で必要なものも負担している。

 けれども、ひと度わたしが何らかの危険に曝された時、不安の泥沼に陥った時、大きく体調を損なったり怪我をした時、彼等はわたしのガーディアンとなるのだ。

 ぴったりと傍らに寄り添い、不寝番の態勢で、『ここにいるから安心して眠っていいんだよ』と、温かな舌でわたしを優しく宥めてくれる。

 そんな彼らを、たかが犬・たかが猫とは、決して言わないし・言えない。


 本来面識のない彼らは、わたしのような人間には理解できない方法で、役割を継承してくれたのだ。この、頼りなく情けない、弱い人間であるわたしの為に。


 一部の友人は、「たろうさんがグレちゃんになって帰ってきたんじゃないの?」と云う。

 そうかもしれないとも思う。たろうさんが亡くなった頃と、グレちゃんの年齢の計算は、おおよそ合っている。

 けれども、それすらどうでもいい事なのだ。たろうさんは、あくまでたろうさんの犬生を全うした。グレちゃんは、間違いようもなくグレちゃんの猫生を生きてくれている。


 そして、傍らにいてくれる。

 大切なのは、それだけだった。

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