第十五話 グレちゃんのお留守番

 これまでの人生において、わたしが経済的に裕福だった時代はない。苦学もしたし、バブル崩壊の煽りを受けて転職も重ねた。グレちゃんと暮らし始めた頃は、待遇が良いとはいえない派遣社員をしていた。

 なので、グレちゃんという扶養家族が増えてから、年に一度のワクチン、暖かい時期に月一で行うノミ・マダニの駆除剤、時折必要となる鼻水関連の薬、毎日必要な良質のご飯代と猫砂代で、遣り繰りもぎりぎりいっぱいの状況だった。

 だから、極稀に外泊の用事がある時は、各種動物好きの友人Eにお願いして、自宅に泊まり込んでもらうことにしていた。お礼に友人Eの食事代を負担しても、ペットホテルを使わずに済んだ方が、グレちゃんにもわたしのお財布にも優しかったのである。

 他の理由としては、当時は小型犬ブームの真っ最中で、ペットホテルにいるのはほとんど犬ばかり。野良育ちのグレちゃんには、あまりにストレスが大きかろう───というのもあった。


 だがしかし、そういつもいつも上手く事が進む筈がない。

 とある用事で、わたしはどうしても二泊三日で出掛けなくてはならず、友人Eも友人Hもスケジュールの調整が付かない為、止む無くペットホテルに預ける日が来たのだ。

 グレちゃんの精神的負担を考慮して、出発日の飛行機を可能な限り遅い便にし、二泊したあとの帰りの便を朝一番に取った。所要時間としては、実質二泊二日だ。車の免許はあっても自家用車を持たないので、送迎つきのホテルを選んだ。細かい打ち合わせも行い、人見知りをしないグレちゃんでもあるので、取り敢えずは大丈夫かと旅立った。


 けれども、やはり事件は起こる。


 現地に到着したその夜、空港で会う約束をしていた友人達と落ち合う頃、件のペットホテルから第一報が入った。

『お預かりした猫ちゃんが、ひどく鳴き続けて収集がつかないんです』

 それを伝えられても、1200kmの彼方にいるわたしには、どうしようもない。とにかく、明後日の早朝に帰り、戻り次第すぐに引き取る旨を伝えるしかなかった。


 そして翌朝、二度目の連絡が入る。

『すっかりフリーズしてしまって、お水も飲まないし、ご飯も食べないんです』

 だ~か~ら~……格安チケットで来ている為、既定の便でしか帰れないのである。しかも、用事があって遠出しているので、すべてを放り出して帰るわけにもいかないのだ。

「すぐにどうこうなるとは思えませんが、危険性を感じたら近くの◎☆動物病院に預けてください。かかりつけですので」

 遠くからでは、そういう指示しかできない。わたしにはどうすることも出来ない状況にも拘らず、それからも数度連絡があった。けれども、飼い主が安心して出かける為のペットホテルではないのか? どこのホテルも、こんなに頻繁に連絡して来るものなのだろうか?───初経験なので、その判断すらつかない。

 それからというもの、正直気が気ではない。

 多くの人との交流の隙間で連絡を取り、二泊目は熟睡することもできず、血相を変えて朝一番の飛行機に飛び乗った。


 最初の予定では、わたしの帰宅後にペットホテルに連絡をし、自宅まで送って来てもらうことになっていたが、途中経過の報告を聞いていると、そんな悠長なことは出来なかった。空港でタクシーに乗り込み、ペットホテルに無事戻ったこと、タクシーで直接向かっていることを伝える。行き先だけを告げていた運転手さんにも事情を話して、まずペットホテルに向かってもらい、グレちゃんを引き取る間だけ待っていただき、そのまま自宅まで送って欲しい旨を伝えた。

 グレちゃんのピンチで、脳内で時間のカウントダウンに気が焦る。ついでに、滅多に乗らないタクシーのメーターが上がる度、財布の中身もカウントダウンだった。


「すみません、大変ご迷惑をおかけしたようで」───と、七割五分のリップサービスをしながら、ペットホテルに(少しだけ)詫びを入れ、スタッフさんがおかえりの準備をしている間に会計を済ませる。その間にも、店の奥から尋常じゃない猫の鳴き声が聞こえていて、思わずわたしは、「すごい声ですね」と言った。

 「あれ、お宅の子の声ですよ」と告げられて、何度目かも判らない驚愕。未だかつて、わたしは穏やかなグレちゃんのあんな声を聴いたことがなかったのである。

 やがて、キャリーバッグに入れられて連れて来られたグレちゃんは、一転して完全に沈黙していた。

 タクシーの運転手さんに自宅の場所を告げてから、改めてバッグの中のグレちゃんの様子を窺う。

 狭いバッグの中で香箱座りをし、真ん丸に見開いた両目は焦点を結んでいない。心なしかふかふかの毛皮も荒れているようで、憔悴ぶりが痛ましい。

 気が立っている子への配慮として、わたしの手の臭いをゆっくり嗅がせ、相手が誰かを認識できる時間を置いて、そうっと体に触れる───けれど反応はない。

 触れられる恐怖が少ない筈の背中を撫でながら、「グレちゃん?」と、低く優しく声を掛けた。「グレちゃん、ままだよ? ごめんね、お家に帰ろうね」と、意識してゆっくり話しかけ、二泊二日の間にかかった石化の呪いを解いていく。「もう大丈夫、まま、帰ってきたよ。気をしっかり持って」と。

 そして、それが『わたし』であるとようやく認識したグレちゃんの抗議は、それはそれは凄まじかった。

 タクシーの車中でも、家に帰ってからも……。

『ちょっと、どこに行ってたのよっ! あんな所に閉じ込められて、本当に怖かったんだから』

『もう帰って来ないって、捨てられたって思ったんだよぉ』

 ───等々、脳内超翻訳では、そんな感じの内容だった。


 我々の家に帰りついてドアを閉め、キャリーバッグの中から出てくると、部屋中を一通り走り回り、一旦休憩して水を飲み、今度は変わったことはないかと細かく見て回る。自分ちだと納得したのか、トイレを使ってからご飯───そしてまた再び、わたしにのしかかっての激しい抗議。


 グレちゃんが、わたしを深く信頼していることは判っていた。けれども、どんなに人懐っこくても、他の人間を信頼しているわけではないということも、この事件でつくづく思い知らされた。

 全身で甘えたり、思い出したように抗議したり、全くもって収集のついてないグレちゃんを宥めながら、もう二度と家の外で他人には預けないと誓ったのは、当然の結論だったのである。

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