第十四話 グレちゃんと鼻水
わたしとグレちゃんの信頼関係を強固に結びつけた大病=猫インフルエンザによって、『グレちゃんは一生鼻炎猫である』という、運命を決定付けられた。ただし、本猫が、それを気にしていたかどうかは判らない。
病気も徐々に完治し、家と外のリハビリが終わる頃には、鼻孔の蓋となり、膿のようであった鼻水もずいぶん改善していた。翌年二月には、洋猫の血が混ざっている大人猫としてまっとうな四.八キロまで体重も戻り、体力的な不安もなくなったので、避妊手術も行った。
それでもなお、鼻水問題は延々とグレちゃんに付きまとう。
グレちゃんの鼻水が、人間のアレルギー性鼻炎の鼻水のように水っぽいものであれば、グレちゃんの辛さは半分以下だっただろう。けれども、昭和の小学生がセーターの袖口の毛糸をガチガチに固めていたような粘度の高い青っ鼻が、いつものグレちゃんの鼻水だったのだ。
その鼻水は、毎日の生活の中でもある程度発生しているが、本猫がくしゃみで飛ばせる範囲であれば、大した問題ではない。物や家具に張り付いたブツは、乾燥を待って除去すればいいだけのこと。けれども、多少体調が悪い時や、春先の粉塵(黄砂・花粉・PM2.5等)が飛び交うシーズン、冬場の空気がカピカピに乾燥したシーズンなどは、痛ましいほどに酷くなった。
本猫が自力で出せないほど溜まると、がっちり固まって鼻孔を塞いだり、冬場であれば鼻孔が塞がるだけでなく、敏感な鼻にあかぎれ(鼻ぎれと呼んでいた)が出来たりもした。
そうして、自力で水が飲めない状況では、最初の受診で貰った給水用の針のない注射器が、長年に渡って活躍する。おそらく、減価償却は完全になされていた。
その小道具を使って少しずつ水を飲ませ、水分が巡って柔らかくなったところを見計らい、紙縒りでくすぐり、くしゃみを誘発して取ってあげられる時は軽い方。場合によってはわたしが体育座りの態勢で抱き上げ、後ろに逃げられない状況を作り、左手で頭を固定しながら目元を覆って細いピンセットで除去することもした(度々言いますが、非常に危険なので、良い子は真似をしないでください)。
その程度で対応出来るうちはいいのだが、グレちゃんが余りに辛そうだったり、鼻ぎれが出来たり、除去した鼻水に血が混ざっていたりするようになると、やはり病院に行ってお薬を貰うことになる。
実家では、わたしが中学生の頃から犬を飼っていた。犬にも、予防や闘病目的で錠剤を服用させることがあるが、当時のわたしはまだまだ未熟者だった。円満に錠剤を飲ませる要領を知らなくて、パンに包んだり、ポークビッツの奥に仕込んだりと、方法を考えて与えていたのである。素人や子供にも出来る簡単な方法ではあるが、人間の食べ物が他の動物には良くはないことには変わりない。
更にグレちゃんは、最初からお薬が必要な状態だったので、何が何でも薬を服用させなければならなかった。そして、やはりグレちゃんにとって、薬を飲むということは決して嬉しいことではないのだ。まあ、当然なのだが。
そして、猫は犬ほどには丸呑みしない為、もう少しまともなテクニックが必要だ。理解してしまえば、犬も猫も要領は同じで、片手で上顎と下顎の繋目を指で押さえて強制的に口を開けさせ、その隙に喉の奥深くに薬を入れ、反射的に閉じた口を開かないように手で押さえたまま仰向けをキープし、ごっくんと喉が鳴れば完了。
そう、ごっくんと鳴れば完了の筈なのだ。
グレちゃんと暮らしたのは、十六年。
一面では、薬を飲ませたいわたしと、飲みたくないグレちゃんとの攻防の日々でもあった。それが、毎日のことではなかったとしても。
弱っている時のグレちゃんは、あまり抵抗することも出来ず、止む無く薬を服用する羽目になる。だが、それで多少体調が良くなっても、『何日間飲ませてください』と言われれば、その日数は飲ませなければならない。そこからバトルが始まる。
犬であろうと猫であろうと、自分が嫌なことには敏感なものだ。彼らにとって嫌なことを実行する場合、その気配を微塵も感じさせてはいけない。時折出没するG様(ゴキブリ)を仕留める時、気配と殺気を抑えるのと同じ要領である。
グレちゃんの場合、鼻炎用に飲ませる薬は二種類・二錠だ。
これを極力見られないようにして、事前に手が届く所に準備しておく。あとは、全力で知らない振りを続け、彼女が油断して甘えに来る瞬間をひたすら待つ。
やがて、何も気付いてないグレちゃんが膝に乗って来れば、こちらのものだ。───優しく撫でながらご機嫌を取り、顔をGETしたら、素早く行動に移すのがコツ。
グレちゃんが『しまった!』と思っても、後の祭り。体育座りの太腿で後退を阻止し、動転している間に一錠目を喉の奥に放り込み、前述の要領で『ごっくん』させる。事ここに至ると、二錠目の抵抗が激しくなるので、更に難易度は増す。早く事を済ませようとして雑に口の中に放り込むと、飲み込みきれなかった錠剤が唾液で溶けて泡々になり、更に飲み込み辛くなって益々吐き出そうとするので、泥沼化は必至。
情けは無用。
強権発動・実力行使。
心を鬼にして、可能な限り喉の奥に突っ込むべし。
けれども、毎日ではないにしろ十六年もコレを続けていると、わたしも熟達するが、グレちゃんもまた熟達してくるものなのだ。
無事、喉の奥に薬を投入し、ごっくんをして、「よし、飲み込んだな」と解放すると、わたしの手が届かない所(しかも見える場所)に行って、『ペッ』ばかりに吐き出す。
オイオイオイ───さっきのごっくんは何だったんだ?! 何を飲み込んだフリをすれば、ごっくん出来るんだよっ?!
猫だろっ?
猫だよな?!
猫じゃないのかっ??
このテクニックは、未だ謎のまま───伴に暮らした他の猫・犬達の誰も成しえなかった、究極奥義の座に君臨し続けている。
そしてこの攻防は、終生続いたのだ。
余談だが、それら長年の攻防を乗り切った現在のわたしにとっては、実家でのほほんと生活しているお嬢さん育ちの猫・お坊ちゃん育ちの犬に錠剤を服薬させることなど、数秒で済むちょろい仕事になったのだった。
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