第十三話 グレちゃんの気持ち

 愛情深く、辛抱強く、思慮深く、人語を解するところの(動物病院の先生も、のちの同居人Hも、短期間しか一緒にいなかった弟Aも同意している)グレちゃんは、猫ではあるが猫ではないと、度々評された。もしかしたら猫又予備軍で、素敵なシマシマしっぽが本当は二本あるのを隠しているのではないかとも。

 そんなグレちゃんが、激しい感情を露わにしたことが、幾度かある。その一つは、前述したお散歩事件だ。


 二つ目は、例によって休みの日に、掃除に精を出していた日のことである。

 その休日の前、実は何日か続けて仕事の残業で、多忙を極めていた。グレちゃんのご飯・グレちゃんのトイレ・グレちゃんとねんねは欠かさなかったものの、一緒に遊ぶ時間も気力も到底なかった。

 やっと休日を迎えてひとしきり寝ると、溜まった掃除と洗濯と買い出し───傍らに付きまといながら、『ねぇ・ねぇ・ねぇ』と話し掛けるグレちゃんにも、「あとでね。あとでね。コレ終わったらね」と取り合えなかった。家事というものには段取りがあり、頭の中で組み立てた手順次第で格段に効率が違う。しかも、休日の時間にも限りがあり、やるなら一気に終わらせた方が早く、余剰の時間を確保出来て、グレちゃんとゆっくりラブラブ出来る時間が長く取れる───と、これは人間側の理屈。

 だがしかし、グレちゃんにはグレちゃんなりの理由があるのだ。

「うんぐるにゃあ~ん」

 背後から聞こえたのは、最上級の甘え声。

 元々おしゃべり猫で、サービス精神旺盛・常日頃から愛想のいいグレちゃんだったが、それでもまだ一度も聞いたことがないニュアンスの声だった。

 「なぁに?」と振り返ると、後ろ足で立ち上がって、両手を襖にかけたグレちゃんの姿───にっこりと意味深に笑っているとしか見えない視線と出合った瞬間、襖は縦に力いっぱい引き裂かれた。そして、『なんか文句ある?』と問いたげにふんぞり返るグレちゃん。

 もうこれは、微塵の誤解も入る余地がない行動。紛れもない確信犯。しかも、非はわたしの方にあった。グレちゃんはすでに何日も何日も辛抱していたのだから。

 そんな訳で、わたしは全面降伏した。そして、グレちゃんと正座で向かい合い。「ごめんなさい」と真摯に謝罪することになった。勿論、この日の残りの時間は、グレちゃんの為だけに費やしたのはいうまでもない。


 それから、年一度のワクチン接種の時の事件。

 幾度かワクチンを受けるうちに、グレちゃんはワクチンに対するアレルギー反応で、かなりの高熱を出すようになっていた。

 それは、最初に罹患していた猫インフルエンザの後遺症だと判明した。やむをえず、獣医師さんと相談の上、最初にアレルギーを抑える注射を打ち、十五分ほど時間を置いて、本来のワクチンを打つという手法が採られることになった。

 その取り決めが出来て、幾度目だったか……。

 初めからお世話になっている動物病院に行くと、いつもの女性の先生は不在で、会ったことがない男性の新任の先生が一人で勤務していた。なので、ワクチンを受けるにあたっての事情を説明し、取り敢えずアレルギーの注射を受けた。

 動物と一緒に暮らしたことのある人は知っているだろうが、概ね彼らは病院が嫌いで怖い。ほとんどの場合、苦手な子ばかりである。なにしろ、自分たちには理解出来ない理由で、痛い事や嫌な事をされるのだから、当然だろう。

 他の多くの子より辛抱強いグレちゃんではあったが、根本的には同じだ。最初の注射を受けて十五分待つというのは、恐怖の限界に挑む苦行にも等しかっただろう。

 そして、ようやく本来の目的であるワクチンを受ける段階になって、新任の先生がきっちりしくじってくれたのだ。慣れている先生だと1分もかからない作業なのに、もたもた・もたもた───自信がない・焦っている・おどおどしている───そんな人間の心の機微は、動物たちには如実に伝わる。

 そしてその心の動きは、確実に恐怖心を煽るのだ。

 御蔭で、再度診察台に乗せられ、更に待たされたグレちゃんは緊張の臨界を超えた。ようやく先生の手が背中に触れた時に、緊張の糸がぷつんと切れ、目の前にある手に本気で噛み付いたのである。

 ここでまた、動物と暮らしている人には説明の必要もないだろうが、目の前にある手とは、飼い動物が危険な行動を取らないように支えている飼い主の手に他ならない。

 つまりこの場合は、わたしの手だ。

 まだ若かったグレちゃんの牙は、いとも容易く、さっくりとわたしの手に深く食い込んだ。と、同時に、グレちゃんは何に牙を立ててしまったのか、理解した。おそらく、匂いによって。


 その時のグレちゃんの動揺ときたらっっっ!!


 今まで見たこともないほど、真ん丸に瞳孔を見開き、そうっとそうっと噛んだ手を放す。フリーズしてしまった体と開けたまま閉じない口が、動揺の大きさを物語る。

 だが、動揺したのは周囲のスタッフも同じで、牙が抜けると同時にわたしの手からは床まで滴る血が流れだしたのだ。先生もスタッフさんもどうしたらよいのか判らないらしく、阿波踊りでもしているようにオロオロし、大変大変と騒ぐ。

 けれど、これは千載一遇のチャンスだ。

 「あおさん、怪我の治療を」とのたまう新任の獣医さんに、グレちゃん優先のわたしは普通に答えた。

「先生、チャンスです。ショックでフリーズしていますから、今のうちにワクチンを済ませてください」

 『はっ!そうなのか?』と初めて気づいた様子で新任の先生は、わたしの要望に従って、今度は速やかにグレちゃんの注射を済ませてくれた。そしてわたしは、後を引くショックで注射をされたことにすら気付いてないグレちゃんをキャリーバッグに促し、きちんと安全を確保した上で、「水道を貸していただけますか?」と丁重に依頼した。

 流水で傷を洗うというのは、単に血の汚れを落とすだけではない。未だ出血している部分から雑菌を含んだ血を絞り出し、体内に取り込まないことに意義がある。取り敢えず、これで大丈夫だろうというところまで傷を洗ったわたしに、新任獣医師は恐る恐る訊いた。

「あの、消毒液を使われますか? 動物用しかないんですけど」

「動物用は、人間用より効果と刺激が薄いだけの同じ物と理解していますので、大丈夫です。できればお借りできますか?」

「あの、滅菌ガーゼを使われますか? 動物用しかないんですけど」

 あ~の~な~、そんなことは解ってるっちゅーねん。動揺するにも程がある。滅菌ガーゼに動物用も人間用もあるもんかいっ!(注:自分は関西人ではない)───という本音は懸命にも自制し、ありがたく頂戴した。

 傷つけてはいけない相手を傷つけてしまったというグレちゃんの動揺に対して、人間側はクレームだとかを意識しているのが判って、あまり気分のいいものではなかった。


 だがわたしには、そんなことを気にしてはいられない最優先重要任務があるのだっ!

 決して本意ではなかった暴行に対して、自らを責めて、落ち込んでいるグレちゃんに、君は悪くないのだと説明し・慰める仕事が、家に帰ってから待っている。


 そのことの方が、いずれ何の問題もなく完治する傷よりも、遥かに重要だったのである。

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