第十二話 グレちゃんとねんね
グレちゃんを連れて帰った初日、当然のことながら、猫ベッドの準備がある筈がない。
座布団やバスタオルで寝床を用意はしたが、グレちゃんがそこを使うことはなかった。
当時の、病で弱り切り、体の辛さと怯えに身を強張らせた名も無き君が、四角く・小さく縮こまるようにして、それでもわたしのベッドの足元に固まっていた姿を思い出す。申し訳なさそうに、けれど離れることにも怯えているように、そして触れることを恐れているように、ただ同じベッドにいた。当たり前だが、多少知った仲でも、わたしのことを完全に信頼出来てはいない。けれど、身を守る為には、人間の傍に居る他にもうどうしようもないところまで来ているのだ。
その姿があまりに切なくて、出来るだけ驚かせないように、そっと側に寄って毛繕いをした。ブラシや櫛を使ってではなく、信頼と愛情を伝える動物同士の毛繕いを。
勿論、本当の動物同士の毛繕いのように舌を使ったわけではなく、下唇を使って・毛並みに沿って、耳やおでこや頬をそうっとそうっと撫でていく。
それが、いくばくかの慰めになればと……。
その後、猫ベッドを導入し、グレちゃんも自分の名前に馴染み、何時の間にか自分の寝床だと認識した場所でぬくぬくするようにもなった。けれど、夜になって本格的に寝る態勢に入ると、必ずわたしのベッドにやって来る。
最初は足元に───わたしが多少寝返りをうっても触れない隅っこに。
けれども時間をかけて、その場所は少しずつ移動して来た。
病が癒えてきたからなのか、その過程でわたしへの信頼が増してきたからなのか───その両方なのかもしれない。
グレちゃんのお好みは、わたしの体の前側で、足元から腹へ、胸の上へ、やがて顔の前へと移動してきた。それも、『思い起こせば』の範囲で、いつ頃からそうなっていったのかは覚えていない。
とにかく気が付けば、グレちゃんとは一つの枕を共有して眠る仲になっていたのである。
そんなとある夜、ふと夜中に意識が浮上した時、違和感を覚えた。
子供の頃から無類の動物好きを自称するわたしは、少ない機会を逃さず、わりと多くの生き物に触れている。その経験から考えられるありえない生き物が、眠っていた私の喉に触れていたのだ。
それはもう一気に覚醒するほど驚いたが、対人間以外の生き物の場合、急な動作をして良い目が出ることはないと雑学上判っていた。
最初に連想したのは蛇。全身が筋肉で、
指で触れてみると、それは生リアル・ファーの襟巻───もとい、グレちゃんの長いしっぽだった。
びっくりさせるなよなぁ───と思いながら、指でしっぽを触ろうと、掌に握り込もうと、うにうにと幸せそうに眠るグレちゃんが起きる気配はない。わたしもまた、極上の手触りの暖かな毛皮に癒されて、いつの間にか再び眠りに落ちていた。
更に別の夜、完全に眠っていたわたしの口の中に侵入者があった。
『何事?!』と驚愕しはしても、他の生き物と同居していると、急には動かない。余程の大型生物でもない限り、相手が犬でも猫でも人間の方が大きい。シェパードやレトリバー系、マウンテン・バーニーズやグレート・ピレニーズのサイズであれば平気だろうが、それ以外であれば、突然の寝返りや飛び起きで、パートナーに怪我をさせる確率が高いのだ。
脳に深く刷り込まれたマニュアルの通り、状況が判明するまでフリーズした。そして、徐々に意識がはっきりしてくると、口の中にある物体がグレちゃんの後ろ足だと判明。眠っていてぐんっと伸びをした折に、口の中を訪問したと思われる。
……コイツ、噛んだらどうすんの。危機感ないんかい?
寝惚けた思考で考えた最初の事。
こちらも脳内パフォーマンスが落ちている状況だったので、悪戯心で肉球をぺろぺろしてみた。すると、やはりくすぐったかったのだろう。可愛い足は速やかに去っていった。
平和で円満な解決である。
就寝中以外でも、眠る事に関する家庭内事件は起きる。
グレちゃんが来る前からの事だったが、わたしは自宅に仕事を持ち帰り、ワープロやPCに向かって長時間仕事をする事があった。
そんなわたしの傍らに居ることが義務、もしくは任務と思っているのか、そういう時のグレちゃんは、猫の正座ともいえるお座りのポーズですぐ隣にきちんと座っている。何をするわけでもないが、ひたすら横に座り続けるグレちゃんが『助手』と呼ばれる所以だ。
一方のわたしは集中仕事を始めると、とてつもなく長い。
学生時代からずっとだが、集中しているとTVもラジオも音楽も雑音に過ぎない為、それらをすべて排除し、文字通り寝食を忘れて根を詰める作業に没頭してしまう方だ。倒れる寸前までそれをするのが楽しいのだから、充分に変人か変態のカテゴリーだろう。
なので、時間の感覚も曖昧になっていくのだが、ふと正気に返った時に、相変わらず静かに側にいるグレちゃんを振り返った───というか、思い出した。
時刻はすでに深夜。グレちゃんは隣に座ったままこっくりこっくりと船を漕いでいる。現在やっている仕事の一区切りまで、もう少し時間がかかる。なので───。
「グレちゃん、眠い? もうちょっとだから、先にねんねしてて」
そうっと声を掛けると、グレちゃんは軽く頭を振り、元通り居住まいを正した。
そうまでしてそこに居たいのであればと、再度仕事にかかる。
だが、一度気付いてしまったことは、やはり気にかかるものだ。
ちらちらと窺っていると、数分もしないうちにグレちゃんは再び船を漕ぎ始めていた。
仕事をしなければならないのは人間の都合でしかない上、わたしがその時にしていた仕事には、まだ幾分か時間の猶予があった。没頭して一気に済ませたいのは、単にわたしの希望でしかない。愛しのグレちゃんが、それに付き合うことはないのだ。
「わかった。寝ようね。一緒にねんねしよう」
一般に、よく眠るから寝子といわれる。睡眠不足の猫は、体調にも精神にも異常を来たすと耳にしたことがある。なによりも、こうまでして助手を務めようとする子には、愛しさが炸裂する。
結果、わたしはとっととやりかけの仕事を切り上げ、グレちゃんと眠ることにした。
一緒に暮らし始めた初期はこんな感じだったが、長く伴にいたグレちゃんはやがて、自分が眠たくなった時には『新妻席』と呼ばれるようになった枕の横にスタンバイして、『早く寝よう』とわたしを呼びつけるようになった。
何事においても、深く愛した方が折れなければならないという、典型的な日常である。
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