第十話 グレちゃんのただいま

 いつからか、グレちゃんはおみやげを持って帰って来なくなった。

 そのきっかけには、多少の心当たりがある───というより、該当する小さな事件があった。


 それは、とある休日───すでに暖かくなっていたので、グレちゃんと暮らすようになって、最初の春か夏のこと。

 たまの休日だったが、小さき大人の生き物と同居することになったので、苦手な掃除を多少はこまめにするようになっていた。おあつらえ向きに、暑過ぎず・風もほどほどで、またとないお掃除日和である。

 洗濯機を回し、窓を開け放って布団を干し、出したままの諸々を所定の場所に戻し、掃除機を……。

 グレちゃんは、いつも一緒に働いてくれる。

 ユニットバスに行けば水音にビビリながらも入り口から見守り、キッチン回りや洗濯機を周辺にいれば、足元に陣取る。押し入れの整理をする時はわたしの上半身と一緒に出たり入ったり、布団や洗濯物を干す時は、窓から顔を出す。実に付き合いの良い働き者だ。

 ただし、掃除機だけは天敵だった。おそらく音が怖いのだろう。多くの猫の例に漏れず苦手な掃除機が登場した時点で、玄関先で『外に行きたいの』と主張をし始めた。この日は、部屋の中にいるグレちゃんを誰かに目撃されてはマズイと、玄関を閉めていたのである。

 はいはい、外に行くのね───と、わたしは当たり前のようにドアを開けた。グレちゃんは少し振り返り、『いってきます』とばかりに小さく『にゃあ』と鳴き、いつものようにスッタカスッタカと廊下を歩いて行った。

 さて、その間に、グレちゃんの苦手な掃除機掛けを終わらせようと、更に自分の労働エンジンの回転数を上げて動く。


 ───が、三十分もしないうちに、グレちゃんが帰って来た。いつものように声を出さず、ドアを開けて欲しいとカリカリしている。昼間は、深夜より他人に目撃される可能性が高いので、いつものような通路は開けていない。

 やけに早い帰宅だが、深夜の散歩の時のように、一人ではつまらなかったのだろうか?

 多少疑問に思いながらも、速やかにドアを開けると、しっぽを立てたまま入って来たグレちゃんは、うにゃうにゃとしゃべりながらパトロールをするように狭い部屋をぐるりと一周する。そして、少し何かを考える様子をみせ、それからまた出してくれという。滞在時間は数分となかっただろう。

 何をしたいのか判らず、わたしの頭はクエスチョンマークでいっぱいだったが、そうしたいのなら構わないと要求通りにドアを開け、グレちゃんはまたも普通に出て行った。


 出て行きはしたものの、二度目の帰宅は更に更に早かった。時間で計っていたわけではないので明確な記憶はないが、十分と経っていなかったかもしれない。

 またしても、気遣い満載のサイレント帰宅で、ドアをカリカリ。迎え入れると、やはり部屋を一周して、もう一度出たいと主張する。

 何をしているのか不明だが、グレちゃんなりの理由があるのだろうと、三度外に出す。すると、わたしが玄関ドアから離れる間もなく、また開けて欲しいとの合図が……。

 「何してんのかな?」とは思うが、ドアを開けることなど、どうということもない。

 すると、遅滞なくドアを開けたわたしの顔を見る緑の瞳が、キランキランに輝いていた。そして、上機嫌の中でも最上級の甘えた声で『うんぐるにゃあ』と一声。

 

 んんん? 何が『うんぐるにゃあ』なの?


 三度帰宅したグレちゃんは鼻歌を歌うごとくに喉を鳴らしながら、自分のご飯とお水をチェックし、三度目の部屋の中をパトロールし、わたしに対してものすごい勢いで猫語を話し始めた。


 耳も尻尾もピンと立ったまま。真ん丸に見開いた緑の瞳はキラキラの星が輝き、瞳孔が開いているのではないかと思うほど。いつもよりテンション高く話し続ける様子は、何かが嬉しいのだと誤解しようもなかった。

 このところ、常時使用スタンバイ状態の脳内超翻訳機能(今でいうところのアプリ?)が、グレちゃんの言葉を意味のあるものとして伝えてくれる。

 『いいの? 本当にずっとここに居てもいいの? いつお出かけしても、いつ帰ってきてもいいの?』───そう聞こえた。多分、間違った翻訳ではなかっただろう。

「うんうん、そうだよ。いつ帰ってきてもいいんだよ。ここがグレちゃんのおうちだからね」

 ある意味正しく、何かが間違っている一人と一匹は、互いの言語の違いなど全く気にすることもなく、当たり前のように話し続けた。

 おそらくこの時が、わたしの居る所が我が家なのだと、いつ出かけても・いつ帰ってきてもいい場所なのだと、グレちゃんが心の底から納得できた瞬間だったのだ。昭和の漫画でよくあった、ひらめきマークの電球や飛び交うハートマークの幻覚さえ見えたと思う。


 わたしが、野良で生活していたグレちゃんが、いつか出て行ってしまうかもしれないと恐れていたように、グレちゃんもまた、いつか帰れなくなる日が来るのかもしれないと恐れていたのかもしれない。

 そのお互いの恐れが払拭されたのが、この日だった。だから、この日は、本当の家族になれたもう一つの記念日になった。


 そして、本当の家族になってからというもの、グレちゃんのおみやげはパタリとなくなる。

 わたしがいる所がおうちであるなら、いつでも・どんな時でも受け入れてもらえるなら、御礼奉公や貢物は必要ないとグレちゃんの基準で考えたのだろう。ちゃっかりしているが、間違いではない。

 いつでも帰って来ることが出来て、ご飯もたっぷりあって、わたしが楽しそうにしているのであれば、あえて貢ぐ必要はないとグレちゃんは納得したのだ。


 全くもってその通りである。君は正しい。


 こうして、グレちゃんとわたしは真の家族になった。いつでも、どんな時でもグレちゃんが帰って来ることができる家に、わたしはなれたのである。


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