第六話 グレちゃんとお散歩
点滴通院の終了。流動食から普通食への移行。
若さ故か、着々と回復していくグレイちゃんのことで、わたしは一つの事に気付いた。
一緒に暮らし始めて、まだ数日。
ずいぶん回復したとはいえ、わたしが仕事に行っている時間は、1Kの部屋でのお留守番をお願いしている。
自宅の周辺が、いくらグレイちゃんのそもそものテリトリーとはいっても、まだ全快にほど遠いのに、留守中、長時間外に出す勇気はない。見ている限りでは、本人もあまり積極的に外に出たそうでもない。体が弱って身を守れない生き物としては、当然の本能だろう。
───が、もしかして、お腹の中の大きな居候をまだ排泄していないのではないか?
連れて帰った当初は、病故の極度の脱水と栄養失調。スタートは点滴と流動食生活。食事も碌に出来なかった日々がどれくらい続いていたのか不明だが、出すべきブツがそうそうある状態ではなかった。なので、取り敢えずは、トイレにて小用を致していることで油断していた。
そろそろ固形食も食べ始め、大きな居候も溜まっているのではないだろうか?
人間でいうところの便秘───しかし、たかが便秘と侮るなかれ。
大腸内に諸々溜まることで、人間でも不調を来す。大腸の主な仕事は水分の吸収。内容物が滞り、吸収出来る水分がなくなることで脱水症状を誘発する。加えて、水分を失った大きな居候は柔軟性を無くし、益々頑固に出辛くなる。更に、内容物が滞れば、食欲不振・消化不良・老廃物の蓄積等々が発生する。特に脱水症状は、人間でも脳梗塞や心筋梗塞のリスクを高める。俗にいう、『どろどろ血液が血管内で詰まる』というヤツだ。
ましてやグレイちゃんは、酷い脱水症状が緩和されたばかりだ。次を引き起こすのは非常にマズイ。
で、推理してみた。現在のグレイちゃんは、いわば緊急避難中の気持ちだろう。即座に終了する小用は熟せても、それなりに時間がかかる排便が難しいのは安心感が足りないせいなのでは? 以前とはあまりに違う環境故に、落ち着いて用を足せない。あるいは逆に下してしまうというのは、人間にもある話だ。
それならば、我が家の生活に慣れるまでは、以前の生活を多少なりとも再現しなければならないだろう。そもそも、犬でも猫でも人間でも、運動が足りなければ詰まるのが自然である。
なので、その夜から、我々は同伴散歩をすることにした。
わたしが先に立って誘えば、自ら外に出て来ることが判ったからだ。
その時は疑問すら抱かなかったが、わたしはグレイちゃんに対して、最初の最初からリードの必要性を感じていなかった。うちの子になる前もその後も、逃げようと思えばいつでも逃げられたからだろうか。
だから、思いついたまま、ふらりと二人で外に出て、まずはアパート周辺で遊んだ。
余程───本当に余程溜め込んでいたのか、すぐに第一回目の排泄完了。健康状態を確認する為にも、しっかりその居候を回収する。
ふむふむ、ちょいとお硬めではあるが、それなりの優良物件だ。
しかし、安心したのは束の間、猫の散歩の難儀ポイントは、そんなところではなかったのだ。
何度も言ったが、猫の本質は忍者である。なので、隠密行動が本能に組み込まれているのだ。
つまり、我が家の近くの路上で戯れている分には、本気で身を隠すこともなく、路上でころころしたり、緑の両目をキラキラさせていたりするが、一度それなりの移動を行うとなると、好んで歩くのは、他人様の敷地内や生け垣の中。時折顔を見せて『一緒に来ないの?』といわんばかりだが、一応は人間である身の上で同じ行動をすれば、間違いなく家宅侵入で犯罪者。
近くを並走しているのは気配で判るし、呼びかければ返事もする。グレイちゃん自身も時折不安になるのか、たまには顔を見せる───ことで手を打ち、お互いを見失わない距離を保ちながら、ゆっくり歩き、時に立ち止まり、時間をかけて散歩した。
───と、いう諸々の個人的事情で、深夜に住宅街を徘徊する不審人物の誕生である。
この不審人物は、その後も度々登場することになった。
それというのも、便通改善とリハビリを兼ねた散歩は一週間を待たずに不要となったのに、グレイちゃんがこの散歩を大好きになってしまったからだ。
いや、本音をいえば、わたしだって楽しかった。
つかず離れずの猫との散歩。こちらが見失って呼びかければ、必ず返事をする。あちらが見失って顔を出せば、わたしは必ず待っている。時に悪戯を仕掛け、わざと気配を殺して隠れていれば、不安そうに慌てて探しにくる。
ほんの数日で深まった絆を確かめ合うのは、本当に楽しかった。
だが、わたしは昼間、フルタイム労働者の身の上。時に疲れ果て、あるいは体調不良で、深夜0時過ぎにスタートする散歩のお誘いに応え辛いこともある。
大抵の場合、とてつもなく聞き分けのよいグレイちゃんは、渋々でも我慢してくれるのだが、彼女的にどうしても深夜の散歩に行きたい夜があった。どうしても、どうしても行きたくて、玄関先で騒ぐので、仕方なく一人での外出をお願いする。少ない近所の住人でも、猫と暮らしていることがバレるのはマズイ。
一人で行ってくださいとドアを開けると、グレイちゃんは意味深にちらりと振り返り、プイっと出て行った。
そう、確か夏のことで、窓を開け放っていた頃だ。グレイちゃんが外出する時の定番で、玄関ドアにチェーンをかけ、スニーカーを挟んで隙間を作っておく。いつ帰って来てもいいように。
大人しく一人で行ってくれたかと、ほっとすることしばし───やがて、猫の只ならぬ鳴き声が窓から……。
嫌な予感しかしない。
我々が住んでいた集合住宅の隣は、転居して来た当初から空き地だった。敷地のサイズからみて、学生の街ならではの木造二階建てアパートがもう一棟並んでいたと推測していた。その空き地からの声───もしやと窓から顔を出すと、嫌な予感に違わず───というか、想像を超えたレベルの光景が飛び込んで来る。
窓から見渡せる空き地。その三方は集合住宅に塞がれ、残る一方は生活道路に面している。その空き地を挟んで向かい側の角───最も音が反響する場所に陣取る者の双眸が、見覚えのある緑色にきらりんと光る。
状況を理解した瞬間、轟き渡る音声をわたしの脳が超変換の翻訳を成した。
『君は包囲されている。潔く投降しなさいっ! お母さんも泣いているぞっ! 諦めて出てきなさ~いっ!』
───と、まあ、そんな感じ。
グレイちゃんは猫だ。
猫の筈。
猫だったような……。
何を・どうして・どう考えて・この行為に至ったのか……。
犯人=わたしは、謎多きなんだかんだを考えるより、即座に投降することを選んだ。
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