第四話 グレちゃんとトイレ
猫のトイレの躾はわりと簡単だと、猫飼い初心者のわたしでも知っている。───それが、自称・無類の動物好き故の雑学なのか、良くは判らないが、とにかく知っていた。
それに対して、室内飼いの犬のトイレの躾は大変である。それは種族的な習性の問題で、広大な行動範囲を持つ天性のマラソンランナー・狼を先祖に持つ犬は、自分のテリトリーの各所にマーキングを欠かさない習性があるので、固定の位置で用を足すのはとても苦手。これは狼に限らず、熊や虎等、行動半径が数百キロに及ぶ動物には、当たり前の行動なのだ。
まあ……日本国内で、熊や虎を室内飼いする人はいないだろうが。
一方、ほとんど部屋の中で飼われる猫は、基本性質が忍者なので、安全を確認している決まった場所で用を足す。つまり、猫のトイレの躾は初動にキモがあり、それさえ押さえ、その後に飼い主が余程のポカをやらかさなければ、あとの苦労はないのだ。
グレイちゃんの場合、最初が点滴の為の一晩入院だったので、対応は更に簡単だった。
人間も同じだが、長時間の点滴をした時は、どうしてもトイレが近くなる。なので、失禁することを前提に、最初と同じトートバッグに最初と同じ古いトレーナーを敷いた状態で迎えに行った。
案の定、徒歩で帰り着くまでの間に、グレイちゃんはトレーナーに失禁していた。全くもって計画通り。
グレイちゃんと一緒に暮らすことの全部が急なことで、まだ猫ベッドも用意してなかった為、弱り切って全く抵抗しないグレイちゃんをわたしのベッドに落ち着かせ、早速トイレの設営に取り掛かる。
前の晩に見繕っていた、未使用のプラスチックケースの引き出しに尿がついたトレーナーを敷き、手に入れていた新聞紙を手作業で細かく裂いて盛った。最初から猫砂を使わなかったのは、市販の猫砂には消臭剤が入っていることが多いので、まず臭いでトイレであることを認識してほしかったからだ。
トイレの確定が成されないと落ち着かないのだが、仕掛けは上々なので、強要するのは良くない。かつて、数度訪れたことのある部屋とはいえ、グレイちゃんはここで寝泊まりをしたわけではなく、食事をしたわけでもない。だから、多少なりともグレイちゃんが安心できるまで、食事・給水・投薬以外には、無闇に構わないことにした。
そうしてその日は、チャンスを逃さない為の無期限待機───自室で静かにしているのはお手のもの。
今こうして、グレイちゃんのことを語っているように、わたしは文章を書く。ついでに、それ以上に本を読む。テレビ・ラジオ・音楽を流さなくても、全く気にならない。おそらくそれら人工の音は、病んで消耗した猫の神経にも負担になるだろう。
どのくらいの時間が過ぎてからか、四角く固まっていたグレイちゃんが、よろよろ・ふらふらと動き始めた。
ベッドから落ちてはいけないと、怖がらせないように床に降ろす。すると、何かを探すようにグルグル動いている。
なるほど、この行動は待っていたアレだなと確信を得て、準備を整えていたトイレに連れて行き、そっとその中に入れてあげた。
グレイちゃんは、新聞紙のトイレの臭いを嗅ぎまわり、そこに敷いたトレーナーを感知したのか、無事、最初のトイレを致すことに成功した。
グレイちゃん、偉い。
自分、グッジョブ。
そして、目の前で行われた貴重な第一回目のこの機会を、決して逃してはならない。ここにも、もう一つのキモがある。
弱っている相手を警戒させないように・怯えさせないように、動作はゆっくりとを心がけて近づき、静かに・穏やかに声をかける。
「トイレした? いっぱいした? おお、いっぱいしたね。偉かったね。グレイちゃんは賢いね」
できるだけ優しく、言葉を尽くして褒めちぎる。とにかく褒めまくることが、躾の第一歩。
そして、グレイちゃんがきょとんとしている間に、すぐさまトイレの始末。既製の猫砂と違い、新聞紙のトイレはすぐに使い物にならなくなる。猫は、不潔なトイレを嫌がるのだ。
尿の臭いが付いたトレーナーを敷いていたのは、二・三日。
けれど、トイレの場所を覚え、用を足す度に、わたしはグレイちゃんへの大絶賛を繰り返した。それは、猫砂を使うようになってからも、ずっと。自力でご飯を食べても、自分で水を飲めても、ひたすら褒め続けた。
叱ることが躾と思っている人は多いと思うが、実は褒めた方が躾は上手くいく。叱るのは、生命の危険があるような事のみ。叱られる回数が少ないほど、してはいけない事を覚えることもあるのだ。
まあ、グレイちゃんに限らず、犬も猫も、鳥に馬にカピバラでも、人間側の好悪の感情や、叱られているのか褒められているのかぐらいは判るもの。
十年ほどあとの事、とある触れ合い動物園でニンジンを片手にカピバラをコミュニケーションをしていたら、幼い姪っ子と甥っ子に「カピバラと話してるし……」と退かれたが、人間に飼われている動物であれば、初対面のカピバラでもある程度は交流できるものだ。「触れ合い動物園なんだから、話しぐらいするさ」と、平然と答えるこの叔母を、二人がどう思ったかは知らない。だが、まあ、嫌われてはいない事は確かだ。
そういうわけで、元から多少なりとも人語を解している様子のグレイちゃんである。褒められている事に、誤解が入り込む余地などなかっただろう。
そんな事よりも、野良で暮らしていたグレイちゃんとしては、トイレ一つで褒められる経験の方が思いがけないものだったようだ。どうやらそれは、とても誇らしく・嬉しいことだったらしい。弱った体でもしっぽを立てて、「うにゃ」と一言返事をしてくれた。
その反応だけで嬉しいのだから、人間もかなり単純である。
犬や鳥と暮らしていたことはあれど、『これからずっと』を前提とした猫との生活は初めてのわたし。
愛想がよく、多少の人語を解しているらしいが、人と暮らすのは初めてらしいグレイちゃん。
毎日が手探りの状態だったものの、猫らしくなく喜怒哀楽を示してくれるグレイちゃんの豊かな表現力は、円満な関係を築く強力な手助けになった。
それから、何か新しい出来事がある度に、ほんの些細なことでも褒めて・褒めて・褒めまくり───生命に関わるような、危険なことのみストップをかけ、わたしとグレイちゃんの関係性は確立していく。
その後、一番最初に褒められた経験のインパクトがあまりに絶大だったのか、「トイレ、終わったよ」とのグレイちゃんの報告業務は、その後十六年間に渡って欠かすことなく続けられる───という、オマケがついたのである。
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