第三話 グレちゃんの闘病
取り急ぎ、最初の重篤な状態を抜ける為に最も必要なのは、数日に渡る点滴と投薬。そして、少しでも栄養を摂らせることだった。
自宅療養で重要なのは、素人考えで焦って大量に飲み食いさせない───ということ。
それはすでに知っていた。
もう十年以上前、今は亡き愛犬・柴雑種のたろうさんがジステンパーに罹った時に、当時お世話になっていた獣医さんから教えていただいたことだ。
実は、死病のように語られるジステンパーも、それだけで簡単に死に至ることはない。早期発見は大基本だが、罹患してからの問題は、ジステンパーによる高熱で食欲が落ち・胃腸が弱り・嘔吐を繰り返すこと。その結果、脱水と栄養失調、体力の低下が急速に進行し、余病を併発して死に至る。
なので、与える食事を消化の良いものに変え、給水は無理をせず、嘔吐をしないように少量から、慎重に・慎重に……。
そして、獣医さんの指示通りに、きちんと薬を服用させる───この要点を押さえなければならないと、その時に学んだ。
それからグレイちゃんの場合、病んでいる間は自分で毛繕いができなかった為、大量発生しているノミの駆除を早期にする必要があった。虫が媒介する他の病気も多いからだ。今のグレイちゃんが余病を併発すれば、一溜りもない。
一晩の入院から自宅に帰る折り、病院で仔猫にも害がないという経皮吸収型の駆除剤を紹介してもらい、ノミ捕り用の目が詰まった櫛(コーム)を買って帰宅した。
そして翌朝から、仕事に行く前に点滴の為に預け、就業後に迎えに行くことになった。
家では、針のないおもちゃのような注射器で、温めにした流動食を少しずつ与え、人肌の温度の水を少しずつ与える。そして錠剤の服用。長年、実家で犬を飼ってきた経験から、加えてグレイちゃんが抵抗するだけの体力がない状態だったから、きちんと飲ませることは難しくなかった。
嘔吐感がないのを確かめながら、抱いたまま、間をおいて少しずつの食事と給水。間隔を空けている間は、ノミ捕り櫛で少しずつ毛繕いをして、根気よくノミの駆除を続ける。
幸い、推定二歳と若かったせいか、グレイちゃんの回復は目覚ましかった。
点滴生活を三日ほどで終え、自らカリカリ(ドライフード)を食べ、ノミもほとんどいなくなり、荒れてパスパスだった毛艶も戻ってくる。
難儀な、粘度の高い青っ鼻は相変わらず。それに体力が落ちているのを自覚しているのか、外に出たいという要求もないが、それでも着実に元気を取り戻してきた。
やがて「もう大丈夫ですよ」と最初の病院でいわれたものの、グレイちゃんの生活に非常に支障のある青っ鼻は健在で、本当に治ったのかどうか不安でもあった。その頃には、動物好きネットワークによって、比較的近くの名医と評判が高い病院を聞いていたので、セカンドオピニオンとして受診する事にした。
その病院の獣医さんは男性で、無口で不愛想、見た目ももっさりとした冴えない印象の先生だった。
『本当に名医か?』と最初は思ったものの、顔は無表情のままなのにグレイちゃんに触る手が優しくて、すぐに信用できると判断した。
その病院の検査結果は、シロ。
ただ、鼻水は鼻孔の粘膜を痛めた後遺症で、一生治ることはないと言われた。
その上で、「どうしますか?」と訊かれた。
───全くもって意味不明。
けれど、
正直に「何をですか?」と問い返すと、信じられない話を聞いた。
グレイちゃんと同じ症状の子がいると、家中に飛び散り・飴のように固まる鼻水を忌避して、飼い猫を手放す人がいるという。つまり、処分するということだ。
なんじゃそりゃ?!───ってのが、正直な感想。
最初に怒りが来た。
心の底から、一緒にして欲しくない。
そもそも、鼻水の原因となった猫インフルエンザは、毎年のワクチン接種をしていれば罹らない病気だ。どこの子かも分からないその子の飼い主は、年に一度のワクチンすらも怠っていたということになる。自分の怠慢を棚に上げて、病気になった命を処分するとは、いったいどこのどんな暴君がやらかす話なのか?!
目の前に当人がいれば、間違いなく怒鳴っていただろう。
「おめぇに、生き物と暮らす資格はねぇっ!!」
どんなふうに手元に来た子か判らないが、野良の子を拾った場合、何らかの病気や障害を持っている確率は高い。猫HIVを感染している子も多いと聞く。ペットショップ出身の子であれば、なお飼い主の
その程度の覚悟であるなら、いっそ拾うべきではないし、飼うべきではない。人間にうつるわけじゃなし、鼻水なんぞ、掃除すれば済むことではないか。固まった鼻水など、剥がして掃除機をかければ終了だ。
どんな生命も、一度失えば決して取り返しはつかない。そして、断じて人間の玩具ではないのだ。
鼻水を問題にするぐらいなら、最初の鼻水と目ヤニと泥でぐちゃぐちゃの状態で拾うことはしなかったこと。セカンドオピニオンを求めたのは、生命の危険が去ったことを確かめたかったからなのだと、わたしは改めて説明した。
無表情をキープしたままの獣医さんは、無造作にグレイちゃんをクシャクシャと撫でた。グレイちゃんもされるがままになっている。その仕草で、グレイちゃんとわたしが伴にあることをとても喜んで、祝福してくれているのが、充分過ぎるほどに判った。多分、グレイちゃんにも判った筈だ。
たろうさんとは、病や怪我を二人で乗り越えてから、他の家族とは一線を画する強固な絆が出来ていた。一方でグレイちゃんとは、最初から闘病スタートの付き合いになったので、完治するころにはチタン合金製の絆が形成される事となった。
それからずっと、最終的に死が二人を別つまで、諸々の鼻水対策と投薬───わたしとグレイちゃんの、持病に対する共同戦線はひたすらに続く。けれどもそれは、更なる愛情と信頼を深めるコミュニケーションの一環でもあったのだ。
そして、名医と名高かった
後継ぎがいないということで完全閉院されたが、残念でならない。
出来ればわたしもそうありたかったと思わせていただけた、素晴らしい先生だった。
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