第二話 グレちゃんの病

 さてさて、連れ立って帰ったのはいいのだけれど、大変だったのはそれから。

 こんな時は、動物好きが変人の域に達し、長年溜め込みに溜め込んだ雑学が多少は役に立つ。なにしろ、他人に誤解される職業No.1は、獣医なのだからして(勿論、本物の獣医さんには遥かに及ばない)。ちなみに、次点はハンドラーと看護師である。まあ、どちらでもないが。


 取り急ぎ用意したのは、ぬるま湯と綿棒とコットンとティッシュ。明らかに枯葉やゴミだと判るものは取り除き、ひたひたに濡らした小道具で、カピカピになった汚れを浮かす。そして、出来るだけそろそろと汚れを落としていくのだが、血なのか膿なのか判らない部分は、下手に触れない。更なる出血や破れた膿の中の雑菌が、弱った体にどう作用するか判らないからだ。取り敢えず、唯一呼吸できる器官である鼻の周辺を、集中的に奇麗にする。

 そして、君が全然抵抗しないのをいいことに、お腹を触ってみる───固い───しこりがあるというより、何かの理由で膨張し過ぎていて、固い感触だ。

 水を飲みたそうな様子があるが、器に用意したものを自力では飲めないようだった。なのでコットンに水を含ませ、抱いて少し上を向かせ、少しずつ水を含ませる。

 けれども、現状で出来るのはこのくらいで、明らかに素人に毛が生えただけの、わたしの手には余る状況だ。できるだけ早く、専門家に任せた方が賢明だろう。


 その当時はまだ、我が家にネット環境がなかった為、タウンワークで近隣の徒歩で行ける動物病院を探して電話を掛けた。幸い、諸々の症状を話すと、夕刻だったがまだ受診していただけるとの返事を貰った。

 善は急げ。

 君を見かけなくなって、一~二週間。いつからこの状態だったかも判らないし、今が瀬戸際なのか、もう少し時間の余裕があるのかも判らない。

 自分が持っている一番大きなトートバッグに古いトレーナーを詰め込み、その中に納まってもらう。そして、手元の有り金を握りしめて病院に向かった。


 考えてみれば、しばらく動物病院とは無縁だったので忘れていたが、初診なのでわたしの身分証と職業を確認された。けれど、いつもの習慣で免許証を持っていたので、幸い問題はなかった。そして、わたしが知っている君の洗い浚いの経緯と問診・取り敢えずの簡単な検査があり、さして待つこともなく、驚くほどすぐに診察室に呼ばれた。

 君の病名は、猫インンフルエンザ。定期的にワクチンを受けている飼い猫ならば、まず罹患しない病気だ。

 けれども君は野良で、しばらく見なかった間にずいぶん重篤な状態にまでなっていた。

 一番の問題は、罹患してからわたしに会うまでに起こった、重度の脱水症状と栄養失調。主な原因は発熱と、俗に青っ鼻と呼ばれる粘度の高い鼻水による鼻詰まり。乾けば瘡蓋のように固まって鼻孔を塞ぎ、湿気を持っている状態でも、下を向くことでやはり鼻孔を塞ぐ。猫は鼻でしか呼吸ができない為、水も食事も摂れなくなる。かくして脱水と栄養失調は重篤化し、加速的に体力を損なっていくという状態だ。

 丸く膨張しているお腹は、ガスが溜まっている状態で、元気を取り戻せば自然に抜けるらしい。

 その時の君の体重は二.八kg。君の風貌は、明らかに洋猫の血が濃く、小振りの日本猫の体重が三kgちょっとであることを考えると、あまりにもギリギリ過ぎる体重である。

 それらの症状を点滴と流動食で緩和し、薬が効けば充分助かるだろうということ。

 当然、放置すれば死ぬ。

「では、治療をしてください。料金はわたしが払います」

 ───と、云うと、女性の獣医さんや数名のスタッフ達が、微妙な表情をした。突然漂った奇妙な緊張感───わたしは、何か変なことを言っただろうか?

「ご希望とあれば、治療します。ただ、その後はどうされるおつもりですか?」


 ───ああ、なるほど……そういうことか。


 自分では考え付かないことなので念頭になかったが、世の中には、『野良ちゃんが病気をしていて可哀想』だとか『仔猫が捨てられていたから』と、病院に連れてくる人が意外に多いと聞いたことがある。その後、飼い続ける気もないのに、だ。

 そのすべての気持ちが判らない、とは云わない。だがその人達は、愛玩動物が野生化することに関して、全責任は人間側にあることを忘れてはいないか?

 本来の環境から引き離し、勝手に可愛がり、勝手に放置する。あらゆる事情が同じではないにしろ、おおむねそういうことだ。よく知られているところでは、アライグマやフェレット、ミシシッピアカミミガメやブルーギル、例を挙げれば枚挙に暇がない。目の前の命を救いたいと思うのならば、その子の生涯に責任を持たなければ、救ったことにはならない。そして、当たり前すぎるほど当たり前のことだが、個人で抱えられる命には数の限りがある。

 ともかく、人間以外の生命に対して、わたし自身の中のルールは明確だ。明確過ぎて、時に他人には説明が必要であることを、うっかり忘れてしまう事があるぐらいだ。

「飼いますよ、もちろん。うちの子にするつもりもなく、拾ったりしません」

 きっぱり断言すると、破顔一笑───その言葉を、初めて現実の映像で見た。獣医さんもスタッフさんも、みんな、いっせいに。

 新規のカルテを作るにあたり、君の名前を尋ねられ、「まだ考えていないので、取り敢えず『ねこ』で」と答え、もう一度笑われた。


 その日は、点滴の為に一晩入院して、翌日の夕方・仕事帰りに迎えに行くことに話は決まった。更に翌々日も、朝に病院に預け、点滴をしてもらい、夕方に迎えに行く。それを何日か続けなければならない。

 本当は数日入院した方が安全なのだけれど、入院には倍の経費がかかる。残念ながら、そこまでの経済力はない。

 一晩入院した翌夕迎えに行き、「あおさん、お名前、決まりました?」と再度訊かれて、「他に思いつかなかったので、グレイ(Gray)で」と申告し、「Glayのファンですか?」と訊かれ、「いえいえ、色のGrayです。LではなくRで」と答え、三度に渡って笑われた。嫌な笑われ方ではなかったけれど。


 だって、君はシマシマの灰色猫だったから。

 緑の瞳と長いシマシマしっぽが素敵な、灰色猫だったから───だから、君はこの日からグレイちゃんになった。

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