曳馬宿玄忠寺

翌朝、曳馬の玄忠寺から二人の男の人が私たちを迎えに来ました。

 坂崎庫之助という人と、細峯月之進という人です。庫之助さんは四十代くらいで、がっしりした体つきですが、月之進さんは、私たちと同じくらいの歳に見えます。

 岡部家が取りつぶされてしまった後も、多くの家臣たちはそのまま岡部郷に残って、城代となった朝比奈さまに仕えながら、岡部家が再興されるのを待つことにしたのですが、五人だけ主君の久綱兄や父上に従って駿河を出たのだそうです。

 その後、父上と久綱兄は、古くから岡部家とゆかりの会った遠江国曳馬にある玄忠寺というお寺を拠点にして、家臣たちの力も借りながら、父上は三河の吉田や岡崎という所、久綱兄は尾張の笠寺や熱田という所へ度々出かけて、情報収集や調略などの活動をしたそうです。庫之助さんと月之進さんも、久綱兄に命令で尾張と遠江の間を何度も行き来していたということでした。


 私たちは、「曳馬までなら自分の足で歩ける」と言い張る父上を無理矢理クロの上に乗せ、二人の家臣と共に玄忠寺に向かいました。

 

 玄忠寺は鎌倉街道の曳馬宿のほぼ真ん中にある、わりと大きなお寺でした。

曳馬宿は、後に徳川家康さまが岡崎から拠点を移してお城を築き「浜松」という名前に変わった後は、家臣たちが移り住んだり商人が店を構えたりして賑わうようになりますが、当時は駿府から京へ向かう鎌倉街道の小さな宿場町でした。

 お寺は、父上が深く帰依している浄土宗の高僧の天誉存公上人が開いた寺院で、建立にあたっては、岡部家の財産をかなり注ぎ込まれました。お寺の名前が、父上の法名の「玄忠」と同じなのは、父上が出家なされたときに、存公上人が父上の法名とお寺の名前を同時につけられたからだそうです。 


 お寺の近くまで来ると、久綱兄と数名の家臣たちが、門前まで出て迎えてくれているのが見えてきました。久綱兄はご病気と聞いていたので、床に伏せっているものと思っていましたが、意外と元気なようです。

「兄上、お久しぶりです。寝ていなくても大丈夫なのですか?」

「おお、小春殿だな。少し見ない間に大きくなられたのう。うむ、ここ数日は熱も下がって気分が良いのだ。今朝も、庫之助たちと一緒に掛塚まで行きたかったのだが、さすがにそれは皆に止められてな。ここで待っておったのだよ」

 久綱兄は、真っ先にわたしに声をかけてくれた後、すぐ隣を歩いていた亥兄の方に向き直って語りかけました。

「これは、元綱ぁ、いや今は元信殿であったな。ますます逞しくなられて、もはや一軍の将たる風格さえ感じるようになられたな」

「ありがとうございます。兄上もお元気そうで何よりです」

「うむ、だがわしの命はもう、そう長くは無い。わしが亡くなっても、そなたが跡を継いで、岡部を支えてくれるかと思うと、心強いぞ」

「何をおっしゃいます。兄上には、菊寿丸さまがご成人なされて家督を継ぎ、岡部の地を返してもらうまではきちんと見届けていただかないと困ります」

「うむ、そうであった。菊寿丸と桐姫には会ってきたのか? どうであった?」

「お二人とも健やかに成長なされています。菊寿丸さまは八歳になられましたので、元服まではあと五、六年ですよ」

「そうだな。少なくともそれまでは頑張って生き続けなくはな……」

「そうだそうだ。菊寿丸もだが、桐姫もしっかりしていて、とても美しい女性になっているぞ。兄上が、嫁入り先を見つけてやらねばなるまい」

 亥兄の後ろで、自分も会話に加わりたくてうずうずしていた亀兄が、自分の存在を忘れられないように前へ乗り出してきました。

「おお、貞綱。おぬしも、たくましいのう。海で鍛えたと聞いておるぞ」

「おうっ。背の高さや貫禄では亥之助……、いや元信にはかなわないが、腕力だけなら負けないぞ。海の上ならなおさらだ」

 亀兄は袖をまくって、自慢の力こぶを久綱兄に見せつけています。

「はははっ、とにかく皆、頼もしい限りだ。さあ、寺の中に入ってくつろいでくれ。今後のことについての話し合いは、少し休んでからで良かろう」

 わたしたちは、久綱兄に案内されて、寺の中にある宿坊へ向かいました。


 その日の午後、私たち三兄妹と父上、久綱兄上の五人は、早速、お寺の方丈の一室に集まって三河の情勢についての話し合いをしました、

 

 駿河と遠江の二国を支配下においている今川氏は、東の相模は北条、北の甲斐は武田という強敵と接していますが、西の三河は未だ小豪族が乱立している状態なので、ここを侵略して支配下に置くことが、目下の勢力拡大の目標となっています。御屋形様は以前から幾度となく兵を進められて、少しずつ三河へと侵攻してきていましたが、ここ数年は三河の先にある尾張国から織田信秀という武将がたびたび出兵してくるようになり、一触即発の状態になっているようです。織田信秀は、三河の中央を流れる矢作川の東にある安祥城というところを攻め取り、最前線の拠点としています。ここから矢作川を渡って岡崎や幸田にまで勢力を伸ばしてくる前に、今川軍としてはなんとしても一撃を与えておく必要がありました。

既に今川勢は、大きな戦に備えて準備をはじめており、軍師の太原雪斎さまの命令で遠江から三河の吉田や岡崎に向けて兵量を運んでいるそうです。一方の織田勢も安祥城に信秀の長男の織田信広という人を城主として配置し、着々と出兵の準備をしているというそうです。


「織田信秀の戦ぶりは甲斐でも噂になっておりました。戦に強く、活動的で、美濃や三河にまで盛んに出兵して勢力を伸ばしていると聞いております」

「うむ。尾張国の守護の斯波氏の家臣の守護代の一族の、さらに傍流の出自ながら、津島と熱田の湊を支配することで手に入れた潤沢な資金力を元に、武器を整え、傭兵を雇ってかなりの兵力を擁しているようだ」

「それではかなり大がかりな戦になりそうですね。兵力はどれくらいになりますか?」

「そうだな。信秀は、支配地の百姓や傭兵まで動員して三千から四千といったところか。一方、わが今川勢は、遠江と三河の兵を総動員して一万ほどを集めるつもりのようだ」

「うぅむ。敵は四千か……」

 亥兄は久綱兄が予測した織田勢の数を聞いて少し考え込んだようでしたが、亀兄は兵数の差を単純にとらえて、気楽に口を挟みました。

「なんだ、今川の方が二倍以上の兵力があるではないですか。信秀という男がどれほど強いかは知りませんが、よもや負けることはありますまい」

「そうかな……。大した支配地を持たない信秀が四千もの兵を繰り出すということは、本気で岡崎城を取るつもりのようだ。今川は一万と言っても、遠江の小豪族たちがそれぞれ百、二百という兵を率いている寄せ集めの軍勢だ。軍師の雪斎さまが総大将となってまとめたとしても、思うように動かせられるかどうか……」

 亥兄はかなり慎重のようです。久綱兄も、亥兄と同じ考えのようです。

「そうだ。信秀を甘く見ると痛い目に遭うぞ。兵の数は少なくても、百姓を駆り出した足軽と違い、金で雇った傭兵は戦慣れしていて手強いと聞いておる。美濃まで攻め込んで大垣城を奪ってしまうほどだからな」

「金で兵を雇うとは……。今川には傭兵はいないのですか?」

「うむ。兵を何百人も雇うとなると、恐ろしいほどの金がかかる。織田信秀は津島と熱田という大きな湊の商人を支配していて、金が潤沢にあるらしいのだ」

「金で雇った兵ですか…」

「そこでだ、こんどの戦では、その傭兵部隊を叩くというのが、雪斎さまから我々に課された命令なのだ」

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