小川湊のお宝

 わたしたちが駿府を出て、久綱兄が病気で伏せっている遠江国の曳馬にに向かったのは、一月も半ばを過ぎてからでした。

 父上の足がお悪いので、曳馬へは船を使って行くことにしたのですが、駿府近くの江尻の湊まで来たところで、風待ちの為に半月くらい足止めされてしまったのです。


 江尻湊は、駿府街の海の玄関口ということで、大小様々な商店の倉庫や荷役場が立ち並び、活況を呈しています。その一角に、小さいながら、わたしの実家の石津屋も船着き場と倉庫を構えていました。石津屋は、本店は駿河山西の小川湊にあるのですが、駿府にも小さな支店を持っています。主に材木や石材を扱っているので、駿府の街中にはお店は無いのですが、江尻湊には支店があって、手代さんが一人常駐していました。

 石津屋専用の桟橋には、普段は材木を運んでいる二十石船が一艘、私たちを曳馬まで運ぶために停泊していました。

江尻から曳馬までは、遠州灘を陸に沿って西に向かわなければなりません。秋から冬にかけて、この地域は西風や北西風が吹き続けていて、航行には逆風となってしまいます。潮の流れも西から東なので、船で西に向かうためには東風が吹くのを待たなければならないのでした。


「う~ん、そろそろ東風が吹く日があってもいい頃なんだけどなぁ」

 亀兄は、毎日空を見上げながらつぶやくのですが、一向に吹く気配がありません。

「亀兄、もう一週間以上も毎日そう言ってるけど、全然じゃない。いつになったら吹くのよ。雲読みの技って言っても、あまり役に立たないのね」

「うん、まぁ、そうなんだ……。その日とか、明日とかの予想なら結構読めるんだけど、先の話となるとなぁ……」

「で、その明日はどうなのよ。まだ吹きそうもないの?」

「うん、それなんだが……」

 亀兄は、もう一度確かめるように空全体を眺め直した後で、少し小さい声で自信なさげに語り始めました。

「海の波が少し大きくなってきてるし……、西の空の雲が少し増えてきてるし……、さっきまで強く吹いていた西風が弱まってるし……」

「で?」

「明日あたりから東風が吹くかも……」

「え、そうなの? ほんと?」

「うーん、あまり自信は無いけど……」

「なにそれ、頼りにならないなぁ」

 わたしはそう言って当てにしていなかったのですが、その日の夜中から少しずつ風向きが変わっていき、なんと次の日の朝には、かなり強い東風が吹き始めたのです。

「亀兄! やるじゃん」

「貞綱、さすがなだ。まるで赤壁で風を操った諸葛孔明のようではないか」

 亥兄も感心しているようですが、ちょっと褒めすぎの気もします。


 東風に乗って出向した石津屋の二十石船は、まず駿河山西の小川湊に立ち寄りました。

小川湊を本拠地としている石津屋は、わたしの生まれた家です。亀兄は、この三年間の修行から帰る途中で立ち寄ったそうですが、私は十年前に亥兄について駿府に行って以来、初めての里帰りです。数えてみたら七年ぶりでした。わたしを生んでくれたお母さんは、まだわたしが小さいときに亡くなっていますが、おじいさんの石津屋与平次は健在ですし、その後を継いで店を取り仕切っているおじさまもいます。今は、そのおじさまが与平次を名乗っているようです。

 石津屋は、伊勢、尾張、三河、遠江、駿河の間で船を廻して、材木や石材などを運んでいる「廻船問屋」です。私たちが乗せてもらった二十石船の他に、もう一回り大きな三十石船も持っていて、豪商とまでは言えませんが、かなり手広く商売をしているようです。


 小川湊で上陸したわたしたちは、昔を懐かしむ暇も無く、店の敷地の一番奥にある倉に案内されました。厳重に施錠された扉を開けると、中にはおびただしいほどの香炉や壺、花瓶などの「お宝」が並べられています。亥兄も亀兄も驚いています。

「父上! これは?」

「岡部郷を出るときに密かに持ち出した岡部家の財産の一部じゃ」

「なんと、これほどのものがあるとは知りませんでした」

「うむ、多くはわしが若い頃に浄土宗の天誉存公上人さまを通して手に入れた物じゃ。当時としては大して高価な物では無かったと思うのだが、その後上人さまが各地で教えを広められて有名になられたことで、今ではかなりの価値となっておるようじゃ」

「父上は、これらのお宝をどうされるおつもりですか?」

「このお宝の使い道はすべて常慶に任せてあるのじゃ。だが、常慶が病に伏せって駿河に戻ってこられないとなると少々心配になってな。おまえたちにも見せておこうと思ったのじゃ。そうそう、この二つはおまえたちに渡すものだ」

 薄暗い倉の中で父上が指さした方を見渡しますと、仏具や茶器などが並ぶ横に、大きな鎧櫃が二つ置かれているのが目に入りました。

「これは! わたしたちがいただいても良いのですか?」

「もちろんじゃ。どちらも岡部家に伝わる鎧兜じゃ。少々古くて使い勝手はあまり良くないかもしれないが、とりあえずはこれを着て戦に加わってくれ」

「戦があるのですね」

「うむ。三河の岡崎や安祥城をめぐって、織田との間で近々大きな戦が起きそうなのじゃ」

「尾張の織田信秀ですね。なかなかの強敵と聞いております」

「そうじゃ。詳しい話は曳馬に着いてからするが、すぐに出陣ということになるかもしれないぞ」

「わかりました。戦に加えていただけるのなら、必ず手柄を立てて見せます」


 亥兄が父上と話をしている間に、亀兄は真っ先に鎧櫃を運び出してきて、さっそく開けています。

「おお、これはすごいぞ! 紺地の直垂に朱威しの鎧だ。兜も錣のついた本格的な星兜じゃないか。おや、前立が折れて無くなっているが。まあ、それくらいいいか……」

 亀兄は、勝手に鎧と兜を取り出して、試着し始めました。

「これは重い! 当世具足に比べてかなり重いぞ。しかも大きすぎだ……」

 亀兄は筋肉こそ立派についていますが、全体的に小柄ですので、鎧が大きすぎて全然似合っていません。 

「はははっ、貞綱、おぬしには似合わぬ。それは元信のためのものじゃ。おぬしにはもう片方の鎧櫃の中の物の方が良かろう」

 父上にそう言われて、亀兄はもう一度倉の中に入って、鎧櫃を取り出してきました。こちらは、少し当世風の身軽な鎧です。さっきの鎧ほどの派手さはありませんが、動きやすそうで、亀兄の体型にも会っているようです。

「うむ、そうだな。こちらの方が使いやすそうだ」

 亀兄は最初の本格的な鎧の方にも少し心残りがありそうでしたが、すぐに気持ちを切り替えたようです。と言うのも……。

 亥兄が亀兄の脱いだ鎧を受け取って、それを身につけてみると……

 大きさがちょうど良いだけで無く、鎧も兜も、亥兄のたくましい体型や、凜々しい顔立ちにもぴったりと合っていて、輝くほどの偉容を示しているではありませんか!

「おいおい、まるで大将軍のような迫力じゃ無いか!」

「うむ。元信、似合っておるぞ」

 この鎧兜は何代も前から岡部家に伝わっていた物だそうですが、これまでどの当主もこの鎧を着こなすことができず、一度も使われてこなかったのだそうです。鎧も、まるで亥兄に着てもらえるのを待っていたかのように、うれしそうにぎしぎしと草摺りが音を立てています。

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