関口家の瀬名姫

 三が日の開けた正月四日。わたしたちは父上と一緒に、駿府の朝比奈親徳さまのお屋敷を訪れました。

 朝比奈さまはもともと岡部家と領地が隣同士で、先祖代々仲良くやっていたのですが、私たちの長兄の久綱兄さまが岡部の当主になってから、何かというと争うようになっていました。三年前の事件の時、朝比奈さまは先頭に立って久綱兄を糾弾し、そのために岡部家が領地を召し上げられて離ればなれにならなくなってしまったのです。

 現在、岡部の領地は、朝比奈さまの「預かり」ということになっていて、今は出家して「常慶」と名乗っている久綱兄さまの二人の子どもたちも、駿府の朝比奈屋敷で育てられてるのでした。


 朝比奈さまは、ご自身で玄関まで出て私たちを迎えてくれました。

「これはこれは玄忠殿、ようこそいらっさいました。お足の具合はいかがですか?」

「朝比奈どの、お出迎えかたじけない。足は相変わらずですが、ゆっくりとなら歩き回れるようにはなりました」

 父上が挨拶する後ろに、私たち兄妹の姿を見てつけ、朝比奈さまは少し驚いたような表情をされました。父上は、私たちも同道するとは告げてなかったようです。

「おや、ご子息たちもご一緒ですか。ああ、元綱どのには以前に今川館でお会いしたことがございますな。ご無沙汰をしております」

「こちらこそ、あの頃は朝比奈さまにはいろいろとお世話になりました。わたしは、今は元信と名乗りを改めております。こちらは、貞綱と妹の小春です」

 亥兄が代表して挨拶してくれたので、わたしと亀兄はお辞儀だけしました。朝比奈さまは、岡部家を追い出した張本人ということで、亀兄もわたしも警戒して緊張していたのですが、お会いしてみると物腰も柔らかく、優しそうな人に見えました。

「さあ、中へお入りください。菊寿丸も桐姫も、おじいさまが来るのを待ち焦がれておりました」

 菊寿丸と桐姫というのは、久綱兄の子どもたちです。わたしには甥と姪にあたります。

二人は、私たちが通された奥の部屋で、正座して待っていました。

「おじじさま! お久しゅうございます」

 まっさきに声を出したのは桐姫の方でした。菊寿丸は少しもじもじしながら、小声で挨拶をしました。

「おじじさま。おじさま、おばさま。ようこそお越しくださりました」

「おう、菊寿丸。会うたびにおおきくなっているのぅ。今年で何歳になった?」

「はい、正月を迎えて八歳になりました」

「うむうむ。だんだん父親ににてきたかのう。常慶もおまえに会うのを楽しみにしておったのだが、残念ながら病に伏せっておって、今日は来られなかったのだ」

「そうですか。お会いしたら、菊寿丸は元気に過ごしているとお伝えください」

「桐もです! 病が治ったら、必ず会いに来てくれるようにおっしゃってくださいね」

「あい分かったぞ。必ず伝えよう。父親の代わりと言っては何だが、今日はおまえの叔父と叔母を連れてきたので紹介しよう」

「はい、元綱さまはよく知っております。文武両道に秀でた優れたお方だと、父上から聞かされたことがあります」

「ほう、常慶が他人を褒めるとはのう。めずらしいことじゃ」

「はい。父上は、私たちと別れるときに『あいつは頼りになるヤツだ。父に万一のことがあった時は、元綱を頼るように』と言われました」

 久綱兄は、いつも亥兄と張り合って、偉そうなことばかり言っていましたが、心の中では亥兄のことを認めていたようです。

「ご安心下さい。菊寿丸さまは、元服された後は、岡部家の領地も返していただいて、家督を継がれる約束になっています。わたしはもちろんのこと、ここにいる貞綱と小春も、菊寿丸さまが立派な岡部の当主になられるよう、支えていく所存です」

 亥兄は、そう言いながら、横に控えている朝比奈さまの顔をぐっとにらみつけています。暗に、『岡部領を返すという約束を破るようなことがあれば黙っていないぞ』を念を押したようでした。

「それは頼もしい限りです。貞綱どのと小春どのも、よろしく頼みます」

「おう、任せてくれ。そうだ、初陣の時には俺が必ず後見をしてやるぞ」

「わたしも、この三年間でいろいろな技を身につけましたので、きっとお役に立てるとおもいます」

 菊寿丸さまはまだ八歳ですので、元服するまでにあと五、六年あります。朝比奈さまを信用しないわけではありませんが、必ず約束を守ってもらえるように、わたしたちがきちんと目を光らせていなけらばならないと思いました。

 菊寿丸さまは、初めは少しおどおどして見えましたが、うち溶けてくるうちに次第に落ち着いたようで、岡部家の嫡流の貫禄を示すようになってきました。桐姫さまは、明るくて利発なご様子ですし、辛いことや苦しいことがあっても、きっとお二人で支え合って乗り越えていけると思いました。


 朝比奈屋敷を出たわたしたちが次に向かったのは、関口親永さまのお屋敷でした。

 関口さまは、今川のご一門である瀬名氏の出身であるだけでなく、由緒ある関口氏の名跡を継いでいますので、家格としてはご家来衆の中で随一のお方です。奥方さまが井伊家の出身ですので、三年前の事件の時には巻き添えを受けて少しの間逼塞していましたが、すぐに復権されたとのことです。

 岡部家が、妻の実家の井伊家の事件のために領地を取り上げられてしまったことを気にかけてくださっていて、この三年間、様々な援助をしてただいたそうなのです。

「関口さま、いろいろとお助けくださりありがとうございました。おかげさまで三人の子供たちも、各地で修行を重ねることができ、無事に戻って参りました」

「そうか、みな苦労しただろうな。菊寿丸どのが元服されるまで、あと少しの辛抱じゃ」

「はい、先ほど菊寿丸にも会って参りました。立派に成長しているようで安心いたししました」

「うむ、何よりじゃ。ところで、玄忠殿の後ろに控えている豪傑は、正綱どのじゃな。なんとも頼もしい男になったものじゃ」

「豪傑なんて、とんでもございません。ただ、三年間甲斐に修行に行かせましたので、いささ軍略を身につけて参ったようでございます」

「なるほど、軍略をのう……。我が今川の軍師の太原雪斎さまは、お忙しい方で体がいくつあっても足りないご様子であるし、是非お助けしてあげて欲しいものじゃ」

「いえいえ、まだ未熟者でして、学ぶことが多いですが、少しでもお力になれればと思っております」

 父上と関口さまがお話ししていると、部屋の奥の襖が開いて、女の子が入ってきました。初詣の時に浅間神社でも見かけた瀬名姫です。

「おとうさま、岡部元綱さまがお見えになっているんでしょ。わたしもご挨拶したいの」

「これ、瀬名姫、お客様の前に急に現れては失礼であろう」

「だって、お見えになったらすぐに呼んでいただける約束でしたのに、いつまで待っても声がかからないんですもの……」

 初詣の時は少し離れたところから見かけだたでしたが、こうして近くで見ると、お顔立ちも整っていて、しぐさも大人びて見えます。確かまだ十歳ほどのはずですが……

「これは、失礼しました。娘の瀬名ですが、岡部元綱さまが御屋形様の近習だった頃からお噂を耳にしていたようで、すてきな方だから是非会いたいと以前から申していまして……」

「それはそれは、私などの噂がどうして姫さまのお耳に……」

 亥兄はとまどっているようです。

「あ、あなたが岡部元綱ね。やっぱり思っていたた通りのお方だわ。お体がたくましくて、お顔が知的で、きっと城持ちにまでなる優れたお方だと、私たちの間では評判だったの。他の姫に先を越される前に、わたしが真っ先に親しくなろうと狙ってたのよ」

「これこれ、なんとはしたない。もう良いから控えていなさい」

 関口さまは驚いて制止しようとしますが、瀬名姫さまの勢いは止まりません。

「父上も元綱さまなら立派になるお方だと褒めておられたではありませんか」

 さすがの亥兄も、十歳の娘に言い寄られて、たじたじのようです。

「姫さま、わたしは岡部家の嫡流ではありませんし、今はお家も領地も無い浪人の身ですよ」

「でしたら関口家が召し抱えれば良いですわ」

「いえ、姫様お待ちください。わたしには岡部家のため、今川家のためにやらなければならないことがあるのです。今すぐ姫様のそばにいることはできませんが、もし、将来本当に城持ちになることができましたたら、きっと姫様をお迎えいたしましょう」

「おお、そうか。それで良いわ。待っていますわ」

 全く、まだ子どものくせに、ませたことを言う娘です。亥兄は、勢いであんな約束をしてしまったけれど、大丈夫なのでしょうか?

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