河越城(三)

 河越城のまわりは、見渡す限り上杉勢に取り囲まれています。もともとこのあたりに住んでいた人たちは、みな外へ追いやられてしまっているようで、田畑ではたらく農民たちの姿は見当たりません。そのかわり、長い滞陣に飽きた兵士たちが気晴らしのために呼び入れた商人や芸人、遊女たちが、各所に設けられた陣と陣の間を渡り歩く様子がみられました。

 籠城中に、ニノは度々お城を抜け出し、軽業師の芸人に扮して上杉勢の様子を探ってきました。ニノはとっても身軽で、飛び跳ねたり宙返りしたり、はしご段の上でバランスをとったりと、さまざまな芸を気軽に見せるので、兵たちの間では人気者となっていたようです。芸人ならば、敵陣の外側の柵を通って外に出ることも可能です。外に出てしまえば、あとは小田原まではひた走りに走り続ける事になりますが、身軽なニノは長距離を走るのも得意ですし、風魔方術の道具の一つである「韋駄天の足袋」を履いて走れば、 河越から小田原までの三十里近い距離も、半日もあれば走りきることができるはずです。


 わたしが石に描いた三枚目の絵図面を持ち出すわけですが、ニノには水晶玉も一つ持って行ってもらうことにしました。江戸に置いてきた水晶玉の行方が分かっていないので、確実に絵図面を読むためには水晶玉も持っていく必要があります。

 ただ、敵陣を抜けるまでは、万一に備えて、絵図面を書いた石と水晶玉は別々に持ち出した方がよいということになって、水晶玉の方はわたしが柵の外まで持って行くことになりました。

 

 ニノが闇に紛れて城を出た後、わたしは、城内で収穫した大根を背中のかごに入れ、野菜を届けに来た近在の農家の娘を装って、夜明け前に城を抜け出しました。夜中に歩くとかえって怪しまれるので、しばらく林の中で身を潜めた後、明るくなるのを待ってから、上杉勢の陣屋が点在する城外をゆっくりと歩き始めました。

 陣屋の前には見張りの兵が立っていて、わたしの方に目をやる人もいますが、誰も呼び止めたり声をかけてきたりする人はいません。急ぎたくなる気持ちを抑えて、あえて回り道をしたり途中で休憩して大根を少しずつ置いていきながら、なんとか河越城包囲網の外側の柵に設けられている木戸までたどり着きました。

「おい、みかけない娘だな。どこの者だ。中で何をしてきた」

「あ、はい、わたしは隣村で百姓をしてます。上杉朝定さまの本陣でお野菜を買っていただけると聞いて、大根を持って行った帰りでございます」

「うん? 上杉朝定様だと? 扇谷上杉勢の大将だな。ここは山内上杉が守る木戸だぞ。方角が違うではないか」

「はい。上杉朝定さまに大根を届けた後で木戸を出ようとしたところ、いやらしい兵士にまとわりつかれて逃げだしたんです。そうしたら、この木戸にたどり着きました」

 扇谷上杉と山内上杉は、北条氏に対抗するために同盟を結んでいますが、もともと仲が良いわけでは無く、兵たちもお互いを意識して競い合っています。もし呼び止められたら、両上杉勢の連携の悪さを利用して言い逃れるように、おじさまから教えてもらっていました。

「ああ、それは災難だったな。扇谷上杉の兵は柄の悪いヤツが多いからな。よし、ここなら安心だぞ」

 門番の兵士にそう言われ、「ありがとうございます」と言って木戸を通り抜けようとしたのですが、すぐに別の兵士に止められてしましました。

「待て、一応取り調べてからだ」

「ですが、こんな不細工な小娘なんか、怪しいところは全然無いですよ」

「まあ、そうだが、昨日の夜に脱出しようとしていた男を捕らえたら、怪しい模様の描かれた石を持っていたらしい。敵の符牒のようなもののようだ。一応この娘も調べておけ」

”え? 捕らえられた?”

 わたしは一瞬頭の中が真っ白になってしまいました。ニノは、脱出に失敗してしまったようです。このまま、わたしだけが脱出しても絵図面がなければ意味がありません。

”どうしよう……”

 水晶玉は髪の毛の中に結い込んで隠してあるので、袂や懐を探られても大丈夫なのですが、厳しく調べられると見つかってしまうかもしれません。もちろん使い方までは分からないでしょうが、貴重な水晶玉を敵に奪われてしまうのは避けたいです。

「おい娘。悪く思うなよ。これもお役目のうちなのだ」

 兵士は、無理矢理わたしの帯を解き、着物をはぎ取って何か隠していないか調べ始めました。まわりの兵士たちの中には裸にされたわたしを好色の目で見る人もいましたが、最初に声をかけてきた兵士がわたしのことをかばってくれました。

「おいおい、まだ乳もふくらんでいない子供じゃないか。それくらいにしておけ」

「そうですかい? きちんと調べないと、あとでお咎めがありますぜ」

「だが、河越城に籠もっているのはすべて兵士ばかりで、女子供はほとんどいないはずだ。いくら北条が切羽詰まっていても、こんな小娘を使いに出したりはしないだろう」

「しかし、俺たちはもう半年以上も戦にかり出されて女ひでりなんですぜ。子供といえども一応女ですし……」

「馬鹿なことをするな。それでは、あの扇谷上杉の兵と同じではないか。我々は関東管領である山内上杉の兵だぞ。戦に関係ない民百姓に無法を働いてはいかん」

「ちぇ、お堅いことで……」

 どうやら、助かったようです。わたしはそれ以上調べられることも無く、着物を返されて木戸の外に追い出されました。


 なんとか城を包囲する上杉勢の外に出ることはできたのですが、ニノが捕らえられてしまったのでは、水晶玉を託す相手がいません。かと言って、今さらお城に戻ることもできず、わたしは途方に暮れてしまいました。

 あらかじめ落ち合う約束のしてあった神社に行ってみましたが、もちろんニノの姿はありません。計画では、ここで水晶玉を渡した後、裏山に登って「狼煙」をあげてお城に知らせることになっているのですが、失敗したときの合図は決めてありませんでした。

 ニノが敵に捕まってしまったと知って、わたしはうちひしがれていました。ニノはわたしより五歳年上ですが、風魔党の仲間たちの中では一番歳が近くて、本当に親切にしてもらいました。困ったことや分からないことがあると、いつも助けてくれました。

 今回の作戦を命じられたとき、初めは尻込みしたのですが、”ニノと一緒なら”と思って、引き受けることにしたのです。

”ニノ、どうか生きていて!”

 上杉勢に捕らえられ絵図面を描いた石まで見つかってしまったとなると、生きていることは難しいでしょう。それでも、”もう一度会いたい”、”明るい声が聞きたい”と思ってしまうのでした。

 この状況でわたしにできることは、小田原に行くことだけです。意を決して小田原に向かおうと歩き始めてふと顔を上げると、なんと神社の裏山から狼煙の煙が上がっているのが見えました。

”あ!”

 わたしの心の中で、さまざまな思いが湧き上がりました。今どうするべきか、どこに行くべきか、考えた末に選んだのは最初に待ち合わせていた神社でした。

 ニノは生きていました。敵兵に捕らえられること無く、無事に脱出していたのでした。

「良かったぁ1 脱出できたのね。捕らえられたと聞いて、心配してたのよ」

「うん。北条綱房さまが木戸を突破して河越城に入ったことで、上杉勢の警戒がかなり厳しくなっていたみたいだ。最初に脱出を試みた二人の北条の武将たちはとぢらも敵に捕らえられてしまったようだ」

「そうなんだ。わたしは、てっきりニノが捕まったと思ってた」

「うん、俺は以前から芸人ということで知られていたから案外簡単に外に出られたんだが、それでも怪しむヤツがいてな。後をつけ回されていたんだ」

「え? 大丈夫なの?」

「敵を振り切った後で狼煙を上げてきたから、やつらはしばらくはそちらに気を取られて、追ってこないだろう」

 わたしは、ニノと再会できたことで涙を流して喜びましたが、まだ重要な任務の最中ですし、ニノは小田原に着くまで、これから先も危険が続きます。

 わたしは涙を拭いて、水晶玉をニノに託しました。

 ニノは、風魔方術の一つ「韋駄天の足袋」を履いて、小田原まで駆け抜けなければなりません。兵の数で圧倒的に劣る北条軍が上杉軍に勝つためには、いち早く絵図面を御屋形様の元へ届ける必要があるのです。

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