雪斎さまの戦略

 晩ご飯の後、父上の玄忠さま、亥兄こと岡部五郎兵衛元信、亀兄こと岡部忠兵衛貞綱とわたしの四人は、お寺の一番奥にある方丈の間に集まりました。

「これで3人揃ったな。三人ともそれぞれの所でよく頑張ってくれた」

 父上が話し始めると、亀兄が口をはさみました。

「父上、久綱兄上はどうしているんです? ここには来られないのですか?」

「うむ。常慶には尾張に行ってもらっていた。本来なら常慶もここに来るはずだったのだが、駿河に帰ってくる途中で病を発してな。今は遠江の曳馬という所で休んでおるのだ」

 常慶というのは、わたしたちの長兄で岡部の当主の座を継いでいた久綱兄様の出家後のお名前です。

「え、長兄はご病気ですか? どんな具合なのですか?」

 亥兄が訪ねますと、父上は少し天を見上げるしぐさをした後、

「うむ……、かなり重い病らしいのだ。寝込んでしまって全く起き上がれないということだ」

「それは心配ですね。すぐに駆けつけることはできないのですか?」

「そうだな。駿府で一つやっておかなければならないことがあるが、それが片付いたら皆で曳馬に向かうことにするか」

「そうですね。そうしましょう」

 わたしは久綱兄にはそれほど親しみを感じていないので、病と聞いてもそれほど心配はしていないのですが、父上の「皆で向かう」という言葉がうれしくて、すぐに賛成しました。もう兄妹離ればなれは嫌なんです。

 

 父上は、もう一度わたしたちの方へしっかりと向き直り話し始めました。

「おまえたちにはきちんとした説明もせずに、それぞれの地へ行ってもらったが、三人とも期待以上に頑張ってくれた。礼を言うぞ」

 父上は私たちに向かって深く頭を下げました。

「父上、頭をお上げください。説明はなくとも、父上が岡部家のため、今川家のために我々を諸国に遣わしたことは分かっております」

「え? 亥之助。岡部家のためというのは分からないでもないが、今川家のためというのはどういうことだ? 今川は岡部家を取りつぶしたんだぞ」

「うむ。だが実は、岡部家は取りつぶされたわけではないのだ」

 父上が亥兄の代わりに、事情を説明し始めました。

「元々岡部家は、久綱の言動が災いを招いていて、諸将からよく思われていなかったのだ。事件の後、わしと久綱が出家をして家臣団から退くことで収めようとしたのだが、その後の岡部家を誰に継がせるかという事が問題になったのじゃ」

「だったら亥之助が継げば良かったんじゃないですか?」

「うむ。だが朝比奈どのや三浦殿などの重臣たちは、元綱のことも警戒しておって、なかなか納得してくれないのだ。御屋形様のお気に入りの元綱が岡部本家を継いでしまうと、ますます岡部家が勢力が増してしまうと警戒したのだろう。妾腹の出でなので資格がないとか、瀬名家に嫁いだ井伊姫の娘と親しいから怪しいとか言って、いろいろ難癖をつけたのだ」

「え? そんな理由で岡部家は取り潰されてしまったのですか?」

「いや、正式には取りつぶしでは無い。あのときまだ五歳になったばかりであった常慶の嫡男の菊寿丸が元服するまで、岡部の領地を朝比奈様が預かるということで決着がついたのだ」

「え? そうなんですか? で、菊寿丸は、今どこに?」

「うむ。一歳上の姉の桐姫様とともに、駿府の朝比奈屋敷で育てられておる」

「そうですか。でも、朝比奈様が岡部家を陥れたようなもんだろ。信用できるんですか?菊寿丸が元服したら、本当に領地を返してくれるんですか?」

 亀兄の言うとおりです。菊寿丸さまが元服するのは数年後でしょうが、そのときに朝比奈様が岡部の領地をすんなりと返してくれるとは思えません。

「うむ。だが、二人の孫たちは大切に育てられているようであるし、今のところは信ずるしかないじゃろう」

「岡部郷は朝比奈親徳さまのお預かりになっているんだよな。朝日山城や岡部の御館はどうなっているのです?」

 朝日山城は、岡部郷の一番奥にそびえる朝日山の山頂に築かれた岡部氏の居城です。わたしは一度しか上ったことが無いのですが、山頂の櫓からは岡部郷だけで無く、広く駿河山西地区の平野を見渡すことができます。父上や家族たちが暮していた御館は、山裾を通る街道の近くに築かれていて、多くの家臣の屋敷もあたりに点在しています。

「朝比奈様は、城代を定めただけで、ご自身は岡部郷には入っていない。岡部の家臣たちもそのまま暮らしておる。常慶のことは憎んでいたようだが、さすがに岡部郷を自分の物にしようとまでは思っていないようだ。そのようなことをしたら、今度は朝比奈様自身が謀反の疑いをかけられかねないからな」

「それならば良いのですが……。ではあと五年くらい我慢すればよいのですね」

「うむ。それまでの間は、我々は雪斎様の指示に従って陰の仕事をすることになる」

「え? 陰の仕事ですか? 雪斎様の指示で?」

 亀兄とわたしは、思わず顔を見合わせました。亥兄の方は、ある程度察しがついていたようで、”やはり”という顔をしています。

「そうじゃ。岡部家が一旦バラバラになったのも、おまえたちに各地に行ってもらったのも、すべて太源雪斎様が今川家のために計画されたことなのだ」

 太原雪斎様というのは、今川家の宰相ともいえるお方で、御屋形様がまだ家督を継がれる前に僧侶だった頃からの師匠です。御屋形様が家督争いに勝ったのも、その後勢力を広げていって『街道一の弓取り』とまで言われるようになったのも、すべて雪斎様のお助けがあったからこそだと言われています。

 わたしたちは、父上の命令で各地に行ったと思っていたのですが、実はその裏には太原雪斎様の遠大な計画があったらしいということを初めて知りました。


「でも、俺たちは雪斎様からは何の指示も受けていないし、特に何もしてこなかったぞ」

「うむ。まずは、それぞれの地にしっかり腰を据えて、その土地の情勢を知り、人脈を作ることが大切なので、あえて知らせていなかったのじゃ」

「それで、雪斎様はいったい何をお考えなのですか? 俺たちに何をやらせようというのです?」

 亀兄は自分たちが、知らず知らずのうちに雪斎様の手足とされていたことが少し不満のようです。

「うむ。それはな……。そうじゃ、元信、おぬしはどう考える?」

 亥兄は父上からそう問われて、少し考えてから答えました。

「駿河、甲斐、相模の三国同盟ではないかと考えますが」

「おう、さすがじゃ。軍略を学んできただけのことはあるのぅ。して、その後は?」

「三河、そして尾張への侵攻、かと」

「そこまで分かれば完璧じゃ」

 父上は亥兄の言葉に感心してうなずいていますが、わたしと亀兄には何のことかよく分かりません。

「父上、今川は甲斐の武田とはもともと同盟関係にありますが、相模の北条とは激しく戦っているじゃないですが。武田も北条とは敵対関係のはずです。三国が同盟なんて……」

「うむ、だが今川と北条は、現在は停戦状態じゃ。北条が河越で上杉勢と決戦するために駿東地区を今川に譲って兵を引いておる」

「あ、それが河越夜戦ですね。小春が巻き込まれていたという」

「そうじゃ、小春には大変な思いをさせてしまったようだが、これからは今川と北条のつなぎ役として活躍してもらう」

「え? そうか、小春が北条、亥之助が武田とのつなぎ役になるのだな。じゃあ俺は?」

 亀兄は、三国同盟に自分だけが関係していないのが不満のようです。

「うむ。貞綱には今川水軍を創設してもらい、その長になってもらうつもりのようじゃ」「え? 水軍の長? 俺が?」

 わたしから見ると、亀兄はどう考えても「長」という雰囲気ではありませんが、本人はまんざらでもないようです。うれしそうにわたしの方に拳を握って見せました。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る