亥兄の帰駿

 元日の夜から二日の朝にかけて、駿府の街にも雪が舞い降り、家々の屋根や木々の梢がうっすらと雪化粧をしました。雪は朝にはやみましたが、その後も空はどんより曇ったままで、冷たい北風が吹き続けています。

 午後遅く、私が庫裏の厨房で夕餉の準備のお手伝いをしていますと、表の寺門の方から大きな声が聞こえてきました。

「父上! 遅くなりましたが、ただいま着きました。五郎兵衛元信にございます!」

 間違いありません、亥兄です。あの、少し高めの透き通るような声は全然変わっていません。

 竈の薪を何本か抜いて火を弱めてから、大急ぎで表に出て行ったのですが、すでに亀兄に先を越されていました。

「亥之助! 待ちかねたぞ。甲斐は雪ではなかったか?」

「亀吉か! 久しぶりだなぁ。そうなんだ、甲府を出てから雪が激しくなって、大変な目にあったよ」

「やはりそうか! 俺は、この三年で雲を読むことができるようになったんだ。昨日の夜は、甲斐や関東では大雪になっていると読んでいたので、おまえのことを心配していたんだぞ」

「なんと、それはすごい! 軍略で言う『観天望気』というやつだな。俺も知識としては学んでいたが、まさかこれほどの大雪になるとはとまでは予測できていなかった」

 肩を組みながら楽しそうに語り合っている二人に駆け寄って、ようやく私も会話に加われました。

「亥兄! お帰りなさい。会いたかったよー」

「おう、小春! 大きくなったなぁ。背の高さは亀吉と違わないじゃないか?」

「えー、そう? わたしは普通よ。むしろ亀兄が成長してないのよ。まあ、筋肉はものすごくついたみたいだけど」

「そうかそうか。確かに、亀吉はたくましくなったな。船を漕いでいたんだろ?」

 亀兄は筋肉を褒められたのがうれしいようで、腕まくりをして力こぶを見せています。

「そうさ! 陸では亥之助に敵わないかもしれないが、海の上なら勝つ自信があるぞ」

「うむ。亀吉は操船と雲読みの達人というわけだな。ところで、小春は関東に行ったと聞いているが、苦労しなかったか?」

「うん。いろいろあったよー。聞いて欲しいことがいっぱいあるよ。亀兄は自分の話ばかりで、全然わたしの話を聞いてくれないんだもん。亥兄は(・・・)、聞いてくれるよね」

「おう、もちろんだ。小春が三年間、どこで何をしてきたのか、どれだけの苦労をしてきたのかも、全部聞かせてくれ」

「やっぱり亥兄ね。ちゃんと私のことを気にしてくれている。亀兄とは違うわ」

 亀兄はわたしにそう言われて、少し心外な様子です。

「おいおい小春。俺だっておまえのことを心配してきたんだぞー。ただ、おまえの話は、亥之助が戻ってきてから、ゆっくりと聞こうと思ってたんだ」

「うそばっかり! 嵐を乗り越えたとか海賊と戦ったとか、自分の苦労話ばかりに夢中になっていたじゃない!」

「そうかぁ? お前も結構楽しそうに聞いてただろ!」

「そんなことないわ! 亀兄があんまりしつこいから、しかたなく聞いてあげていただけよ」

 わたしたちが、言い争うのを見て、亥兄は笑い出しました。

「はははっ、相変わらず兄妹仲がいいじゃないか。おまえたちを見ているとうらやましいよ。俺にも兄や妹が欲しくなってしまうぞ」

「何を言ってるんだ」

「何を言うのよ」

 亀兄とわたしの言葉が重なりました。

「わたしたち三人は兄妹じゃないの! 亥兄は生まれたところやお母さんは違うけど、小さいときから山西の野山で、ずっと一緒に遊びながら育ってきたんだから」

「そうだぞ、亥之助。俺はおまえのことを実の兄だと思っているんだ」

 亥兄は、わたしたちからすごい剣幕で怒られて、驚いたようでした。

「うむ、そうだな。」


「ねえ、亥兄の名前なんだけど、元綱じゃなくて元信に変わったって、本当?」

「ああそうか、父上から聞いたんだな。そうなんだ。元服の時に今川の御屋形様から、名前の義元の『元』の字をいただいて、父上の親綱の『綱』と合わせて『元綱』と名乗っていたのだが、そのあと、甲斐の武田晴信様からも『信』の字をいただいたので、それからは『元信』と名乗ることにしたのだよ」

「今川の御屋形様だけでなく、武田晴信さまにも気に入られるなんて、亥之助、おまえすごいなー。諱(いみな)の二文字を、それぞれ別の大名からもらっている男なんて、古今東西でおまえだけじゃないか」

「うむ。そのおかげで岡部家代々で引き継がれてきた『綱』の字が使えなくなってしまったがな……。まあ、亀吉が貞綱と名乗ってくれているから、綱の字の名乗りはおまえに任せるよ」

「おう、任せとけ。久綱兄も出家して常慶とか名乗ってるし、親父も今は法名の玄忠だから、綱の字を使っているのは、今は俺だけというわけだな」

 そうでした。亀兄は元服したとき、父上から「貞綱」という名前をつけてもらったのですが、わたしも亥兄もずっと「亀吉」「亀兄」のままで呼んでいるので、そんな立派な名乗りがあることを忘れていました。ちなみに亀兄の正式な名前は「岡部忠兵衛貞綱」といいます。

「ところで、亥之助。甲斐では軍略を学んできたと言っていたな」

「おう、そうなんだ。武田の軍師の駒井高白齋殿から、孫子呉子、六韜三略から奇門遁甲にいたるまで、あらゆる軍学を学んできた。実戦で使ったのは一度だけだが、なかなか奥が深くて勉強になったぞ」

「そうか。亥之助は戦に出たのか。武田は信濃に侵攻しているから、実戦を経験する機会があったんだな。どんな戦だった?」

「それはまた落ち着いてから話すよ。とにかく寺の中に入ろう。そうだ、俺の話よりも小春の話を先に聞かなくちゃ。小春は関東に行ったんだよな。関東も騒乱が続いていて、大変だっただろう?」

「うん」

「河越城というところで大きな戦があったと聞いているが、まさか巻き込まれたりはしていないよな」

「え? 亥兄よく知ってるね。実はわたし、その河越城の中にいたんだよ」

「なんだって? 河越城は上杉勢の大軍に半年間も囲まれて、兵糧攻めにあったというじゃないか。なんで小春がそんなところに?」

 さすが亥兄は関東の情勢にも詳しいようです。亀兄のほうは何のことか分からずぽかんと口をあけていますが……

「あれ? 小春は、江戸という所で『ふうば』だか『ふうま』とかいうおっさんにいろいろ学んでいたんじゃなかったのか?」

「そうよ。その風魔小太郎おじさまのお使いで河越城に行ったちょうどその時に、上杉軍が攻めてきたのよ」

「そうか、小春はあの『河越夜戦』のまっただ中にいたのか……」


 私たちは玄関の外で話していましたが、一旦話をやめて、部屋の中に入りました。続きは父上も加えて、晩ご飯の後で話すことにしました。

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