亀吉の伊勢での生活
私たちが生まれ育った小川湊は、岡部郷から南へ三里ほど下った海沿いにある小さな湊町です。その小川湊にある商家の主の石津屋与平次が、私の母方のおじいさんにあたる人です。
私の父の岡部親綱が、小川郷の豪族の長谷川元長さまを訪ねた際に、小川城にほど近い石津屋に立ち寄りました。そこで私の母を見そめたのです。石津屋は、駿府の豪商の友野家や松木家ほどの大きな商いはしていませんが、小川湊を拠点として、材木や石材などを「廻船」とよばれる船を使って三河や伊勢の方まで運んで商いをしておりました。
父上の岡部親綱さまには、岡部郷のお城に本妻がいましたが、石津屋の娘である私の母のことも大切に想って度々通って来てくださるようになり、兄の亀吉と私が生まれたのです。私たちは岡部家の子として大切にされましたが、岡部郷のお城に引き取られることは無く、ずっと母の実家の石津屋で育てられてきました。
『あの事件』があって岡部家が取りつぶしになり、私たち兄妹が駿河を離れなければならなくなったき、兄の亀吉は、石津屋の商売の関係でつながりのあった、伊勢の国の小浜景隆さまという豪族のところへ行くように命じられたのでした。
「いやいや、小春ぅ。大変だったんだぞぅ」
亀兄は、偶然に出会った古着屋を出てから、集合場所の法厳寺につくまでの間、自分の苦労話をずっと語り続けていました。
「小浜どのは、伊勢では名のある豪族なのだが、なかなか癖のあるお方でなぁ……。とにかく、強くなれ、力をつけよ、体を鍛えよと、船の上でも陸に上がっても、ずーっと体を動かし続けさせられるんだ。おかげで、三年間でこんな体になってしまった」
亀兄は着物の袂をめくり、力をいれながらぐっと腕を曲げると、上腕の筋肉がぷっくりと盛り上がるのを見せつけました。
なるほど、筋肉隆々といった感じです。胸にも背中にも三年前には全くなかった厚みが感じられます。
「それでさぁ、一晩中船を漕がされたり、重い荷を背負って伊賀の峠を越えさせられたり、本当に人使いが荒いんだ」
そう言って歩きながら、亀兄は傍らに置いてある石臼を持ち上げたり、横に伸びた枝にぶら下がって何度も体を持ち上げたりします。文句を言っている割に、どうも私には力自慢をしたいようです。
「亀兄、強そうになったね。今なら亥兄と腕相撲しても負けないんじゃ無い?」
「おお、そうだ。早く兄貴にも会いたいなぁ。よし、会えたら真っ先に腕相撲で勝負をしてもらおう」
その後も歩きながら、亀兄の苦労話はずっと続きました。
「熊野水道を回って堺の町に向かったときは、嵐に遭ってしまってなぁ」
「鈴鹿の山で熊に出くわして、命からがら逃げたときは……」
「そうそう、知多の佐治という海賊と戦いになったことがあって……」
次から次への話は止まりません。
「で、亀兄は父上からは、伊勢で何をしてくように言われていたの?」
実は、私たち三人は駿河を出て行くときに、それぞれ父上からの「密命」を受けていました。今川のため、そして岡部家の再興のために、それぞれの地で様々な人物とのつながりを作ったり、特殊な技術を身につけたりするように言われていたのです。
「おう、それよ。まずは、伊勢の海賊たちとの渡りをつけて、ゆくゆくは今川の水軍としてお迎えできるように働きかけるというのだが、何しろ小浜どのが堅物なのでなぁ……」
「え? じゃあ、亀兄は父上からの密命は果たせずに戻ってきたの?」
「いやいや、そんなことは無い。何しろ小浜どのご自身が大きな軍船の安宅船を持つ、れっきとした海賊と言って良いのだから……。ただ、このところ鳥羽の九鬼という名の一族が船を増やして勢力を伸ばしていて、小浜どのは押され気味なのだ」
「ふうん。やっぱり伊勢でも争いは絶えないのね。関東なんて、もっと……」
私は、亀兄の話も聞き飽きてきたので、自分の方に話題を振ろうとしましたが、亀兄はそんなことお構いなしで、さらに自分の話を続けます。
「そうなんだよ。伊勢は神宮様のある神の国というから、さぞかし平穏で厳かなところかと想っていたら、全然そんなことは無かったんだ。陸の上では豪族たちがわずかな土地の取り合いで血を流し合っておるし、海の上では伊勢だけで無く、熊野や知多の海賊たちが入り乱れて勢力争いをしているんだ」
結局、私の話は全く聞いてもらうこと無く、法厳寺の門前までたどり着いてしまいました。
「して、貞綱よ。伊勢の海賊の状況はどうじゃった。小浜どのは今川に味方してくれようか?」
今は出家して
「はい。小浜景隆どのが今川に心を寄せられていることは間違いありません。そのほかに、小浜殿と親しい向井忠綱どのや間宮高則どのも同じ気持ちだと聞いております。ただ、伊勢では鳥羽に拠点を持っている九鬼泰隆の一族が勢力を伸ばしておりまして、今のところは、自分の領域を侵されないように守ることで精一杯の様子です。他国に兵や軍船を出す余裕はありません」
「なるほど、左様か。まあ、しかたあるまい。よく調べてくれた。で、おまえ自身はどうじゃ。この三年間で何か特技を身につけることはできたか?」
「はい」
あ、筋肉!
と答えるかと思ったのですが、亀兄の口からは意外な言葉が出てきました。
「雲を読むことができるようになりました。空を眺めれば、一刻後、二刻後、時によっては翌日の天気も当てることができます」
「ほう。それは大したものじゃ」
「はい。船に乗っておりますと、天気の変化を見誤ると命取りになることがございます。 私は伊勢で一番の雲読師と言われる古老から、雲や風の読み方をとことん学んで参りました。もちろん雨や風の吹き方は土地によって異なりますので、伊勢で学んだことがそのまま他の土地でも通用するわけではございませんが、読むコツを身につけることができましたので、その土地にしばらく滞在し、また土地の者から過去の様子を聞き集めることによって、どの土地でも雲読みは可能だと思います」
「うむ、それは頼もしい。必ず役に立つときが来よう。それまでさらに技を磨いておけ」「はい。そういたします」
-亀兄、なんか格好いい。なんだかんだ言って、やっぱり頑張ってきたのね-
ただの筋肉男になっただけじゃ無いと分かって、私はほっとしました。
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