集合場所の法厳寺へ

 亀兄と私は、駿府の町外れにある小さなお寺に着きました。

 年の瀬の買物に行き交う人々で賑わう駿府の街の中で、このお寺だけがなぜか閑散としていて、人の気配が感じられません。

 門前に、『浄土宗 寿風山 法巌寺』と書かれた門札があるので、ここに間違いは無いと思います。私たちが離ればなれに旅立っていったとき、父の岡部親綱が「3年後に戻ってこい」と言って指定した場所、のはずです。

「ごめん!どなたかおられるか?」

 亀兄が大声を出して尋ねたが、何の返答もありません。門は開いているのでとにかく中に入ってみることにしました。

 お寺の中には、本堂の他にもいくつか建物があって、庫裏や書院らしき建物に向かった方が良いかとも思いましたが、本堂の扉が一枚開けたままになっているのを見て、そちらに先に行ってみることにしました。


 薄暗い本堂の中で、一人の僧が静かに座っています。

「来たか。貞綱と小春だな」

 僧は、本尊の阿弥陀如来の方を向いたまま、振り向きもせずに声を出しました。わたしたちの父上の岡部親綱です、事件の後は出家して玄忠と名乗っています。

「はい。ただいま戻って参りました」

 亀兄は、私に対するときとは全然違い、しっかりと背筋を伸ばして引き締まった表情で答えました。貞綱というのは、亀兄の元服後の名前です。三年前に離ればなれになったとき、亀兄はすでに十九歳で、とっくに元服していて、岡部忠兵衛貞綱と名乗っていましたが、私はずっと幼名の亀吉からとって亀兄と呼び続けています。

「父上、小春も無事に戻ってきました」

「二人とも、苦労をかけたな。旅先でのことは、北条宗哲殿と小浜景隆殿から詳しく聞き知っておるが、本当によく頑張ってくれた」

「え? 父上は、私が関東でどんなことをして来たのか、全部ご存じなのですか?」

「うむ。もちろん全てを知っているわけではないが、宗哲殿からは、二月に一度は文をやりとりしておった。景隆殿とも、じゃ」

 そうだったんだ……。

 私は、今川とは敵方の北条氏のところへ行っていたので、自分の消息が父上たちの元に届いているとは思ってもいませんでした。誰にも知られず、ひとりぼっちで生きていると思い込んでいたのです。

 私が関東でお世話になっていた北条宗哲様は、伊豆や相模を支配している北条氏の一族だけど、幼いときに出家して僧籍に入っていたり、箱根権現の別当をつとめたりして、一族の中でも少し異色の存在だったようです。それに、風魔のおじさまのような忍びの者を従えていたくらいだから、駿河にいる父上と連絡を取り合うくらいなんでも無かったのでしょう。

 それならば……。

 私にも駿河の父上や、甲斐の亥兄、伊勢の亀兄の様子を知らせてもらいたかった……。

 そう思うと、涙が止まらなくなってしまいました。


「父上、亥兄いのにいはまだ来ていないのですか? 亥兄の消息もご存じなんでしょ? ご無事なんですよね」

「うむ。元綱も無事じゃ。約束の元日には間に合わず、数日遅れると連絡があった」

「ああ、良かったぁ。あと少ししたら、亥兄にも会えるのね」

 亥兄は、元服後は五郎兵衛元綱と名乗っています。元綱の「元」の字は、なんと今川の御屋形様の名前「義元」から一字をもらったものです。御屋形さまから、あんなにも気に入られ、目をかけられていた亥兄だったのに……。あの頃は今川屋形で、三人の兄妹がそろって、楽しく暮らしていました。なのに……。

 すべてを『あの事件』が台無しにしてしまったのでした……。



 私たち兄妹の父親は、今は出家して玄忠と名乗っていますが、俗名は岡部親綱といいいます。

 岡部氏は、駿府から西に向かって峠を越えた先の山裾にある岡部郷を領する土豪で、古くから続く名家らしいです。

 らしい……というのは、私たち兄妹はその岡部郷で生まれ育ったわけでは無く、少し離れた小川湊にある石津屋という材木を扱う商家で暮らしていたので、岡部氏の歴史にはそれほど詳しくないんです。

 私と亀兄のお母さんは、石津屋与平次という商人の娘で、父上が小川湊に来たときに見初められて、側室となったということです。子供が生まれても、岡部郷に引き取られること無く、ずっと実家で育てられました。もう一人の亥兄のお母さんは焼津神社の神官の娘で、やっぱり生まれた後もずっと実家で育てられました。焼津神社と小川湊は結構近いので、私たち三人は、子供の頃はいつも一緒に遊んでいました。

 本当は亀兄の方が亥兄よりも一つ年上なのですが、亥兄は、体も大きく学問も究めていて、近在の子供たちの頭領みたいな存在でしたので、亀兄も亥兄のことを「兄者」と呼んで、いつも後ろに付き従っていました。私は亀兄よりも五歳年下なので、一緒に走り回るのは難しいときもありましたが、とにかく二人と一緒にいたくて、必死で後を追いかけていました。亀兄は私のことを「足手まとい」だと言って邪険にするけど、亥兄はいつも気遣ってくれて、私の足に合わせてゆっくりと走ってくれたり、私でもできる役割を与えてくれたりしてくれました。

 私たち三人は、いつも一緒でした。


 私が七歳の時、当時の今川氏の当主の氏輝様が急死され、その跡目を巡って、氏輝様の二人の弟の間で相続争いが起こりました。「花蔵の乱」と呼ばれる戦いです。

 このとき父上(岡部親綱)は、いち早く現在の当主の義元様の側について敵方の城を攻め、大きな武功を上げました。当時まだ十歳だった亥兄が、地元で遊び回っていた地の利を生かして、敵方の拠点の「方ノ上城」を攻めるための抜け道を父上に伝えたことで、大勝利を得ることができたのです。

 義元様が御屋形様となってからは、父上は今川氏の重臣となり、まだ元服前だった亥兄も御屋形様の近習として今川屋形に迎え入れられました。そのとき、私と亀兄も、亥兄について駿府に行くことになり、同じ屋敷の中で一緒に過ごすことになったのでした。


「そうそう元綱だが、甲斐の当主の武田晴信様にいたく気に入られたようで、晴信様の信の字をいただいて、元信と名乗りを変えたそうじゃ」

「へえ、さすがは兄者だ。甲斐でも大活躍をしらんだろうな。早く会って話が聞きたいなぁ」

 亀兄はそう言いますが、実は自分の苦労話を亥兄にも聞いてもらいたいだけに違いありません。だって、古着屋さんで偶然に亀兄に会ってから、このお寺にたどり着くまで、私はずっと亀兄の三年間の苦労話を聞かされ続けたんですもの。本当は、私だって聞いてもらいたいことはたくさんあるのに……。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る