(7)

「遅いぞ、アホガイ」


「……うるさい、バカ」


 生きて自分の前に立つ青貝の姿に、天人は完全に取り乱した。


「何故だ! 何故お前は死んでいない?」


「知るか。神に訊いてみろ」


 青貝はそう言うと、手に持っていた糸巻きを天人に向けて振り上げた。天人が小さく「ひっ」と悲鳴を漏らす。


「お前が言うには、この糸巻きの中には〝あらゆる人の苦痛〟が入ってるんだったな? 胸糞悪い光景を幾つも見せやがって。もう吐けるモノも無え」


 青貝は糸巻きごと両手を振り上げると、切っ先を天人の顔面に向けた。


「お前は何度でも生き返れるんだろう? 人間と違って完璧な身体を持っていやがる。だが俺達やお前達、更には全ての生物の間に共通するモノがただ一つだけあるのを知っているか?」


「な、何だ。何が言いたい?」


「それは生きようとする、この世に存在しようとする〝意志〟だ。確かに絶望し羽化した人もいれば、イモムシのように生きようと決めた者もいるさ。人間の心は完璧ではないし、負けてしまう時だってある。俺達人間はそうやって生きて、死んでいった」


 そう言うと青貝は一つ息を吐きながら目を閉じた。頭の中に多くの人々の絶望の慟哭が鳴り響く。


 彼らは皆、ただ生きていたかった。だが生きていたいという意志すらも絶望によって掻き消され、死が最期の道筋でしかなくなってしまった。アンデスが希望によって意志を消されるように、彼らは絶望によって意志を消されたのだ。


「何度でも生き返れるお前に与えられる罰は一つしかない。お前はもう、完膚なきまでにその〝意志〟を砕いてやる」


 そう言って青貝が向ける切っ先に、天人は恐れ慄いた。糸巻きに巻かれた茨の先端から、自分を地獄に引き摺り落とそうとする怨嗟の声が聞こえる。天人として己の中で築き上げてきた傲慢と自信が、音を立てて崩れ去っていく。


「た、たすけ──」


「お前の神に願え。散々お前が利用してきた人々の痛み、その身で味わって逝け!」


 そう言って青貝はアカシックレコーズの糸巻きを、天人の顔面に突き立てた。音も無くスルリと入り込んだ絶望に、天人は覚悟の時間も無いままに絶望の渦へと叩き込まれた。


「あ、あ、ああああアアアッギャアアアアアアアッッ」


 顔面に糸巻きが差し込まれた瞬間、多くの痛みが流れ込んできた。赤ん坊の痛み、少年の苦しみ、女性の喪失、男性の挫折、老人の後悔……。あらゆる痛みという痛みの記憶が、彼の意識の中にダイブした。


 人々の絶望の中で溺れながら、天人は回想する。


 どうしてこうなった。どうして俺はこんな目に遭っている? 俺は天人だぞ? こんな奴らよりも七次元も上の存在だぞ? 俺は完璧だ。完璧になったんだ。完璧な容姿! 身体! 頭脳! 俺を馬鹿にしてきた人間はみんな俺の足元に平伏す筈だ!


 絶望の追体験は幾つも流れ、それが止まる事は無い。


 違う。こんな筈じゃない。俺は幸せを掴むんだ。俺を馬鹿にしてきたあいつらを、俺は空から見下ろしてやるんだ。あいつらって誰だ? いやそんなのどうでもいい。もう全部の人間を見下ろす。見降ろす。見降ろして見下してやるんだ!


 絶望の声はまだ止まらない。


 ああ嫌だ。もう嫌だ。何人目だ? 何万人目だ? あと何人いる? もう見たくない。頼む。死なせてくれ。死にたい。苦しい。もう疲れた。死にたい。もう死にたいとすら考えたくない! やめろ。触るな。もう意志なんて要らない。頼む。誰でもいい。神様、仏様、青貝様。俺を、俺をもうこの世から消してくれ!


 その時、天人の背後でぼたりと何かが落ちる音がした。それは自分が神より賜った、純白の翼だった。あれ程までに敬い、慕い、感謝した神は遂に自分を見棄ててしまった。


 それは男が天人と化して初めて感じた、彼の本当の絶望だった。


 男は針の飛んだレコード盤のように声を止めては鳴らしながら三十分近く叫び、塵のようにしてこの世から消えて行った。



 凄惨な天人の最期に、青貝は思わず目を逸らしてしまう。そして消えてからしゃがみ込もうとする自分に対して、大きく舌打ちをした。友人を殺され、数え切れない人間の絶望を知り、人外の存在になっても尚、自分の心はこんな奴を慈しもうとする。


(それでいいんだよ。青貝)


「か、鹿島?」


 頬に張り付いた糸から、友の声が聞こえてきた。彼の全身は目元すらも包み込まれ、そこにあるのは大きな糸玉のようにしか見えない。


 青貝は頬に繋がる糸を撫でる。


「俺が絶望に負けずイモムシになれたのは、お前が声をかけ続けてくれたからだ。お前が居なければ俺は……」


 糸のベッドに包まれながら、鹿島は小さく笑う。だがその笑顔も今は、繭に隠されていて見る事は出来ない。


(勘違いすんな、アホ。俺が何もしなくても、お前は勝手に飛び出てきただろうよ。お前は早起きだしな)


 鹿島はただ糸に包まれた彼に対し、糸を介して言葉をかけ続けただけに過ぎなかった。どれだけ人が願い留めようとしても、死ぬ人は死んでしまう。死を選びかねない彼に出来た事は、殆ど賭けと言ってもいい事だけだった。


 その中で彼は、絶望を受け入れながらも生き続ける道を自ら選んだのだ。絶望に負けないのではなく、己に定めた信念を曲げない為に。


 彼は自死する事無く、意志を持ってここに存在している。今はそれだけが嬉しい。


(すまないが、もう時間が来たようだ)


「え?」


 足元を見ると、柔らかだった彼の糸が硬質なモノに変わり始めていた。生物であった彼が、無機物へと変貌していく。


(どうやらお迎えが来たようだ。遠くで誰かが怒鳴ってる声が聞こえるよ)


「誰だよ、それ」


(さあな。親父か平野か、案外水谷教授だったりしてな。手を振っているのは、あの時の子か?)


「そんなの追い返せよ」


(無茶言うなよ。もう、無理なんだよ)


 青貝は俯きながら、目の前の友の結晶に話しかける。


「本当に、本当にもう、無理なのか?」


 鹿島は友の言葉に何というべきか悩んだが、言う言葉は決まっていた。


(ああ。無理だ)


 いつまでも彼をここに留めておく訳にはいかない。俺の後ろに隠れさせる訳にはいかない。絶つ鳥は後を濁さずに飛び立ち、主役は交代し、これからは彼が物語を紡ぐのだ。


(青貝、最後の頼みだ)


「……何だ?」


(お前に結んだ、最期の糸を切ってくれ。俺の意志では切れない)


 青貝は頬に繋がる彼の糸を見た。彼の糸の中で結晶化していないのは、どこまでも細いこの一本のみとなってしまった。


 青貝の頭に幾つもの手段と可能性が浮かぶ。だが今はそれを全て取り払い、己のメンタルフォルスの糸を発現した。


 掌から、赤く染まった鎖が飛び出る。この具現化したトラウマは自分から産まれ、彼が呼び起こしたモノだ。


 それは自分の中に存在した、罪の鎖だった。どこまでも硬く、強く、己を雁字搦めに縛り付けてきた生き方そのものだった。


 僅かな力ですら引き千切れそうな拙い糸を見て、青貝は涙を堪えた。彼が人間である証はもう、指で弾けば切れそうなこの一本の糸しか存在しない。


 様子を見ていたアタシが青貝に駆け寄ろうとするのを、草野は引き止めた。鹿島が平野にしたように、こればかりは彼しか出来ない事だというのが彼女にも伝わる。


 彼が起こし、彼が信じ、彼が犯した罪は彼にしか癒せない。


「う、うう……」


 青貝の心の中に、友との日々が浮かんでくる。浮かんでくるもの全てが、しょうもない日々の笑い話だった。それすらも明日からは消える事実はどこまでも重い。他愛ない日常の日々の重みが、彼の背中に強く圧し掛かる。


「う、う、うわあああああああああああ!」


 堪えきれず青貝は泣き叫んだ。あれだけ血の涙を流したというのに、それでもまだ泣き足りなかった。


 泣き叫びながら、青貝は両手を憎い天に掲げる。


 青貝の魂の慟哭が変化する。


 青貝は鎖を伸ばすと、彼の最期の糸を断ち切った。


(じゃあな、友よ)


 引き千切れた糸は瞬く間に硬質化し、彼はこの世から消えた。

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