(5)
「ギャアアアアアアアアアッ!」
痛みは無くとも、思わず青貝は叫んでいた。叫べば抜け落ちてくれる事に賭けるかのように、声の限りに雄叫びをあげた。
「ア、青貝イィィ!」
鹿島が駆け寄ろうとするが、今度はその隙を天人が見逃さなかった。天人は翼を大きく引き伸ばすと、抱擁をするかのように彼の身体へ巻き付けた。
「離せ、離しやがれ!」
「随分と無様だな、虫。図書館に行って人体図を見直してきたらどうだ?」
天人の言葉に激昂した鹿島は、右の掌を右翼に張り付けた。眩い稲妻のような光を轟かせながら、天人の翼が消し飛ぶ。
「チッ、厄介な……」
天人は左の翼で大きく羽ばたくと、四人とは逆方向に飛んで片膝を立てた。天人が初めて見せる明確なダメージの光景に対しても、鹿島とアタシは見向きもしない。
「青貝、大丈夫か!」
二人は跳ねるようにして青貝の元に向かい、彼の胸に刺さる糸巻きの柄を握った。
握った瞬間、二人の頭に電流が走った。衝撃から一瞬のうちに手を離したが、それでもまだ余韻が頭と心に響いている。
鹿島の頭の中には今、赤ん坊の泣き声が響いていた。知らない国、知らない景色、知らない家庭のベッドの上に眠る、見ず知らずの赤ん坊の姿が映る。
赤ん坊は腹が空いていた。もう何日も乳を貰えていない。極限の空腹の中で必死に母親に乳を求めていたが、求めた先の母親は部屋の隅で耳を閉じて蹲っている。
赤ん坊の心の中で、強い恐怖とストレスが混じり合う。誰でもいいから助けてと、最後の一滴が枯れるまで泣き叫ぶ。
だがその声はどこにも届かない。次第に泣く力も失った赤ん坊は目を開く力すらも失い、絶望を抱いて死んだ。
そこまで頭の中に浮かんでから、鹿島は目を開けた。
「今のは、何だ……」
傍らを見るとアタシは口元を両手で押さえながら、必死に喉にせり上がる物を呑み込もうとしていた。彼女もまた自分と同じように、誰かの苦痛と接続したのだろう。二人の光景を見た天人がクツクツと嗤う。
「言っただろう。それにはこの世に存在した人々の絶望が刻まれている。お前達も今、誰かのそれを感じたのだろう? その塵も今、あらゆる人間の絶望を一つずつ味わっている最中だ」
消し飛ばされた右翼を忌々しそうに見つめていた天人は、困惑する二人の様子を見て慰めるかの如く楽しそうに言った。
鹿島は天人の言葉を無視し、再度糸巻きの柄を握った。今度はどこかの国で強盗に遭い、誰にも看取られる事無く死んだ老人の絶望が浮かんできた。それが終わるとまた次の絶望が身に降りかかって来る。それらに躊躇する事なく鹿島は柄を掴む掌に力を入れるが、糸巻きはビクとも動かない。
アタシがその場で、悔しそうに地団駄を踏む。いっその事、破壊してやったらどうだろうか。自分の糸ならそれが可能である事も、鹿島には分かっていた。
だが青貝の精神と繋がった糸巻きを破壊すれば、彼の身に何が起こるかも分からない。もし自分と同じような〝歪〟になってしまったらと思うと躊躇してしまう。
「ガ、ガじ、マ……」
その時、鹿島の目の前から声が聞こえてきた。
「ザわるナ……」
胸を貫かれた青貝は歯を食い縛り、血の混じった涎と涙を垂らしながら言う。青筋を隆起させた右手で鹿島の手を握り、渾身の力で突き放そうとしている。
「おれハ、俺はまゲナい!」
「青貝……」
膨大な痛みを受けつつも、青貝は意識を保っていた。彼の異常性を感じ取ったのか、天人は目を剥いてこちらを見た。
「とんでもない奴だ。まだ死に縋らないとはな……。元々異常性があって、ヒトの痛みに共感しにくい性質だったのか?」
天人の勝手な言い草に、鹿島は拳を強く握る。ふざけるな。全ての人類が人工の安寧に逃げた中で、彼以上に人の痛みに敏感な奴が何処にいる? 彼が死を覚悟してまで糸巻きを手放さない理由は一つだけだ。
彼は今、人々に棄てられてきた者らと向き合い、その一つ一つに同情しているのだ。血の混じった赤い涙を流しながら、見棄てられた人々を想っているのだ。断じて彼が人の痛みに鈍麻な訳では無い。
だが人の痛みが分かるという事は、それだけ人の痛みを理解し背負ってしまう。絶望し糸を紡ぎ始めるのが時間の問題である事は、彼自身が一番よく解っていた。
「青貝、少しでいい。少しの間だけ耐えてくれ……」
そう言って鹿島は振り向くと、天人もまた翼を広げてこちらを睨みつけた。殺意を込めた攻撃は右翼を根元から消し去り、天人は根元を見ては憎々しく鹿島を睨み返している。
「そいつを塵と言ったのは撤回しよう。塵がここまで人の痛みを無視出来る筈が無い。そいつは塵ではなく、ただの
「……屑はてめえだ」
その言葉を皮切りに、鹿島と天人は二度目の交戦を始めた。片翼を失った天人の攻撃は明らかに弱体化していたが、それは鹿島も同じである。力を使った疲労がまるで抜けていないし、何より後ろには絶対に護らなければならない者がいる。
だが、それが攻撃を止める理由にはならない。激しく攻撃の勢いを増す鹿島に対し、天人は徐々に顔を崩し始めた。
「何故お前はその身体で戦える? お前は人間なのか? その身体でどこに向かう気だ?」
「天人と口利く気はねえ。さっさと地獄に堕ちろ!」
神にも等しい存在に対し、鹿島は思いつく限りの罵詈雑言を浴びせていった。こいつさえいなければ、こいつ等がこの世界に現れなければ、八億もの人類を死なせる事は無かった。父も、母も、旧友も、恩師も、俺を愛した女性も皆死ぬ事は無かったのだ。
だが今この瞬間だけは、それも全てどうでもいい。一瞬だけだが全てを赦してやる。
今一番自分が天を許せないのは、誰よりも優しい友を否定した事だ。
鹿島は沸き上がる最後の力を振り絞り、天人の左翼を弾き飛ばした。天人は初めて顔を痛みに歪ませ、小さな悲鳴をあげた。
「貴様らの世界が天国や極楽に属するかは分からねえし、値するかも知らねえ。だが貴様みたいな奴が神の遣いだって言うのなら、天も相当に腐ってやがる」
「貴様……、自分が何を言っているのか分かっているのか?」
「お前らが俺の大切な者達を受け入れないのなら、俺は天など信じない。お前らは天人でも天使でもましてや神でもねえ。この世界に必要の無い、最低最悪の
鹿島は両手を合わせると、そこから虹色に輝く糸を取り出した。糸を見た天人は顔を驚愕させたが、歪み切るよりも前に彼は糸を鞭のようにしならせた。
湧き立つ埃の中で、天人は痰が絡んだような咳をした。横面を糸で思いっきり叩かれた天人は地面に這いつくばり、自慢の顔に何十年と積もった埃を擦り付けた。
「そうか、それがお前の源か」
そう言うと天人は頬を地に擦り付けながら、クツクツと不気味に笑い始めた。
「大切な人を守りたい、か。御大層な事だがそれをした先に何がある? ……俺は知っている。貴様らはどれだけ人を護ろうと、いずれは護ってきた人間に迫害される運命だ」
「……何が言いたい?」
「お前はさっきの言葉を、ブタ相手に同じ事が言えるか? 今から俺と手を取り合って踊る事が出来るか? 言うまでもなく無理だ。存在目的の意義が違う同士では手を取り合う事は出来ない。豚と人間、人間と天人、天人とイモムシ……。その隔たる壁を壊すには、全てを一つの存在にするしかないんだよ」
「一つの存在だと?」
「ああそうだ。全ての生物、全ての魂を遍く救済し、平等に十次元の住人に変える。それこそが! 俺に与えられた使命だ!」
天人は手を突いて起き上がると、苦しみもがく青貝の方を見た。そのまま地面を強く踏み込むと、彼の元へ駆け寄った。鹿島も追いかけるが、今の体力では追いつく事が出来ない。
身動きの出来ない青貝の前に、アタシが立ち塞がる。アタシはメンタルフォルスの糸を盾のようにして広げたが、天人はそれを手で一振りしただけで消し飛ばした。
「お前に用は無い!」
天人の腕が当たった瞬間、彼女の身体からゴギッと嫌な音が鳴った。払い飛ばされた彼女は防御する姿勢も取れないまま、草野がいる方向に吹っ飛ばされた。
二人きりになった天人は、悶え苦しむ青貝を見下ろした。青貝も天人は見えているのか、視線をどうにかして上げる。
「青貝君、俺の声が聞こえるかい?」
今までとは違う優しさに満ちた声色に、青貝は食い縛った表情に虚を突かれた。
「俺は間違っていたよ。君こそ天に相応しい存在だったんだ。そんな君に対してこんな惨い行為をしてしまい、俺は自分がとても恥ずかしいよ」
天人の言葉に何も言い返せず、青貝はただ天を見上げる事しか出来なかった。心の中では誰かの絶望の声が鳴り響いている。頭の中はムカデが走り回るかのような苦痛が走り、せり上がる吐瀉物は血や汗に水分を奪われて流れ出る事すら出来ない。
「君も辛いだろう。もう何人の絶望を追体験した? 何度殺され、何度自殺し、何回犯された? だがそれももう終わりになる。……苦しむ君に、一ついい事を教えてやろう」
その言葉を聞いた瞬間、鹿島はこの天人が何を言うのかが分かった。人の苦しみを覗けるというのは本当だった。奴は青貝が自分にした行いを、知っていたのだ。
「やめろ青貝! 聞くんじゃねえ!」
断末魔をあげるように、能力を解放する。だが鹿島が攻撃を加えるよりも先に、天人の口は滑らかに動いた。
「そこにいる鹿島君だが、産まれて早々長くはない。彼の力は強大過ぎて、今なお自分自身を繭に取り込もうとしている。俺を斃そうが斃すまいが、彼が助かる見込みは無いんだ」
「……え」
予想もしなかった天人の言葉に、初めて青貝は明確な反応を示した。血と汗に塗れていた青貝の目が、鹿島と合う。
「彼は再び君の目の前で死ぬ事になる。それは何故だと思う? 答えはね、君が彼の羽化を邪魔したからだ。彼は蝶にも芋虫にも成れず、かといって人間にも戻れず歪のまま産まれてしまった出来損ないなんだよ」
その言葉を聞いた途端、絶望に抵抗していた青貝の動きが止まった。青貝だけでなくアタシも草野までもが言葉を失い、世界ごと制止したような静けさに包まれた。そんな世界を嘲笑うかのように、天人は言葉を止めない。
「時々いるんだよ、君みたいな人間がさ。人を助けた気でいながら、その実はトドメを刺しているっていう厄介な人間がね。善い事をして気持ちが良かったかい? でも君だって薄々気付いていたんだろう? イモムシと呼ばれる者らとは明らかに違う、死を受け入れているかのような彼の姿に」
静けさの中で最初に響いたのは、青貝が膝をつく音だった。
「まさか、そんな……。俺が、鹿島を?」
「違う、お前のせいじゃない!」
鹿島の言葉に、青貝は両手を見る。血がこびり付いた掌に、彼の糸の感触が残っている。
「俺はあの時、お前の繭を……」
「違う、違うんだよ!」
必死に肩を揺さぶる鹿島に、青貝は目の光を失い始めていた。多くの人の絶望に触れ、助けられなかった友の死を乗り越え、自分にはやるべき事があるという信念が今折れようとしている。
それらを全て見ていた天人は、囁くように言った。
「安心したまえ。君の罪は償われ、彼も間もなく死ぬ。宗教が嘘だと証明されても、死後に世界があるというのは本当なんだ。ここが駄目ならあちらで仲直りすればいい。君の人生最大の友を生かしも殺しもせず、死体すら残せない残酷な状態にしてしまった罪はここに置いて逝くといい」
天人は鹿島を突き飛ばして青貝と向き合うと、にっこりと微笑んで言った。
「もう大丈夫。そして、もう終わりだ。安心して死ね」
その言葉を聞いた瞬間、青貝の中の最後の理性が切れた。
次に響いたのは、青貝の全身を何かが巻き付く音だった。その音は彼の身体から飛び出し、目にも止まらぬ速さで彼を包み込んだ。全身を余すとこ無く包み込み、青貝の身体はバキバキと嫌な音を立て始めた。
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