(4)

 そこから先に人はいなかった。鹿島は右腕を前に突き出すと、そこから見えない糸を飛ばした。平野天使の攻撃を防いだあの衝撃波のようなモノだろう。天人は彼の攻撃を翼で身体を覆って受け止め、返すように羽根を矢のように射出してきた。


 だがその隙をアタシが逃さない。彼女は鹿島が構えると同時に天人の背後を取り、網状にメンタルフォルスを引き伸ばした。しかし網は天人の翼に触れた瞬間に切り落とされ、切った髪を翼に纏って針のようにして飛ばしてきた。


 舌打ちをしつつも彼女はそれを避けたが、髪針の延長線上には草野が転がっていた。だが彼は自分の蔓に括られかけながらもそれを躱し、目に光を取り戻して暴れ回る蔓を抑え込み始めていた。


 まるで御伽噺おとぎばなしのような人外同士の戦いに、青貝はその場に膝をつきながら悔しがる事しか出来なかった。何の能力も無い上に手負いの状態では、無意味に策を講じれば講じるほど仲間達に負担を掛けてしまう。


 青貝は痛む右のふくらはぎを見た。平野が穿った穴には今、純白の羽根が突き刺さっている。正確には〝潜り込んでいる〟に近い。


 結局この戦いに来た者らの中で、戦う術が無いのは自分一人になってしまった。負傷して満足に動けない事に加え、例え無傷でも何も出来なかったであろう疎外感が己を責め立てる。


「青貝、前見ろ!」


 鹿島が叫んだ瞬間、目の前に白い矢が飛んできた。青貝は歯を食いしばりながら痛む足を動かし、何とか右へと避けた。白い矢は地面を貫きながら、音も無く斜線を描いていく。


「ぼさっとすんな、アホガイ」


 そう言って鹿島は振り向き、にやりと笑った。まるでスポーツやテレビゲームで助けて貰った時の様な、押し付けがましくない笑みだ。


「……すまない鹿島。俺はまた、こんな時に限って役立たずだ」


 青貝は東雲天使が現れた時を思い出す。あの時も鹿島は自らを盾にし、命を犠牲にしてまで自分や他の学生を逃がそうとした。結果として自分も鹿島も命は助かったが、代わりに彼は心の安寧を永久に喪ってしまった。


 自分に力があればと、何度思い考えた事だろう。今の自分では彼の盾になる事すら出来ない。後悔に打ちひしがれていると、鹿島は目を鋭くさせて見返した。


「例え糸を紡げなくても、お前にはお前の強さがある。バカは俺一人で間に合ってるんだから、今は生き延びる事だけを考えろ!」


「鹿島……」


 言いながら鹿島は、拒絶するような冷たい瞳を寄越した。前を向き直した彼はそのまま天人を睨み付け、二度と自分を振り返らない。


 だが青貝にとって、今はそれが嬉しかった。一度は絶望して死に向かい、二度目の死が迫っても尚、こいつは自分を信じてくれている。


 青貝は両手で頬を叩いた。バチッという破裂音が、黴臭い建物の中にこだまする。

ここで突っ立っているだけでは、それこそあの男の言う通り塵以下だ。俺には俺の、やれる事を探す。


青貝はアタシを見つけると、彼女に向かって叫んだ。


「アタシ! 君は能力を飛ばす事は出来るか?」


「え?」


「相川君やその野郎みたいに、弾丸みたいに飛ばせるのか?」


「や、やろうと思えば出来るけど──」


「ならこっちに来い、今直ぐにだ!」


 平然とした表情を保っているが、アタシは明らかに疲弊している。連戦に続く連戦による身体的な疲弊もさる事ながら、精神を掻き乱してくる未知の存在に力が入り過ぎているのだろう。


「動きが雑になってきている。一度離れて体力を戻しつつ、遠距離で攻撃を加えるんだ」


「……分かったわ」


 アタシは天人に伸ばしていたメンタルフォルスを引っ込め、青貝の近くまできた。


「四曲”〝天羽々矢あめのはばや〟」


 アタシはメンタルフォルスの糸を弓矢の形に纏め上げると、照準を天人に向けた。


「手や翼は狙うなよ。鹿島と同じ場所を狙え!」


「分かってる!」


 射出された彼女の黒い矢は音も無く空間を裂きながら、天人の腹部を貫いた。初めてヒットしたまともな攻撃に、青貝は拳を握り上げる。


 だが攻撃を食らった筈の天人はまるでダメージを受けておらず、背後には彼女の黒い矢が壁に突き刺さっていた。思わず青貝が舌打ちをする。


「クソッ、透過も出来るのか!」


 攻撃に気付いていたのか、天人はアタシに対し憐れみとも侮蔑とも取れぬ笑みを零した。


「残念だったな、虫──」


 だがその隙を、鹿島は見逃さなかった。天人の不遜な笑みにアタシが屈辱を受けるよりも先に、彼はその笑みを消し飛ばす猛攻を加えた。連撃を食らった天人は勢いよく吹っ飛び、壁へと叩き付けられた。


「笑う暇があったか?」


「……チッ」


 青貝は友の姿を見た。蘇った友は誰よりも生き生きと戦い、ほぼ一人で天人と渡り合っている。天人が羽根を射出すればそれを見えない糸で弾き返し、逆に羽根を繋げて鞭のように振るい捕縛しようとまでしている。


 天人は今まで受け止め続けていた鹿島の攻撃に対し、初めて回避をした。今度はそれを見た鹿島が笑い返す。


「人間やイモムシの攻撃は無力化出来ても、俺や自分の攻撃はそうはいかないみたいだな? 他者を拒絶し否定する癖に自分の事は都合の悪い事すら受け入れる、自己愛の塊だ」


 鹿島の言葉に、天人は笑みを消して彼を見る。それを見た彼は再び笑い、青貝らを見た。


「アタシ、青貝。そこらに突き刺さってる羽根を使え! それならダメージを与えられる!」


 その言葉に天人の眉がピクっと動くのを、鹿島は見逃さない。


「どうした、お気に入りの顔が歪んできているぜ。天使様は美しいのが取柄なんだろ。美術館行って見直して来たらどうだ?」


 鹿島の煽りに対し、天人は忌々しそうな顔を浮かべる。状況としてはこちらが優勢になり始めたが、青貝は彼が生き生きと戦えば戦う程に彼の事が心配になる。


 長い付き合いだから分かる。アンデスを失った影響かそれともイモムシとなったからか、今の彼は天人が襲来した時や親しい友人達が失われていった時の、悲しみと抵抗の影が蘇ってきている。今の鹿島は人間である事を辞め、新しい自分へと羽化しようとしているかのようだった。


「……面倒だ」


 天人はそう言うと、背後へと一気に後退した。退却したのかと思ったがそうではない。天人はボソボソと何かを呟くと、浅黒く焼けた胸元から棒状の柄が生えてきた。


 突き抜けてきた柄を握ると、天人は一気にそれを引き抜いた。引き抜かれたそれは槍のようにも見えたし、王様や教皇が持つ錫杖のようにも見えた。先端に鋭利な棘が四本並び、その間をイバラに似た紐状のモノが巻き付いている。


「何なのあれは、槍?」


 息を切らしながら見上げるアタシに対し、鹿島は目を細めながら言う。


「あれは槍じゃねえ、だ。先っぽに巻き付いている茨に文字が書いてある。あれもまたアカシックレコーズとやらだろう」


「まさか貴方、〝あれ〟も読めるの?」


「ああ。……胸糞悪い事が山のように書かれてるよ」


 鹿島の言葉に、天人はクツクツと嗤う。


「俺の持つアカシックレコーズには、あらゆる人間の〝苦痛の情報〟が記されている」


「苦痛の、情報ですって?」


「そうだ。この世に生きてきた全ての人間、そのそれぞれが経験した全ての苦痛がコイツに記録されている。こいつで突けば人間がどうなるか、試してみるか?」


 その言葉に平野や草野の姿を思い出したのか、アタシは一歩後ろに下がった。天人はそれを見逃さず彼女に糸巻きの矛を向けたが、彼女を守るべく走り出した鹿島を見て酷くつまらなそうな顔を浮かべた。


「……いや、やっぱり気が変わった」


 そう言った瞬間天人は顔をアタシに向けたまま、どこかへと糸巻きを投擲した。投擲された苦痛は尾を引きながら、天人の手から離れて行く。


 その光景を見た青貝は、直ぐに周囲を見渡した。あの速度では建物の壁ごと突き抜けていきそうな勢いだが、建物のどこを探しても崩壊している場所は無い。


 だが青貝はその考えを振り払う。相手があまりにもクッキリとしていて忘れかけていたが、天人はそもそも自分達とは次元が違う存在なのだ。先程のように対象を貫きつつも、物体を透過していてもおかしくはない。


 焦った青貝はまず鹿島を見た。彼の現状は心配だが、この場で最も欠かせない人間が彼なのも事実だ。彼が居なければこの戦いに勝つ事は出来ないだろう。


 幸いにも鹿島は無事だった。身体のどこにも傷は無く、間抜けな目線だけが青貝と合った。


 次にあの天人の言葉はフェイクの可能性を考えて、アタシの方を見た。この天人が何を目的としているかは分からないが、人間の常識と心で考えれば最底の性格なのは間違い無い。騙し討ちの一つや二つは平気で出来る心は持っているだろう。


 幸いにもアタシは無傷とは言わないが大きな怪我も負わず、呼吸を荒らした目が自分と合った。


 となると危ないのは、身動きの出来ない草野さんだろう。見ると彼はどうにか蔓を制御する事を可能にし、今は盾のようにして蔓を纏めていた。飛来する糸巻きを警戒したのだろうが彼の盾は貫かれる事も無く、今は自分に向かって何かを叫んでいた。


 そこまで見渡してから、青貝はふと思った。


 何かがおかしい。三人共さっきから、何故か自分を見つめている。鹿島は間抜けというよりも驚愕の表情を浮かべ、アタシは今にも泣きそうで、草野は狂気に近い表情だ。


 ふと思い浮かんだ可能性に、青貝は〝下〟を見るのが怖くなった。その可能性を自覚させるかのように、お節介なナノサイズの友の気配が身体の中からすっかり消えた。


 冷たい。全身がびっしょりと濡れている。体の底から沸き上がるこの懐かしい感覚を、自分は覚えている。アンデスによって封印されていた、幼い頃の記憶が蘇ってくる。


 ……嫌だ。俺は見たくない。下なんて見たくない。俺は前や上をだけを向いていたい。


 この感触は、この心は、この纏わり付く感情は!


「さっさと現実を見ろ、塵」


 天人の言葉に頭を押し込まれるようにして、青貝は自分の胸元を見た。


 胸には自分の身体を貫いた、糸巻きの姿があった。

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