(3)

「く、草野さん!」


 三人が駆け寄ると、草野はミシミシと蔓の音をたてながら首を傾けた。


「よう、無事だったか。……あの女の子は?」


「斃したわ。それよりも貴方、どうしたのよ?」


「やられちまった。必死で戦ったけどまるで歯が立たず、不意打ち食らってこのザマだ」


 鹿島はアタシの肩を叩くと、彼が空けた天井の穴を指差した。穴からは六号館の窓が見え、その内の一つが外にカーテンを揺らしている。それを見て草野が枯れた声で笑う。


「五階建ての一番上から叩き落とされたからな。幸か不幸か全身を蔓が簀巻きにしたせいで助かったが、どのみち俺はもう終わりだ」


 草野の蔓は彼の全身を包み込みながら、今もまだ脈動を続けていた。艶やかに輝く緑の蛇のように伸びた蔓は、ゆっくりと彼の顔の方へと向かってゆく。


「俺は間もなく死ぬ」


 何の抑揚も無く草野がそう言った瞬間、青貝は有無を言わず跪いて蔓を毟り出した。靭性の強い蔓は彼の腕力を拒み、嘲笑うかのように伸び縮みする。


「無駄だ。この蔓はもう俺のメンタルフォルスじゃない。殺しそびれた俺をもう一度殺す為に現れた、俺のトラウマの具現化にすぎない」


「でも、だからって……」


 蔓は決して手を休める事無く、胸元まで伸びて来ていた。残された猶予を察したのか、彼は一つ息を吐いた。


「能力があれば何でも出来ると思っていた。能力があったから自分に自信が持てた。皆を見返したくて生きてきて結局死に損なってメンタルフォルスの糸を得たが、それでも良かった」


 そう言って一息吐いた途端、だらしない笑みを浮かべていた草野の口がカチカチと鳴り始め、小刻みに震え始めた。


「でもあの男は、あの野郎はそんな俺を見て憐れんでいた。あいつには人のトラウマを見抜く力がある。能力は全く通じず、その上であんな奴が憐れみを寄越したのを見て、俺の心は折れてしまった。奴に憐れまれ、この力まで否定されちまったとなったらもう……」


「何言ってんだ!」


 青貝はそう言うと、また両手を血で染め上げながら蔓を引っ張り回した。指という指に蔓を絡ませてもがき、掌に力が入らなくなったら爪を立て、爪が剥がれれば歯を立てて食い千切ろうとする。


「今までずっと戦ってきたんだろう? その力のおかげで多くの人が救われてきたんだったらいいじゃないか。たった一つの命を救うのに、どれだけの力が要ると思ってんだ!」


 目を血走らせながらもがく青貝に、草野はふっと笑う。自然な笑みを浮かべて癒されたからか、巻き付いた蔓のスピードが少し緩む。


「君は凄いなあ。能力が無くても生き延びて、今でも諦めずに誰かを助けようとしている」


他人事ひとごとで言わないでくれ! 俺はな、助けられる人は何が何でも助けたいんだよ。この短い間に、俺の前でどれだけの人が死んだと思ってるんだ!」


「ごめんな、ごめんなあ。さっきから頭ン中で、兄貴が俺をそしるんだ。『俊平しゅんぺい、お前はどこまで無知で無価値でいられるんだ? 今後の為に、兄さんにそのデータを取らせてくれよ』ってな」


「……データ?」


 草野の呟いた一言に、初めて鹿島が反応する。


「俺の兄貴は、アンデスの開発者の一人だったんだ。高学歴高収入の兄貴は多くの人間を救い、英雄にまでのし上がった。かたや俺は家族の中じゃ出来損ないで、三浪した挙句フリーターになって、必死に働いても兄貴の飲み代にもならない低賃金な自分にうんざりして樹海で自殺するような男なんだ」


「だったらその兄貴を見返せよ! 見返して、一発ぶん殴る為に生きればいいじゃないか」


「頼むよ青貝君。もうさ、俺疲れたんだよ。頼むから、希望を見せないでくれよ。希望は辛いんだよ。あの男の言う通り俺は生きてても死んでても変わらない、虫ケラのような存在だったんだよ」


 そこまで言った瞬間、鹿島は草野に向かって掌を合わせた。それを青貝が誤解するよりも先に、彼は再び銀色の鋏を召喚した。


 初めて見るであろう光景に、草野は死の間際でも驚きを隠せず目を見開かせた。鹿島は鋏を一閃すると、彼を蔓から解放した。千切れた途端に狡猾な蛇のように巻き付こうとする蔓に、刃を突き立てて動きを止める。


 もがく蛇を見下ろしながら、鹿島は言った。


「青貝の言う通りだ。あんたは悪くない。あんたは死への欲望に打ち勝って、兄貴の尻拭いの為に戦ってきたんだ」


「俺が、兄貴の尻拭いだって?」


「……なあ皆。人間の身体から〝糸〟が出てくるのって、普通なのか?」


「え?」


 突然の鹿島の言葉に、三人は押し黙る。


「旧時代にこんな事があったか? 身体から物質が飛び出て死んだ人間が一人でもいたか」


「そりゃ確かに、旧時代にはいなかったが」


「旧時代には一人として起きなかった事が、何故今になって全人類に起きている? 何故人間の身体から『荒縄』や『映画のフィルム』なんかが飛び出てくる?」


「それは、だから……」


 そこまで言いつつも、誰も答えられない。それは三人にとって、常識への疑問だったからだ。「何故人を殺したら悪いんですか?」や「何故人が活動している状態を『生きている』と言うのですか?」のような、答えの必要が無い質問だった。


「そうだ。旧時代を超えて、俺達はみんな間違えさせられていたんだ。新人類だけでなく旧人類ですら常識と定説で無意識の域にまで侵入され、そこへ抜群の効果を産み出すアイテムがあった」


「まさかそれって……」


「対・十次元極地支配概念状生命体精神汚染攻撃防護兼、自律神経失調予防プログラム細胞『アンチ・デストルド・システム』。アンデスこそが、俺達の意識を無意識にしていたんだ」


 そこまで言った後、草野が口を開いた。


「何故君はそれを……」


 そう言った途端、鹿島は切なそうな笑みを浮かべた。青貝はこの顔を知っている。あれは彼が申し訳なく思う時の、後悔の顔だ。もはや口ではどうしようも無くなるくらいに謝りたい気持ちが溢れ出ると、友はいつもこの顔を浮かべていた。


「あんたの兄貴は開発者だったらしいが、当然上には上がいる。アンデスの開発に関わった中心人物の名は、鹿島不動ふどう


 その名前を、青貝は久しく耳にしていなかった。物心ついた時から知っている存在であり、自分と同じくあの災厄によっていなくなってしまった内の一人。


「俺の父親だ。世界に蔓延るアンデスは、俺の親父が考案したモノなんだ」


 鹿島の告白に、三人は黙るしかなかった。



 鹿島はそっと目を閉じた。自分でも知らなかった、アンデスによって意図的に封印されていた幼き頃の日々が蘇る。


 父は警察官だった青貝の父と同じく、人々の幸福を願っていた。四十をとうに越え酸いも甘い知った年代である癖に、真面目に世界平和を標榜ひょうぼうにするような稀有な存在だった。


 だが意識を以って人々を統率しようとする青貝の父に対し、不動は無意識を以って人々を統率しようとしていた。清濁塗れるヒトの感情を薬物や機械で強制的にフラットにするのではなく、清濁を共有し合い平均化する事によって得られる平凡の平穏。


 それこそが、現行するアンデスの基礎となる理論だった。


「だがそんなもんは所詮、机上の空論だ。親父もそんな空想理論を纏めただけで発表もする事無く、天人の襲来時に死んだ。それが何故かアンデスとして実現し、世界にバラまかれている」


「お前は、親父さんがアンデスの開発に関わっていた事を知っていたのか?」


「知る訳無いだろう? 俺は中学生チューボーにもなって親父の職業も詳しく知らなかったくらいだ。どっかの高校だか大学の教師だと思っていたよ」


「それなら何故それを?」


「平野の体内から出てきた石ころがあっただろ? あれに書いてあったよ」


 青貝とアタシの中に、砕け散っていった結晶のイメージが映る。それがあった場所にも目をやったが、今では床の亀裂以外に何も残っていない。


「あれに書いてあったって、どういう──」


 アタシが言い切るより先に、四人はそれに気付いた。地に伏せていた塵が空へ舞い、否が応でも身体を強張らせる。


「これはまた、厄介な奴が出てきたな」


 その声は最初の時と同じく、そよ風のように自然と割り込んできた。鹿島を除いた三人は後ろを振り向くが、先ほどとは違って声の主の姿は見えない。


「三人共、上だ」


 忌々しそうに鹿島が言うと、三人は小さな空を仰いだ。ぽっかりと開いた穴に広がる空の景色は、人類全員で共有する事になったトラウマを呼び起こす。


 男は草野が落ちて来た穴から、ゆっくりと降りて来た。砂の一粒まで労るかのように音も無く着地し、先ほどとは違う鋭い眼差しで鹿島をめ付けた。


「お前、アカシックレコーズが読めるのか?」


「アカシックレコーズ?」


「あの結晶に刻まれていた文字列だ。普通の人間にはただの亀裂にしか見えん」


 男の言葉に、アタシはポケットからジュエリーケースを取り出す。平野の分は壊れたが、東雲から取り出した物は今もこうして現存している。男はそれを見て、大袈裟なため息をついた。


「貴様らは何度手に入れれば気が済む? それは人間如きが読んでいいモノじゃない。虫ケラの分際で、どんな手を使いやがった?」


「おい、アカシックレコーズとは何だ?」


 青貝がそう言うと、男は顔の向きも変えずに何かを飛ばして来た。右足に激痛が走り、不可視の攻撃が平野天使に穿たれた傷を広げる形で撃ち抜いた。


「あ、青貝!」


チリ風情が口出しすんじゃない。それより貴様だ、答えろ。何故アカシックレコーズが読める?」


 男の言葉に対し、鹿島は面倒臭そうに口を開く。


「知らねえよ。目を凝らしたら文字の羅列が見えただけだ。親父の名前もそこに書いてあったに過ぎん」


 そう言うと男はフンと鼻で嗤い、身震いをした。


 身体を震わせた瞬間、思わず青貝らは跪いた。この世で最も跪きたくない相手に対し、青貝もアタシもまるで忠誠を誓うかのように膝をついてしまう。風でも地面でもなく、この世界自体が揺れたのかと思えた。


 男が背中から生やしたモノを見た瞬間、悔しくも青貝は身震いをしてしまった。男の背中には、紛うこと無き純白の翼が生えていた。天使らが糸を固めて作った紛い物ではない、白鳩のような無垢の羽毛がそこにあった。


「見えるか? あれがあいつの正体だ」


 地面に這いつくばりながら、息切れぎれに草野は言う。青貝もまた彼の言い分に納得する。あの忌々しい男の姿を見ると、頭の中で築かれたイメージが嫌でも「勝てない」と意識の奥に囁いてくる。紛い物ではない真に天の人と呼べる存在が、目の前に現れた。


「まあいい。どうせ下級天人のものだ。大した情報は載っとらんし、読めようが読めまいがお前ら全員殺して終わりだ」


「……やれるもんならやってみろよ、鳩野郎」


「言うじゃねえか旧新人類。感謝しろよ。紛い物ではない本物の天の遣いが、直々に神の元へ送ってやる」


 天人である男に対し、鹿島は睨み返して言う。彼だけは他の三人と違い、しっかりと地に足を付けていた。


 天人は翼を羽ばたかせると、建物の天井ギリギリまで飛び上がった。


「美しいだろう? 俺はな、三次元のこの姿を気に入ってるんだ。この統制の取れた顔、骨格、筋肉、声、そして両翼。全てが俺に相応しい象徴だ」


 飛び立ちながら純白の羽毛を散らす姿は、一種の絵画のようだった。認めたくは無いが、天人と化した男の姿は見とれる程に美しい。旧時代よりも前、紀元前から存在するフレスコ画を思わせた。


 思えば6号館に来た時に男の足跡が無かったのも、地に足を付ける必要自体が無かったからなのだろう。傲慢な性格からして、埃塗れの床に足を付けるのを嫌がった可能性すらある。


 鹿島は飛び立った天人を見上げると、今にも吐きそうな表情で床に唾を吐いた。


「悪いが俺の目には全然美しく見えねえ。そもそも天使の風体でツラが日本人ってのは気色が悪い」


「何だ、言うじゃねえか。死に損ないの分際で」


「事実を言ったまでだ。そんな絵画の猿真似よりも、俺は必死で生きようとのたうち回る奴の姿の方がずっと輝いて見えた。見てくれを気にする生き損ないの土鳩ドバト風情が、人間様の言葉をさえずるんじゃねえよ」


 平然としていた天人の顔が、みるみる内に怒りに満ちていく。それを見た鹿島は大きく息を吸い込むと、一気に思いを吐き出した。


「鳩狩りだ! 全身全霊で奴を殺すぞ!」


 その言葉を皮切りに、最後の戦いが幕を上げた。

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