(1)

「鹿島、鹿島ァ! 死ぬな、お前まで俺を置いていく気か!」


 鹿島の身体に纏わりつく透明な糸を、青貝は必死に毟り取ろうとした。透明な糸は強度を以って彼に襲い掛かり、指は出血して爪が剥がれ落ちた。


「駄目、青貝! 無理に繭糸を剥がしたら──!」


「うるさい、うるさいっ!」


 青貝の取り乱し方は尋常ではない。それでもアタシは決して平野天使には隙を見せず、凛とした姿勢で向かい合った。


 一目見ただけで分かる。彼女の糸は単純なようでいてかなりの素早さと強度、そして膨大な量を持ち合わせていた。忌々しくもあの男が言っていたように、尋常ではない怪物が孵化してしまったらしい。


 アタシは黒髪を細い針のように一点に纏めると、それを平野天使に向けて伸ばした。


「三曲〝網手繰あみたぐり〟」


 束ねた黒髪が細く尖り、彼女の口へと向かって行く。どんな天使であろうとも肉体は三次元の人間製だ。体内へ侵入して筋線維をズタズタに引き裂けば、全ての天使は嫌でも動きを止める。


 だが平野天使の肉体に、彼女のメンタルフォルスの糸は通らなかった。口元へ届くより前に、透明な鎧を纏っているかのように見えない何かに弾き飛ばされた。


 跳ね返された黒髪を引き戻しながら、アタシは舌打ちをする。


「多彩に色を変え、決して切れず見えない糸。そんな物質、常識じゃ考えられないわね。……最悪だわ」


 アタシは引き戻した黒髪を青貝に向けて伸ばすと、目にも止まらぬスピードで包み込んで引き寄せた。鹿島から離された青貝が吼える。


「何すんだよ、このままだと鹿島が!」


「黙れ!」


 青貝の言葉に、アタシは一喝する。


「……逃げるわよ。一枚羽といえども、この天使は私の手には負えない。せめて草野さんと合流して、対策を練りましょう」


「合流って、どうすんだよ! 鹿島を置いていくのか? あっちにはあの野郎もいるんだぞ」


「分かってる! 分かってるけど……」


 アタシは唇を強く噛んだ。今は青貝の言葉の全てが癪に障る。


 だが何より今は、自分に力が無いのが悔しかった。平野を止められず、救う事も出来ず、仲間の一人をみすみす繭にしてしまった。アンデスと天人、何より己の存在を憎んで鍛錬を積んだ筈の能力は、産まれて間もない彼女に為すすべが無い。


「この天使には勝てない。あの糸は私の知ってるどれとも違う。自然物ガイアでも無機物ミネラルでも自己物マインでも現象物フェノムでも無い概念の糸。夢幻むげん系のマルチタイプよ」


「マルチ、タイプ?」


「名の通り常識外の糸よ。彼女は自然災害でも天人による攻撃でも無く、〝世界の理不尽〟とでも言うべきモノに縛られていた。そこに天人が彼女の中に入り込んで、あの最悪な糸羽を紡いでしまったのよ」


「理不尽って……。じゃ、弱点は無いのか?」


「そんなの知ってたらとっくにやってるわよ! でもマルチタイプなんて、私は戦った事無い。〝概念〟を相手に何が出来るって言うのよ?」


 アタシの諦めの言葉を嗤うように、平野天使は微笑みを浮かべた。友だった歪が携えたそれに対し、青貝の中に強い感情が沸き上がる。


 恐怖だった。死への恐れと、強い後悔。もっと彼女と話をしていれば、自分が子供じみた正義感など振りかざさなければ、きちんと対策を講じていれば……。全ての感情が青貝の心に降り注ぎ、全てが自分を否定していく。


 体の中で何かが巡る感触がした瞬間、アタシは青貝の頬を強く打った。


「……もう約束を忘れたの?」


「え?」


「貴方は私を助けてくれるんでしょう? 私だって貴方を最後まで見捨てない。今はどんなに辛くても、何としても生きるの!」


 見ればアタシの首元に、数本の黒髪が巻き付いていた。彼女もまた自分と同じように、心に闇が迫ってきている。例え自分とは違う不可思議な能力を持とうとも、心はまだ十代の少女なのだ。


 青貝は自分の顔を両手で打つと、蝕んでいた恐怖を追い出した。散らばりながら身体を巡っていた何かが凝り固まり、どこかへと収まっていく。


「……すまなかった。君が居なければ、俺まで死を求めてしまっていた」


「分かればいいの。だから今は──」


「いや」


 青貝は一つ、大きなため息をついた。ため息とは心の呼吸であり、精神を整えるリズムである。友はいつだってこうして息を整え、新たな道を見つけて歩んでいた。


 だがその友ももういない。もういないのだ。それでもいないならいないなりに、前を見て生きるしかない。


「向こうでは草野さんが戦い、合流しないように食い止めてくれている筈だ。あの野郎は彼女が厄介な羽化をしたのは知らないから、わざわざそれを知らせてやる必要は無い」


「じゃあどうするの?」


「決まってる。俺達で彼女をたおす。現に俺はもう、覚悟を決めた」


 そう言うと青貝は立ち上がり、アタシが止めるのも聞かずに平野天使の背後に回った。ピシピシと鞭を打つような音と共に鞭撃の痕だけが追いかけ、彼女の糸が不可視の存在である事が分かる。


「五分、いや一分でいい! 彼女の動きを止めてくれ!」


 青貝はその場に立ち止まり、彼女の姿を凝視した。彼の様子に慌てながらもアタシはメンタルフォルスの糸を最大限に伸ばし、不可視の糸ごと平野天使を捕縛した。


「ぐっ……。何考えてるか知らないけど、長くは持たないわよ!」


「それでいい! その間に彼女の糸の正体を見極める」


「はぁ? 貴方正気?」


 捕縛した髪がどんどんと解けていく中で、青貝は天使の羽を凝視する。ガラスにも陽光にも反射せず、ちりの流れとひりつく感触でしか判断の出来ない不可視の糸。確かに常識では考えられない、概念や抽象に近い存在だ。


 だが自分には分かる。概念とはつまり彼女が想えるモノであり、先人達が紡いできた歴史と意志の結晶だ。神話、伝承、お伽噺、例え話、あらゆるフィクションに隠語や俗語も踏まえて、彼女が求めたモノを探り当てるしかない。文学部の自分なら出来る。出来ると信じる。


 一つだけ、先程の攻撃で気付いた事があった。平野天使の攻撃は、何故かアタシには向かっていない。鬱陶しそうに払い除けたり抵抗する程度の攻撃はするが、追撃まではしてこない。それでいて鹿島や自分には、キッチリと致命傷を与えようとしてくる。


 彼女と自分達の違いは何か。そうなると嫌でも分かってしまう。彼女が死の間際に求めたモノの存在が、悲しい程に頭の中で答えを紡ぐ。


 青貝は再び平野天使を回り込むと、あるモノの裏に回り込んだ。ブチブチと嫌な音をたてながらアタシの髪が解けると、天使はやはり彼女を無視してこちらを見た。


 平野天使は防御の遅れたアタシへの追撃をせず、飛翔するかのようなスピードで青貝の元にやって来た。思った通りだ。彼女は今、自分の事しか見ていない。


 青貝は悲痛に自分の名を叫ぶアタシを無視しながら〝それ〟に手を突っ込んだ。それを指の間に差し込むと、向かって来た平野天使の胸元に突き刺した。


 瞬間、平野天使が小さな悲鳴をあげた。青貝が突き刺したのは、鹿島の繭から引き千切った彼の糸だった。


 思った通りだ。彼女の見えない糸の正体は〝理不尽への怒り〟なんかではなく、人と繋がろうとする〝切なる思い〟が具現化したものだ。それがこんな形で現れるのが複数の天人の魂に弄ばれたが故なのか、彼女の底の底に残った人間性故かは分からない。


 だがそうでもなければアタシの攻撃が効かない、彼女を受け入れない理由も説明出来ないし、自分や鹿島だけを自分達の世界へ連れて行こうとする理由も分からなかった。


 青貝は目の前にいる平野天使を見つめた。今なら分かるが、今となっては遅かった。


 糸を巻いた青貝の拳は、しっかりと天使の胸元に突き刺さった。これは彼女が求めた男の肉体から出来た糸だ。針のように硬質な糸を指に挟み込んだ拳は、彼女の肉体の心臓部分に抉り込まれている。


 平野天使が悲痛な声をあげる。その声に思わず緩みそうになる拳を必死で押し込みながら、青貝は涙を流した。掌から彼女の鼓動を感じない事が、今は何よりも辛い。


 なあ平野さん。君があいつの事が好きだったのは、俺もとっくに気付いていたよ。あいつが君と俺をどうにかくっ付けようとした時、君が強い裏切りと悲しみを負ってしまった事にも俺は気付いていた。でも俺は自分が傷付きたくないが故にそれを無視して、更に君を傷付けたんだ。


 俺達は今日、君を二度殺した。俺達は傲慢と鈍感の両刃で、手前勝手に君の純情を弄んだのだ。あいつの罪は俺にもある。


 でも、今の今まで気付かなかった。あんな事があって避けるようになった後でも、君は俺に対してもまだ友達だと、一緒の世界に来て欲しい存在だと思ってくれていたんだ。


 本当にごめん。俺は君を絶対に忘れない。君が伸ばした糸は、俺が世界に繋ぎ止める。


 声を枯らした平野天使の身体から拳を引き抜くと、青貝は倒れていく平野の身体を見た。倒れた彼女は肉体を蒸発させる事なく、眠った少女のようにその場に伏せた。


 青貝は少女の身体に手を合わせると、背後にいるもう一人の友を見た。今や友の身体は完全に繭に包まれ、身動き一つしなくなっている。


 様々な思いが溢れ出ようとするのを、青貝は強い意志で堪えた。こいつの為に泣くのは後だ。彼の為の涙を流すには、あまりにも時間が無さ過ぎる。


「青貝?」


 アタシはメンタルフォルスの糸を戻すと、労るように青貝に話しかけた。


「これなら効くと思っていた。俺の作戦、成功だったろう?」


「ええ、そうね。……大丈夫?」


「ああ、だい──」


 そこまで言った瞬間、青貝の右足に灼熱が走った。ふくらはぎに弾痕のような穴が穿たれ、そこから血が流れ始める。


「あ、青貝!」


「グッ……、な、んで?」


 背後には斃した筈の平野天使が立っていた。攻撃は確実に彼女の心臓部分に叩き込んだ筈だ。心臓を一突きする程度では足りなかったのか?


 だが平野天使のはだけた胸元からは、笑い飛ばしたくなるくらいにふざけた代物が見えていた。


「ハハ、アホか。って……」


 青貝の命と精神を懸けた渾身の一撃は、彼女の見栄によって阻まれていた。胸元には確かに穴が空いていたが、天使を殺すには僅かに距離が遠かったらしい。


 風を切る音が聞こえ、流れから動きが伝わる。平野天使は不可視の糸を伸ばすと、それを青貝に向け始めた。


「そういやあいつ、いつも言っていたな。『俺は巨乳が好きだ』って。……ったく」


 青貝は来るべき死を覚悟し、そっと目を閉じた。元は男の見栄で彼女を死に追いやったようなものだ。女の見栄で殺されるのも致し方ないのだろう。遠くでアタシが何かを叫んでいたが、その声ももう届かない。


 風が高速で切り裂かれた音が聞こえる。不可視の糸が自分の首だか頭だか心臓だかに向けて発射されたようだ。


 死は頭の直ぐ後ろにまで迫っていた。青貝は平野天使から目を背けると、目の前にある繭に包まった友を見た。


「なあ鹿島。やっぱり俺は、お前みたいにはなれないや」


 だがその音は、途中で何かに阻まれた。風の切れる音が止まり、舞っていた塵がゆっくりと地に落ちていく。いつまで待っても訪れぬ〝死〟に痺れを切らせた青貝は、そっと目を開いた。


 開かれた目は、更に大きく見開かれた。


 そこには、今まで飽きる程に見た男の背中があった。この不条理で理不尽な世界に産まれた時からの腐れ縁で、いつでも自分を「アホ」と呼び、お返しに「バカ」と呼び返し、絶対に負けたくないと思いつつも負けを認めていた、大切な友達。


「英雄の代返まで頼んだ覚えはないぞ、アホガイ」


 鹿島優が、そこに居た。

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