(7)

 男はクツクツと不気味に嗤うと、のた打ち回る平野を愉快そうに見た。


「あれは『天使の肉』なんてご大層なモンじゃない。十次元の住人に肉体は存在しない。あれは天人の魂を詰めて固めただけの、ただの石ころだ」


「て、天人だと?」


「東雲から取り出したのは、お前らも持ってるだろ? あれは概念に近い十次元人、お前らの言う天人を三次元に格落ちさせる為の道具だ。言うなれば一種の檻であり、堕天だな」


「堕天って何だ。お前は何を言ってるんだ?」


「それよりも貴方、いま東雲さんの事言ったわよね? まさかあの子も……」


 アタシの言葉に対し、男はまたクツクツと不気味な声で嗤う。


「ああ、そうだよ。俺が彼女を天使に変えた。お前らが望んだ黒幕であり、張本人だ。あいつは俺に振られて相当ショックを受けていたからな。別れのキャンディにプレゼントしてやったんだ」


「な……」


 言葉を失うアタシに対して、男は笑みを浮かべ続ける。人を心の底から見下した、人を傷つける為だけの下衆な笑顔だ。


 突然の告白に呆気に取られる彼女の脇から、一つの影が飛び出した。


「全部、アンタがやった事なのか?」


 震える拳を抑えながら、青貝は尋ねる。


「俺には何が起きてるかも分からない。アンタが何者かも知らない。だが東雲さんが死んだのも、水谷教授がバケモノになったのも、平野がいま苦しんでいるのも! 全部お前のせいだっていうのか?」


「ああ、そうだとも」


「何だってそんな事を!」


「さあな。神様に訊いてみたらどうだ?」


 そう言って嗤う男を見て三人は本気で殺意を沸かせたが、男はそれを制止して苦しみ続ける平野を指差した。その様子からはもう、彼女が自分の恋人であった事実など微塵も感じられない。


「今は俺より先に、彼女を見た方がいいぞ。東雲のとは違い、アレが呑み込んだのには複数の天人の魂が入っている。繭が中々出来ないのもそれが原因だ」


「何だと?」


「分かりやすく言おうか? 今アレの心の中では、複数の下級天人達が蠢いている。天人は絶望などしない代わりに、この世界では肉体が無ければ活動出来ない。今アレの中では肉体の主導権を握る為に、寄って集って彼女の意識を凌辱しているんだよ」


 腸が煮えくり返るような言い草に、三人が激昂して男に攻撃した。アタシの黒髪は津波のように襲い掛かり、草野の蔓は四方八方から突撃し、青貝は拳を固めて殴り掛かった。


 だが男は全ての攻撃を難なく避けた。アタシの髪は男の背後に突き刺さり、草野の蔓は軌道が逸れ、青貝は無様に壁に突っ込んだ。


 攻撃を加えなかった鹿島だけは、その時の状況に気付いていた。見間違いで無ければあれは躱したのではなく、


「お前は」


 鹿島は平野の元から離れると、男の前に立った。


「お前は何の為に、こんな事をした?」


 男は立ち上がる鹿島を見て、初めて表情を変えた。最も絶望に近い筈の鹿島の物言いが意外だったのか、つまらなそうに口を開く。


「ただの興味だよ。一つの天人の魂からでは人の未練を武器にした雑魚天使しか産まれず、せいぜいそこらの人間を天使に変えるしか能がない。だが複数の魂を叩き込んだ場合は天人としての力を備えているかを、試してみたくてな」


「そうか、だったら最後にもう一つ答えろ」


「何だ?」


「お前は彼女を、平野愛里を愛していたか?」


 男の目は強気に溢れていたが、決して見離さずに言う。授業の時に彼の目を逸らしてしまった事が心の底から悔やまれる。相手が得体の知れない存在である事は百も承知だが、今はそれ以上に大事な答えがそこにある。


「……ああ、愛してたよ。見ていて滑稽で笑えたし、


 その言葉を切っ掛けに、鹿島の中で何かが音を立てて捻じ切れた。


 殴り掛かろうとする鹿島を引き留めたのは、草野だった。止めたのは彼の生み出す蔓ではなく、煮えるように熱くなった彼の右腕だ。


「……お前が人間だか天使だかはこの際どうでもいい。この世に実害しか生まないお前は、俺が殺す」


「乱暴だねえ。それはお兄さんの影響かな?」


 男の言葉に草野は一瞬目を見開くが、直ぐにそれを鋭くさせる。


「場所を変えよう。ここでは邪魔になる」


 その言葉に頷き草野と共に去ろうとした男は、去り際にわざとらしく「あっ」と言って鹿島の方を振り向いた。


「言っておくが、はもう助からないぜ? 例え俺が死のうが悔い改めようが、確っ実に助からない。今ならそこらの煉瓦で頭を砕けば殺せるだろうが、そうなると死体は残るからお前らの内の誰かは殺人罪でしょっ引かれるだろうな」


 殺人という単語が、鹿島と青貝の胸に響く。殺人なんて新時代においては滅多に起こらない現象だ。旧時代と比べて厳罰化が進み、する奴といえば旧人類の武闘派やらアンデスが壊れて錯乱した連中など獣に等しい連中だけだ。


「だが犯罪以前に、お前らに出来るかな? そいつはまだヒトだ。精神を滅茶苦茶に犯されてはいるが、まだヒトである事に変わりはない。断言してやるけど、お前らにヒトは殺せない。」


 限界まで神経を逆撫でする男の口調は、残された三人の心に嫌でも刻みついた。もはや殺意を以って睨むのがせめてもの抵抗でしかない。


「……何が言いたいの?」


「タイムリミットはすぐそこだ。お前らはナイフを持とうが銃をハジこうが糸を生やそうが、最後の最期まで人間である事を辞められない。やらなければやられて死ぬ状況になっても、最期まで人間性を棄てる事の出来ないクソみたいな人間中毒者ヒューマジャンキーなんだ!」


 そう言うと男はさっさと外へと出て行ってしまい、激昂した草野がそれを追って行った。


 残された三人は苛立たしさを感じつつも、苦しむ平野を見た瞬間には全て消えていた。例え彼女が罪を犯していたとしても、どうにかして彼女を救ってやりたい。それだけが三人に共通していた切なる想いだ。


 最初に口を開いたのはアタシだった。


「私がやるわ。私が罪を背負う」


 そう言う彼女の言葉に、青貝が引き留める。


「馬鹿な、君にはアンデスが無いんだぞ! 殺人なんて負荷に君は耐えられるのか? それに君一人に重い罪を背負わせる事なんて……」


 青貝の言葉に少女は目を逸らす。今まで彼女が天使を屠れたのも、全ては人間と明確な線引きをしていたからなのだ。それが崩れてしまうとなると、彼女はより重い罪と罪悪感に潰されてしまうだろう。


「やっぱり俺が──」


「いや」


 青貝の言葉を、鹿島は遮った。


「俺がやる」


 鹿島の言葉に、今度は青貝が立ち塞がる。


「バカ、お前には無理だ! お前だけは彼女を殺せる訳が無い! お前だって本当は知ってたんだろう?」


「知ってたって、何が?」


「それは、その……」


 口を濁す友の様子を見て、思わず鹿島は小さく笑みを零す。こんな状況でそんな〝照れ〟を出す奴があるか。そんな事を考えると、僅かにだが心が安らいだ。


 だがそれでいい。お前はそれでいい。それが俺の友人であるお前、青貝繋一なんだ。


 だが鹿島優はここまでだ。


 これから俺は、地獄に堕ちる。


「彼女は殺さない。だがこのまま放っておけば、どんな怪物が産まれるかも分からない。となると方法は一つだ」


「一つ?」


「まだ人の声が聞こえるうちに、彼女を自縊死させる。天人の魂によってではなく、自らの意志で死にたくなるまで彼女の精神こころを追い詰める。こればっかりは俺にしか出来ない」


 話を続けようとする青貝を無視し、鹿島は平野の前に立った。嘲るように彼女を見下ろし、侮蔑を込めた目で睨む。


『か、かシ……』


 辛く助けを求めるように伸ばす彼女の掌を、鹿島は払い飛ばした。


「うるせえよ」


 一つ息を吐いてから、鹿島はそれを爆発させた。


「この際だから全部言ってやる。初めて会った時からな、お前の事が気持ち悪くてたまらなかったよ。誰にでも股開く安い女みてえな姿に、ダラダラと無駄に伸ばした髪! 女だからとか初期型アンデスを持ってたからとかじゃなく、生理的にお前という存在が無理だったから距離を置いたんだよ俺は!」


 鹿島の言葉に平野だけでなく、頭の中のアンデスもまた生きようともがき始めた。


「しかも何だ、あの気色悪いアンデスは? 首にケツの穴でも付いてんのか、ああ? 体しか価値の無い女の癖にあんなもん取り付ける事に抵抗なかったのか? お前の言う通りありゃ人間じゃねえよ。女としてのお前は死んだんだよ。半端に人間の姿で俺の周りを歩き回るだけでなく、友達面して話しかけやがってよ。分かるか、傍に立たれる俺の気持ちが? それが分からない程、お前は最低だったんだよ!」


 血を流す覚悟で目元に力を入れ、流れ出ようとする塩水を食い止める。平野は少しずつ暴れまわるのを止め、落ち着きを取り戻した。その落ち着きが何を指すかも分かる。


 鹿島は最後に一つ大きく息を吸うと、一気にそれを吐き出した。


「お前に友達だと思われたのは、俺の人生最大の屈辱だ。お前のせいでどれだけの人が犠牲になった? お前は生きる価値も無い。誰もお前を愛したりはしないし、俺もお前を愛さない。愛せる道理など何処にも無い。お前は天人が来た時に無様に生き延びたんじゃねえ。最初からお前は生きてちゃいけなかったんだ。産まれて来なければよかったんだよお前は!」


 言葉の力は恐ろしく強い。一度も思った事が無い言葉でも、一度口に出してしまえば自分の言葉として心に刻まれてしまう。現に鹿島はもう、全ての言葉は自分が本当に思っていた事のように錯覚し始めていた。


 鹿島の言葉に彼女は動きを完全に制止すると、肩から糸状の物質が出てきて身体に巻き付き始めた。生きたいと抵抗していた彼女の意識は、遂に絶望に身体を明け渡した。


 それは形容し難い、シンプルな線のような糸だった。塊に潜んでいた天人が溶けていくように七色に輝き、繭が胎動し始めた。


 七色の繭は少しずつ破れ始め、まるで鹿島の言葉を否定するかのように、彼女はこの世に二度目の生を受けた。


 平野愛里の意識、正確には平野だった天使が彼女の意識を紡ぐ。


『愛しています。まだあなたを愛してください。あなたの笑顔が大好きです。あなたの優しさが大好きです。愛の力。あなたのトーンが好きです。私はあなたを愛しています。それは痛いが、私は好きです。だから──』


「もういい!」


 鹿島は平野だった天使に向かって言う。天使の言葉は宿主の想いを適当に喋っているに過ぎない。これも全ては彼女の意識を適当に拾い集めた、ただの戯言なのだ。


 だがそうなら、それが正しいのなら、何故もっと複雑に喋ってくれなかった? 複数の天人の魂に蹂躙されても尚〝それ〟しか考えていなかったというのか? 折角耳を閉じたのにこれでは、お前が何を伝えたかったのかが嫌でも分かっちまうじゃないか。


 抑えきれなくなった鹿島は力を抜き、大きなため息をついた。糸が切れたように止め処ない涙が溢れ始め、口の中に塩味が流れ込む。


「お前の言う通りだよ。この世は苦しくて、理不尽で、残酷で、神様なんていないのかもしれん。例えどこかにいたとしても、俺達の事なんて一目すら見ていないだろう」


 平野天使は最後の人間性を保つかのように攻撃をせず、鹿島の言葉を聞き続けた。


「でもな平野、俺はまだ生きていたいんだ。俺は友のようにやりたい事や、やらなければならない事も何も無い。今となっては生きてる価値だって無いのかもしれない」


 鹿島は最後に息を吸い込むと、その気持ちを呼吸に乗せた。


「それでも俺は、まだ生きていたい。生きる為なら、お前とだって戦う」


 鹿島の言葉を聞き終えた平野天使は肩を隆起させ、七色だった糸を一色に染めて彼に突き付けた。


 針のように鋭い彼女の想いが、目の前に現れる。それを見た鹿島は、また大きなため息をついた。


「本当に、神様は悪趣味だ」


 鹿島の目の前に、赤い糸が伸びて来た。

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