(6)

「遅かったわね」


 遅れて来た三人を見て、アタシは言った。一階の首吊り煙突へと通じる扉の前で、不機嫌そうに片足をパタパタと動かしている。


「すまんな。……様子はどうだ?」


「磨りガラスだからよく見えないけど、さっきまで人の影が動いているのが見えた。体格からして女性である事は間違いない」


「とりあえず、行って確かめてみるしかないか」


 そう言って先陣を切ろうとすると、草野が先にドアノブを回した。先ほどの言葉が胸に響き、伸びてきた彼の手に触れるのを躊躇してしまう。


 扉の先は、鹿島や青貝の知らない空間だった。伸びきった雑草に、所々に落ちている煉瓦やコンクリートの残骸。念入りに清掃された学内とは違う乱雑に囲まれて、灰色にくすんだ首吊り煙突があった。


 間近で見る煙突は、細長い塔のようだった。頂上が粒のように小さくて遠く、くすんだ色合いが歴史を思わせる。これを遥か昔に学生が天辺まで登った事を思うと、どれだけ異質で手の込んだ自殺だったのかが分かる。


 四人は警戒しながら煙突の周囲を探るが、人の気配は無い。廊下から続いていた足跡も、砂利と雑草に阻まれて分からなくなっている。


 人影はどこへ行ったのかと思った時、青貝が「おい!」と声をあげた。


「こっちに何かあるぞ!」


 青貝が指し示した先は、ボロボロに朽ち果てたコンクリートの建物だった。風化した具合から見て、煙突と同時期に建てられたモノだろう。訝しむ三人を傍目に、草野が中を覗き込む。


「雰囲気からして、工場の跡地だな」


「工場?」


「アタシの話じゃ、ここは煉瓦工場だったんだろ? 昔は大学側も利用していたのかもしれないが、新時代では煙突と一緒にほったらかしにしているんだろう。前方からは6号館に隠れて見えないし裏は雑木林でスッポリ隠れてるから、殆どの学生が知らないんじゃないかな」


 鹿島も青貝も、アタシまでもが初めて見る大学の一面に目を奪われた。時と事情が違えば、世紀の大発見をしたかのような気分になれただろう。


 入り口の扉は両開き式になっていたが、今はどちらも閉まっていた。だが閉じているだけでチェーン等は掛けられていないし、明らかに風が通っている音がする。


「じゃあ、開けるか」


 草野はそう言うと、躊躇なく扉を開いた。開けた瞬間、強い埃とカビの臭いが鼻を突き抜けた。電気は途絶えているようだが、くすんだ窓から陽光が差し込んでいるので中はよく見渡せる。


 外観の威圧感とは打って変わって、中はそこまで広くは無い。正確には工場跡ではなく、事務や軽作業をする為の場所だったのかもしれない。錆び切ったスチール机や書類が埃を被りながら整列し、再び自分の役目が来るのを待っているかのようだ。


「誰?」


 その言葉はどちらが言った言葉なのか、咄嗟に判断が出来なかった。甘く柔らかい声色に戸惑っていると、建物の中心にいた人物がゆっくりとこちらに振り向いた。


 本当は鹿島も青貝も、振り向く前から分かっていた。その人物の服装、身のこなし、髪型、雰囲気。全てが自分の知っている人物と、忌々しくも合致していた。


「やっぱり来ちゃったのね、鹿島」


 平野愛里はそう言うと、教室で見せたのと寸分違わぬ笑顔で鹿島らを迎えた。



「どうしてだよ!」


 そう叫んだのは青貝だった。握った拳に爪が食い込み、今にも血を流そうとしている。


 だが平野は青貝には目もくれず、ふうと鼻息を吐いた。


御堂みどう先輩は失敗したみたいね。あんな怪物を相手に生き残るなんて、二人共やるじゃない」


「み、御堂?」


「ここに来る前に天使に出会ったでしょ? 彼の事よ」


 その言葉に悔しそうに頭を下げる青貝の傍らから、そっとアタシが前に出る。


「平野愛里。貴方が彼を天使にしたの?」


「ええそうよ。御堂先輩は人生に疑問を持っていた。首吊り煙突で死んだ学生を想っているうちに、死の美徳とでも言うのかしら? そういうモノに囚われ始めていた。……人間ってそういう形の死への欲求もあるのね。だから助けてあげたの」


「あれで助けたですって? 人の命をなんだと――」


 彼女が言いかけたところで、平野はそれを一笑して打ち止める。


「貴女が言うのはお門違いよ。確か一回生のイモムシの子よね? 自ら死を選んでおいて途中で怖くなって無様に生き延びた貴女が、彼をとやかく言う資格は無いと思うけど」


 激昂しそうになったアタシを落ち着かせるようにして、今度は草野が前に出た。


「君が原石を持っているのか?」


「原石?」


「人間を天使に変貌させる、クソふざけた道具だ」


「ああ、これの事?」


 平野は履いていたジーパンのポケットから、煌びやかに光る石を取り出した。アタシの持っていた欠片とは違い、光が水流のように脈動しているのが見て取れる。


「綺麗でしょう? 色んな名称があるみたいだけど、私達は天使の肉と呼んでいる。人によって呼び名が違うだなんて、そういうところも天人と一緒ね」


「やはり、君がそれを持っていたか……」


 探し求めていた現物を見て、草野の目の色が変わり始める。草野もアタシも既に、彼女を明確な〝敵〟として認識し始めている。


 だがその中で誰よりも先に行動したのは、鹿島だった。平野が目を細めながら、彼を見る。


「鹿島……」


「平野、お前どうしちまったんだ?」


 言いながら鹿島は疑問に思う。ここまで来て自分は何を言っているのだろうか。既に事態は確定した。これは今にも攻撃を始めそうな草野達から彼女を庇う為か、最後の最後まで彼女を説得したいのか、それともただポロっと口から零れただけなのかも分からない。


 ただ鹿島が一番に思った事は、ここで平野と、友人として出来る会話を取り戻したかった。


「どうしてこんな事を?」


 鹿島の言葉に、平野は何も言わない。


「さっき『私達』って言ったよな? 他にも仲間がいるって事か?」


 まだ彼女は何も言わない。


「そいつでどれだけの人間がどんな目に遭うか、お前も知らない訳じゃないだろう? お前は取っ付きにくい奴だって思われてるけど、そうじゃないのは俺も青貝もちゃんと分かってる。こんなの、お前らしくないじゃないか」


 そう言った途端、ずっと黙っていた平野はぎりぎりと歯を軋ませた。まるで歯で歯を噛み砕こうとするかのような軋んだ音が、建物の中を反響する。


? 私らしいって何よ? 何にも知らないでさ。勝手に距離置いてさあ! 私が『私』らしく生きるのに、どれだけ辛かったか分かってるの?」


「ひ、平野?」


 平野は握っていた原石、天使の肉を見つめると今にも泣きそうな目で鹿島を見た。


「私さ、もう壊れちゃったの」


「壊れただと?」


「ええ。私の中にあるアンデスは、もう機能していないの」


「え?」


「私の身体に組み込まれたアンデスは、この世で最初に出来た一期型なのよ」


 そう言って平野は、静かに語り始めた。


「天人が襲来してきた当時、私は天穴の真下にある町に住んでいた。でも私や町の人々は死ぬ事無く、血相を変えたおじさんに無理矢理家を追い出されてどうにか生き延びた。その後の二次攻撃で大勢の人が死に、それでも生き延びた町の人々には真っ先に国からこの一期型アンデスがあてがわれたわ。私達はこの世界の誰よりも早く、新人類になった」


 そう言って彼女は羽織っていた上着を脱ぎ捨てると、茶色に染めてウェーブをかけた長髪を掻き上げた。


 彼女の首の生え際の辺りには、掌くらいの大きさの機械が張り付いていた。


「これがこの世で最初に産まれたアンデス。ナノサイズで体内に内蔵される現行型と違って、とても醜いでしょう? これを見てると、自分が人間じゃなくなったっていうのを嫌でも実感しちゃう」


 頭の中に、彼女との日々が浮かんでくる。思えば初めて出会った頃から、彼女はいつだって長髪を崩さなかった。髪を巻いたり染めたりする事はあったし、鹿島もぼそっとショートヘアを勧めた事もあった。


 だがそれでも彼女は頑なに髪を切らず、彼女に対する印象の中には必ず〝ロングヘア〟が刻み込まれていた。


「これのせいで、私がどれだけ美容院を転々としたか分かる? 何処に行っても美容師がバケモノを見るような目で私を見たわ。今思うとあれは、天人や自縊死体を見るような目に近かったかもしれない。自分に面倒事をもたらす存在にね」


「現行型に取り換えなかったのか?」


「残念だけど一期型は無理なの。外付け式でシステムが根本から違うし、かといって現行型のアンデスは入れても効果を発揮しない。青貝、アンタの携帯電話と同じでデータを保ったままの機種変更は不可なの。そもそもこれを付けている人類自体が、今は殆どいないしね」


「どうしてだ?」


「簡単よ。みんな既に死んでるからよ」


 彼女の言葉に、皆が一斉に言葉を失う。


「所詮は機械なのよ。オンライン機能も無い型落ち品を針の穴程の人の為に更新し続けるのも、お金をかけて改良するのも誰もしてくれなかった。サポートから外された一期型新人類は人工の幸せの中で、いつ幸せの効力が切れるかにビクビクしながら生きてきた。恐怖を感じてはオンボロの幸せに縋り付き、造ってはまた恐怖に襲われた。こんな事なら偽りの幸せなんかに逃げずに、ありのままの人類として生きていけば良かったって思いながらね」


 平野の言葉に鹿島は何も言えず、ただ黙って話を聞く事しか出来なかった。それは青貝も同様で、彼もまた父の行いが正しかったのかと自問自答している。未だ稼働をしようとしては失敗するポンコツのアンデスは僅かな動揺や後悔すらも消す事が出来ず、彼女の言葉をダイレクトに頭と心に送り込んでくる。


「そして遂に、私にも番が回ってきた。私の中のアンデスが、完全に機能停止してしまった。今の私はもう何をしても満たされない。派手に体を着飾っても、好きでもない恋人を作って縋っても、私はもう全てが怖くて全てが憎くて、全てが悲しいのよ」


「だから道連れが欲しかったっていうのか? 多くの人を天使にしてまで……」


「そうじゃない。そうじゃないのよ」


 そう言うと彼女の瞳から、一筋の涙が零れた。十年近く彼女の頭に巣くったアンデスは、もはや悲しみの涙すら止める事が出来ない。


「ねえ鹿島。教えてよ? アンデスがあっても幸せになれない人は、どうすれば幸せになれるの? 人が機械や薬品に頼らず幸せになれる方法は無かったの? 貴方が知らないだけで世の中にはそんな人がいっぱいいるし、いたんだよ?」


 今度は鹿島が黙る番だった。彼女の言いたい言葉を理解し、ただただ歯を食い縛る。


 彼女もまた、自分に対し何も言い返せないのだ。自分達は互いに正しくて互いに間違っており、どちらを否定しても満足な答えは得られない。


「ねぇ、どうしたら私は幸せになれるの? これは誰かのせいなの? どうしたら良かったの? 教えてよ鹿島。友達だったんでしょう?」


 背後から洟を啜る音が聞こえる。この思いやりに満ちた音は、自分の大切な友が鳴らす音だろう。鹿島はただ静かにそれを聞きながら、もう一人の友の目を見つめていた。


 突き放すべきではなかったのだ。役者不足と腐る事無く、悪態をつき合おうともその悪を楽しみ、友として彼女の傍に居続けるべきだった。新世界の中で彼女が安寧を得られたのは、そういったくだらないやり取りの積み重ねだったのだ。


 平野はもう、何も言い返さなかった。ただ自分を見つめる鹿島を見つめ返すと、掌の上にあるモノを愛おしそうに見た。


「……ねえ、気付いてた? 鹿島、私さ──」


 そこまで言いかけると、平野は続けようとした言葉と一緒に天使の肉を呑み込んだ。口に放り込んだと同時に駆け寄る鹿島を見て、平野は喜びとも哀しみともつかぬ儚げな笑みを零した。


 途端に彼女はその場に俯くと、まるでヒトとは思えぬ尋常じゃない叫び声をあげ出した。大型の獣が合唱をしているかのような耳をつんざく音に、鹿島だけでなく他の三人も耳を塞ぐ。


「これはまずい。鹿島、こっちに来い!」


 草野は声の限り叫んだが、獣の如く悶え暴れまわる平野を抱き寄せる鹿島には届かない。


 草野は一度舌打ちをすると、指先から蔓を伸ばして無理やり引き寄せた。茫然と地面に転がる鹿島に平手打ちをする。


「クソ馬鹿野郎! お前までああなりたいのか」


 平手打ちを食らっても尚、鹿島はただその場に茫然と座り込んでいた。傍らに立った青貝が彼に手を伸ばすが、それに見向きもしない。


「何か、何か方法は無いんですか?」


 鹿島に代わって青貝が、アタシと草野に叫ぶ。


「無理だ。直に彼女は天使に変貌する。もう助ける事は出来ない」


「じゃあ、じゃあせめて! イモムシになる可能性は──」


「イモムシになるのはだけだ。例え石を取り込んだ状態で絶望したとしても、彼女は天使になる以外道は無い」


「そんな事って……」


「出来れば羽が出る前に仕留めておきたいんだが……」


 そこまで言って、草野はへたり込む鹿島を見た。ヒトの形を留めたまま苦しむ彼女を、彼の前で殺すのは憚れる。


「ねぇ、ちょっとおかしくない?」


 冷静なアタシの物言いに、鹿島も含めた三人は彼女を見た。鹿島に至っては、彼女の言葉に希望すら見出した気分だ。


「これだけ待っているのに、彼女からは〝糸〟が出てこないわ。普通ならあの石を入れられたら即自縊死する筈よ」


「……確かにそうだな。石が大きいから時間がかかるのか?」


「いえ、そうじゃない。まるでこれは、何かから藻掻いているみたい……」


 アタシの言葉に鹿島は立ち上がると、叫びのたうち回る平野を見た。見るに堪えない醜態だが、確かに彼女は己の中にある何かを追い出そうとしているかのようだった。


「平野……、おい、平野!」


 鹿島の言葉に、涎塗れの平野の口が開く。


『か、カし、ま……』


「平野! 俺が分かるか!」


『わら、イ、しテ……』


 その言葉は彼女の、魂の慟哭だった。彼女は〝彼女〟であるうちに、自分に言葉を遺そうとしている。


「おい、何だよ。ちゃんと分かる言葉で言ってくれよ。なぁ、頼むよ……。頼むから!」


「無駄だよ」


 冷たく言い放った言葉は、四人の背後からそっと流れ込んできた。


 四人が同時に振り向くと、そこにはアタシや草野の見知らぬ男性が立っていた。


 だが鹿島と青貝の二人は、その男を知っていた。浅黒く焼けた肌に、相手を威圧するかのようなワイルドな服装。青貝なんかは近寄りたくもない人種に違いない、友の想い人。


 平野愛里の恋人が、そこに立っていた。

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