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 元・工学部棟6号館の首吊り煙突の噂は、この大学に籍を置く者なら誰でも知っている。学部の先輩やサークルの友人、ネットの検索なんかをすると真っ先に出てくる我が校の歴史ある怪談噺の一つだ。


 まだ天人もアンデスも存在しなかった旧時代、一人の男子学生が行方不明になった。未成年や女子学生ならともかく、成人した男子学生の失踪に当初はふらっと旅に出たか駆け落ち紛いの事でもしたのだろうと思われていた。


 だが実際は、彼は


 男子学生が失踪して三ヶ月後。煉瓦工場であった頃の名残として存在した煙突の中で、彼は見つかった。見つけたのは煙突付近で自主製作映画を撮影していた映画研究部の部員で、発見した瞬間の絶叫は構内中に広がったという。


 男子学生は一番上に突き刺さった外付け梯子と自分の首にロープを結び、煙突の〝中〟へと飛び込んで死んでいた。今ほど高い建造物も無かった当時、登校すれば嫌でも目に付く煙突の中へと伸びる一筋のロープの姿は、間違いなく全ての学生が一度は見ていた物だった。学生や職員もその異物感を気に留めずに三ヶ月を過ごし、「あの紐は煙突の見栄えを悪くするなあ」と映研部の一人が思わなかったら彼は骨になるまで存在していたのだろう。


 まるで自分の死体で宝探しゲームをしたかったかのような凶行に、大学は一時パニックに陥ったという。だが当時は若年代の自殺など珍しくも無く、一時だけ茶の間を湧かして事態は終焉を迎えた。一人を死に向かわせた煙突もコスト面から取り壊される事も無く、その後の天人襲来や人類大量自殺やらが重なって、新時代の今まで置かれ続けた。


 新時代においてはさすがに存在そのものがアンデスを摩耗させかねないとして取り壊しが決定し、現在6号館周辺は完全に封鎖されていた。神経の図太い奴は怖い物見たさに侵入しようとするらしいが、大半が入り口でアンデスの警告を受けて引き返すという。


 そんなホラー小説の舞台のような場所は新人類なら電子の本能が避け、旧人類なら死者への礼節を順守して立ち寄らない。少女の言う通りこんな場所を好んで根城に出来る存在は、悪魔でしかないだろう。


 だが鹿島も青貝も、未だに彼女が悪魔だとは信じられなかった。



「本当に行くのか?」


 鹿島の言葉に、少女は頭を縦に振る。目に恐怖の色は一瞬たりとも映らない。既に覚悟を固めた上にアンデスの警告音の煩わしさが無いのもあるだろうが、彼女には何か天使を殲滅する責任感のようなものを感じさせる。


「草野さんからの連絡は?」


 青貝が少女に尋ねる。視線は既に6号館へと移しているが、先程と違いどこか影がある。そう思って見た青貝もまた鹿島に、心配や憐れみのような目を寄越してきた。


 思わず鹿島は目を逸らす。そりゃ仕方がない事だろう? 教授や多くの学生を死なせて大学を地獄に変えた存在が友人となれば、どうしたって心が揺らいでしまう。


「さっきから電話に出ない。きっと既に建物の中にいるのでしょうね。写真の明暗や建物の色からして、これが6号の中で撮られたのは間違いないし」


「やっぱり、平野さんは天使か何かなのか?」


 先程の授業で、平野に会ったのを思い出す。あれは明らかに自分達の知っている平野愛里だった。滅茶苦茶な言葉を羅列するだけの、無機質な天使では絶対にありえない。


「分からない。私も何度か彼女と会った事はあるけど、天使にしては明らかに自意識を持っていたし、かといってイモムシみたいないじけた暗さも無かった。どう見てもただの人間としか……」


「じゃあ人間なら──」


 そこまで言って、青貝は鹿島を見た。彼の気持ちは分かる。彼女が人間なら、戦わずに済む方法があるかもしれない。ましてや相手は気心の知れた相手であり、彼女がどうかなる事など考えたくも無い。


「何にしても気を付けて。相手が天使でも人間でも、人を強制的に羽化し暴走させる道具を持っているのは間違いないの。貴方達だって危ないんだから」


 真剣な彼女の物言いに対し、思わず吹き出してしまう。それを見た少女がキッと鹿島を睨む。


「何よ?」


「いや、すまん。君が人を心配するなんてなと思って」


「確かに私は死に損ないのイモムシだけど、心は持っている。人を心配して何が悪いの?」


 心底軽蔑するかのような目は、逆に鹿島に心の安らぎをもたらせた。アンデスがまともに機能していたならどれだけの負荷が掛かったかも分からぬ強い敵意が、今は心をフラットに保ってくれている。


 人の心というのは何と複雑なものなのだろう。アンデスとは違い、心にはこれといったマニュアルが存在しない。相手の怒りや哀しみを感じて喜ばしく思う事もあれば、良かれと思ってやった事が取り返しのつかない悲劇を産み出してしまう。羽化した天使も自縊死した人々も、そんな心を持っていた筈なのだ。


「心配すんな。俺もタダでは死なねえし、青貝だって死なねえ。どっちかがヤバくなったらどっちかが助けに行くし、ヤバければ逃げさせて貰うよ」


「それに君もな。君が危なくなったら、俺が君を助けるよ」


 青貝の粋な言葉に、鹿島は心の中でサムズアップする。ナイスだ青貝、今のはかなりキマっていた。


「……そういえば、ずっと訊いてなかったな」


「え?」


「名前だよ、君の名前」


 少女に救われてから、それ以前に鹿島らのゼミに聴講していた時から二人は彼女の名前を知らなかった。知り合って半年。解り合って四日目。他人でいる時間はとうに過ぎている。


「改めて自己紹介しよう。俺は鹿島、鹿島かしまゆう。二十一歳の三回生だ」


「鹿島、優……」


 少女は鹿島の名前を、口の中で転がす。


「俺に相応しいだろ? ……はい次、アホガイ」


「え、俺も? ……青貝あおがい繋一けいいち。こいつと同じ文学部の三回生で、歳も同──いや、まだ誕生日来てないから二十歳だ」


 照れ臭そうに言いながらも、二人が言い切った事により少女も何か言わなくてはいけない雰囲気になった。合コンとかで女の子のバストサイズなんかを訊くのに使う薄汚い手口だが、こんな局面で役立つとは思わなかった。


 少女の小さな口はまるで長年閉じられ錆びついた門のようだったが、それが今静かに開いた。


「私は、アタシ。十八歳で、学部は貴方達と同じ」


? 漢字がまるで分からん」


「外国籍か?」


「アタシはアタシ。それ以上でも以下でも無いわ」


 少女がそれ以上口を開こうとしなかったので、二人は追及を止めた。含むものはあるようだが、今は彼女を呼べる名があるだけで十分だ。


 鹿島は一つ息を吐くと、6号館の入り口を見た。普段は虎模様のフェンスで閉じられている筈の入り口に、明らかに一人分の隙間が見える。玄関の扉も半開きのままだ。


「じゃあアタシ、それに青貝。準備は出来たか?」


 鹿島の言葉に、二人は小さくも力強く頷く。


「そうか。じゃあ行けるな」


 鹿島はそう言うと、封じられた6号館の扉を開いた。


「さあ、肝試しの時間だ」

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