(1)

 気だるげな思いと共に、目が覚めた。いつものように布団を蹴飛ばして今日の運勢を見ようとするが、うまく足に力が入らない。伸ばした足は掛け布団を少し持ち上げただけで、ボフンと沈んでいった。運勢は大凶である。


 天使との遭遇から三日目。休日を挟んだ久しぶりの登校だが、気分は未だに重いものが続いている。今日もまた大学に向かう途中、自縊死体を一つ見つけてしまった。遺体は放っておいても先が短かったであろうお婆さんだったが、それでも思わず目を背けてしまう自分に対し、重たいため息が出る。


 三日前の朝までの自分なら考えられない現象だ。あれから何度もアンデスのセルフメンタルチェックをしているが、ナノサイズの友は〝異常無し〟の言葉を吐き続けている。相川という学生天使のインク弾の痛みもまだ少し痛むので、どうにも気分が安定しない。


 どうもおかしい。天使と遭遇してからというものの、メンタルは安定している筈なのに何かが奥でざわついている。意識を集中する度に頭にはカチカチとスイッチを切り替えするような音が聞こえ、それに耳を傾けた瞬間に強烈な寒気が身を包む。


 大学の正門前まで着いた時、傍らを清掃車が通り抜けた。きっと近隣の住民の通報により、糸車と化したお婆さんを回収しに行くのだろう。死んでまで人に迷惑をかける厄介な存在と思っていた自縊死体も、今となっては繭を破らずに人として死んでくれた事に喜びと感謝すら感じていた。


 よくもこれだけ人が死に続けて文明が続いていると思えたが、人工細胞で幸福のシャブ漬けになった人類はいつだって幸せいっぱいなのだ。今こうして死んでいく倍以上の数を、人は孕み産み続けている。家族というコミュニティの増幅の為に、殆どの家庭に子供が四、五人はいる状態だ。


 どれだけ働き過ぎてもアンデスのおかげで苦にはならず、むしろ家族を養うという使命感や社会を動かすという偉大さの為に、働けば働くほど幸せが増幅する歯車のようなシステムが備わっている。三日前に見たサラリーマンのような死に方は稀だ。


 鹿島は思う。自分は知らなかったというよりも、ただ目を背けていただけなのかもしてない。あの日天人たちが空を突き破って来た時から、人類は人類を保つ為に何かを棄てたのだ。それが少女の言った精神や心なのか、それとも別の何かなのかは分からない。


 一つだけ言えるのは、今の人類は間違いなく、大事なモノを喪って生きているという事だ。



 教室に入って直ぐに、見慣れた姿を探し出す。二十一年の人生で彼の後姿は飽きる程見てきたので、どこにいようが一目で分かる。


 青貝は教室の真ん中辺りの席で、暇そうに欠伸をしていた。鹿島は背を向ける友の肩を叩くと、彼は自分の顔を見てニヒルな笑みを浮かべた。


「よう、バカシマ。今日は代返を頼まないのか?」


「うるせえアホガイ。単位の事よりもお前、あれから元気にしてたか?」


「正直言って微妙なとこだ。元気だったら、お前を飲みにでも誘ってるよ」


 そう言いながらも青貝は元気そうだった。顔色は良いし、口調にも影は無い。彼の体内に潜むアンデスは、きちんと彼をフラットな状態に保てているようだ。


「そういうお前は、何だか元気が無いんじゃないか? ちゃんと飯食ってるか?」


「バリバリ食ってるよ」


 実際はあれからまともに食事をしていなかったが、彼に言う必要は無い。何かを食べようとする度に教授や東雲さんがドロドロに溶けていく様が浮かび、嫌でも吐き戻してしまう。精神に著しい障害をもたらしているというのにアンデスは関せず、日々食物だったモノを片付ける毎日だ。


「それはそうと青貝、あの子とは連絡取ってるのか?」


「あの子ってまさか、能力者イモムシの子か? いや……」


 三体の天使との戦いが終わった後、二人は少女と連絡先を交換していた。少女の方から連絡が来ない事は予想していたが、内心では青貝には何かしらアプローチをするのではと思っていた。互いに主張も少なく強い正義心を抱えた同士なので、馬が合いそうではある。


 鹿島はわざとらく大きなため息を吐くと、残念そうに友を見つめた。


「お前な。こういう時こそチャンスだろうが? 秘密の共有、危機的状況からの脱出、吊り橋効果。これだけ積んで何も起こせなかったら、お前は生涯童貞で人生終わるぞ」


「あのなぁ……」


「ねぇ、二人共。何話してるのよ?」


 照れ臭そうにしている青貝の背後から、女性の声が聞こえた。途端に青貝の身体が強張り、鹿島もまた顔の筋肉が引き攣るのを感じ取る。


 平野は今日も今日とて茶色に染めたロングヘアを靡かせ、嫌でも目に映る胸元を強調した挑発的なファッションで身を固めていた。


 平野は鹿島の顔を見ると、わざとらしく胸元を両手で隠した。


「やだ鹿島。アンタいま私のおっぱい見たでしょ?」


「バカ、見てねえよ」


「そういうの視線で分かるっての。アンタ巨乳好きだもんねえ」


 人の多い教室内で茶化してくる彼女にたじろぎはしたが、周囲の学生は見向きもしない。時折チラチラとこちらを見る動作はしているが、一部の男子を除けば視線の先にいるのは自分達では無かった。


 平野の周囲には四、五人が彼女を中心に混じり合い、ぺちゃくちゃと下品に笑い合う群れがいた。他学部の学生だがどいつもこいつもチャラチャラしていて、何かを学びに大学に来ているとは思えない風貌だ。周囲の学生も彼らには辟易し、席二つ分の距離を置いている。


「何でもないよ。ちょっと相談事があってね」


 遠慮がちに青貝は言う。いざという時の肝の据わり方は異常だが、こんな時に限ると己を発揮出来なくなるのが彼の残念なところだ。声色もいつもと打って変わって非常にか細い。


「なに青貝、アンタ悩みでもあるの?」


「おい」


「いや、まぁ、そういう感じっていうか……」


 火事場の野次馬をするように、平野はグイグイと首を伸ばしてくる。世話焼き者である事は知っているが、外野が煩い今の状況で関わりたくはない。彼女を巻き込みたくない想いもあるし、話したところで嘲笑されるのがオチだろう。


「青貝じゃなくて、俺が相談してたんだよ。うちのゼミの先生が失踪したらしく、課題やら単位やらがどうなるか分からんのだよ」


「ああ、水谷教授が行方不明なんだっけ? 怖いよねえ」


「ナニナニー? ナンノハナシィ?」


「オモシロソージャン。キョージュイナクナッタン? ヤベ―」


「ヤバクネ! ヤバクネ!」


 案の定聞きつけた周囲のチャラ男とチャラ女が話に加わろうとしてきたので、鹿島はそっぽを向いた。青貝は一歩逃げ遅れたようで、チャラ男の頭でも分かるように言葉を選びながら丁寧に説明をしている。


 どうして吊り上げるべきか考えていると、不意に背後から強烈な視線を感じ取った。平野の傍らに座る、肌が浅黒く焼けたモデルみたいなイケメンが鹿島を見ていた。


「何だよ?」


 鹿島の問いに、男は何も答えない。確か彼女の恋人だと、前に彼女自身から聞いた事がある。一瞬目が合ったに過ぎないのに敵意丸出しの警戒した目を寄越し、明らかに自分を牽制していた。


 否定してやろうかとも思ったが、それだと彼女の面目も潰れてしまうだろう。ああ見えても根は良い奴で、同学部の女子と反りが合わず出た先でやっと見つけた友人と恋人なのだ。疎遠になろうとも自分らしさを発揮出来る友人を見つけられた事は喜ぶべきであり、繋ぎでしかなかった自分達が首を突っ込むような事ではない。


 チャラ男らの「ヤベー」が二十回を超えた辺りで鹿島は青貝を呼び戻し、適当な事を嘯いて彼を引っ張り上げた。青貝もその時ばかりは自分に対し、救いの神かのような目を寄越してきた。


 思わず鹿島は吹き出し、青貝が不思議そうに見た。救いの神とはなんとも笑えない。自分達はつい先日、その神とやらに殺されかけたのだ。


 授業が終わると同時にチャラ男らは飛び出るように教室を出て行き、平野もそれに付いて行った。浅黒の彼氏もいなかったので去り際に挨拶でもしようかと思ったが、そこを青貝に止められた。


「きたぞ。あの子から連絡だ」


 青貝の言葉に、瞬時に鹿島は意識を茶化すモードに入れる。


「お、やっぱ脈アリか?」


「馬鹿言ってんじゃねえ。なんか紹介したい人がいるだとさ」


「なんだ、最悪のパターンじゃねえか」


「だ、か、ら。そういうんじゃねえっての!」


 茶化しつつも鹿島は、また厄介な事になるのではと懸念していた。頭の中でまたスイッチの音が聞こえるので、気を紛らわせないと恐怖心に呑み込まれそうだった。


 こういう時はため息を吐くに限る。鹿島は小さなため息を吐くと、青貝と共に教室を出て行った。

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