(4)

 教務棟の周辺は地獄絵図だった。壁には自縊死した学生が遠足前日のテルテル坊主のように連なり、地面にはなまじ抵抗力がある故に正気のままの学生が頭を抱えて座り込み、それを取り囲むようにして平然と突っ立ったアンデスの快楽に身を委ねた者達がいた。


 ほんの数秒前までは、ここもありふれたキャンパスライフの一ページだったのだろう。死体と狂気に堕ちた人間が当然の如く連なり、まき散らされた糞便の臭いが漂うその光景はまさしく天人襲来時の悪夢そのものだった。


 悪夢の中心にて、姿勢良く屹立する者がいた。飛び石のように並んだ人々の群れを通り抜けて、鹿島らは中心に立った人物と対面する。一目見た瞬間、それが人ならざる存在である事が分かった。


「遅かったみたいね」


 その人物には羽が生えていた。男子学生のようだが知った顔ではなく、腰の辺りからヒラヒラしたモノを靡かせている。見た感じは紙のようで、大昔の巻物を広げたかのようだ。厚みや揺れる動作からは、天国の天使というよりは極楽に住むとされる天女を思わせる。


 変わり果てた男子学生の姿を見て、青貝が舌打ちをする。舌打ちの音すらも大きい彼では、口から火花が弾けたかのように聞こえる。


「おい、あれは何だ。何タイプだ?」


「和紙みたいな感じだから、ガイアかしら? でも東雲さんの事を考えると、あれも複合タイプの可能性が高いわね」


 男子学生の風貌を残す天使に対して「あれ」という言葉を使う少女は、既に対象を殲滅すべき敵として認識しているのだろう。だが今はそれが正しい。自分達は既に、彼が人ではない事を知っている。


 鹿島もまた意識を集中させる。湧き出る混乱や恐怖を押し殺し、新時代においてはあまりにも不慣れな感情である〝敵意〟を己に宿していく。


「他に繭も見当たらないし、羽化したのは一人のようね」


「それでどうする。先に仕掛けるのか?」


「……まずは様子見しましょう」


 そう言って少女はメンタルフォルスの糸を伸ばし、それを一直線に学生天使へと飛ばした。二回も戦いの場に居合わせてはいるが、頭髪が伸びていくこの光景は未だに見慣れない。


 伸びた黒髪はすんなりと学生天使の身体に巻き付いていき、あっという間に身動きが取れなくなった。学生天使の紙の羽はどうにかしてそれを引き裂こうともがいているが、明らかに強度が足りていない。


 その光景に、鹿島が鼻を鳴らす。


「なんか、呆気なく終わりそうだな。あれペラペラだし……」


「油断するなバカシマ。教授の時を忘れたのか?」


 教授は荒縄以外にも、見えざるワイヤーの能力があった。今でこそ目に見えた紙束がペチペチと叩いているに過ぎないが、あれだって何か別の能力を秘めている可能性がある。


 無表情のまま紙の羽をしならせていた学生天使は動きを止め、ぽつぽつと口元を動かし始めた。


『私に私は何か幼い頃から壊した。私は、あなたは幸せを願っています。それは本当にあなたの心が、彼は自宅軟禁されました。わかっています。彼は一度拉致されました』


 まただ。この天使もまた教授や東雲さんと同じく、言葉と化していない言語を発している。ただ冷静になって話を聞くと、彼は彼なりに何かを伝えたいようにも思える。


「耳を傾けちゃ駄目よ」


「え?」


「あの言葉に意味なんか無い。あれはあの学生の中に潜む天人が、彼の記憶を適当に拾って喋っているに過ぎない。意味なんか無いし、あったところで言葉を返す相手はもうどこにも存在しない」


 少女の言葉に、鹿島も青貝もやりきれない思いを呑み込む。学生天使は一通り喋り終えると、紙束の羽を大きく広げた。羽毛のように紙が束となり広げていく様は、我々の知る天使の姿に一層近くなった。


 見ればただの白紙に過ぎなかった羽に、じわじわと黒いシミのようなモノが滲み出てきた。純白の羽が黒く染まってゆく光景に身構えていると、学生天使はそのシミを地面に垂らし、飛沫のようにして飛ばしてきた。


 黒色の雨が、横に降り注いできた。飛んで来た瞬間、三人は左右に避けた。飛沫は弾丸のように襲い掛かり、ビタビタと音を周囲に鳴り響かせる。


 少女と青貝はどうにか避け切ったが、鹿島は右脇腹に一発食らってしまった。


「か、鹿島!」


 友の被弾を見た青貝が鹿島に覆い被さり、反対に避けた少女に向かって叫ぶ。


「何だアレは。アレのどこが『糸』だ!」


 馬鹿でかい青貝の声に対し、少女がメンタルフォルスの糸で広範囲を包み込みながら叫び返す。


「私にも分からないわよ。糸はその人物の『最も縛られたモノのイメージ』から出来るモノだから、あれにとってはこれがそうなんでしょうよ」


「じゃあ何か? 彼はこんな得体の知れないイメージを持ち続けて死んで、それが羽になったってのか」


「そういうのもあるけどアレは違う。アレは東雲さんから産まれた天使。紙束の方が彼本来の糸だとするなら、この黒いのは間違いなく無機物由来の何かよ」


「んなの分かるかぁ!」


「落ち着け、アホガイ……」


 鹿島は身体を起こすと、被さっていた青貝を除けた。


「鹿島! 無事か?」


「声が大きいぞ、アホ。……大丈夫だ、かなり痛かったが問題無い。野球の流れ弾が当たった程度だ。血も出てないし骨も折れていない」


「だがあの見た目からして、侵入する毒とかウイルスとかって可能性だって……」


「マンガの読みすぎだ。コレはそんなんじゃねえよ……。ほれ」


 鹿島は脇腹に付着したシミを指で掬うと、青貝の鼻元に近づけた。一瞬躊躇した青貝だったが、シミの臭いを嗅いだ瞬間にピンときた。


「ペン字用のインク。それがあの黒い弾丸の正体だ。恐らくあの紙の方にコイツを流し込んで、染み出てきたのを羽ばたいた力で飛ばしてきてるんだろう。教授のワイヤーみたいにな」


「そういう事か……」


「あの紙束もよく見ればただの紙じゃねえ。『封筒』だ。ラブレターみたいな封筒の中から一回り小さいラブレターが出てきて、羽毛みたいな形になってるんだ」


 物陰でインクの弾丸を躱していると、徐々に弾丸のスピードと弾数が落ちていくのが分かった。学生天使の羽がまた白色に戻り始め、代わりに辺り一面が血の海のように黒く染め上げられる。


「弾切れね」


 察知した少女は飛び出ると、天使が行動を起こす前にメンタルフォルスの糸を伸ばし、今度は紙の羽ごと雁字搦めに縛り付けて引き裂いた。


「手紙とインクがトラウマだなんて興味深いけど、こっちも連戦続きでね。さっさと終わらせて貰うわ」


 少女は黒髪を引き戻すと、羽の欠片を付着させたそれを一直線に伸ばした。細切れになった白い紙が、雪のように彼女の周囲に降り注ぐ。


「二手終え〝波梳なみすき〟」


 少女の髪は空中で分裂し、波打った格子のような形状で学生天使の元へ襲い掛かった。格子状の髪は天使の身体を通り抜けると同時に細切れにし、引き裂かれた身体は地面に触れると同時に消えていった。


 天使の姿が消えると、辺りで蹲っていた学生らが意識を取り戻した。取り戻したと言ってもそれは平常心では無く、アンデスが加工済みの〝冷静な叫喚〟だ。パニックを起こしながら遠くへ逃げようとしているのは伝わるが、どうしても天使が存在した時間を空白にしている感が否めない。


 鹿島はため息をつきながら立ち上がる。自分は今までこんな滑稽な劇を演じていたのかと思い、憎々しくすら感じている。傍らの青貝が肩を貸そうとするが、照れ臭さからそれを拒否した。


 青貝が憎たらしそうに舌打ちをすると、教務棟から人が飛び出して来た。どこかで見たような顔だと思えば、保険医の先生だ。


「ねぇ、貴方達。相川あいかわ君見なかった?」


「相川君?」


 保険医の言葉に、少女が背中を叩く。彼女の小さな掌には、先ほどの学生天使の顔が写った学生証が握られていた。恐らく身体を引き裂いたついでに、財布か何かを失敬したのだろう。


「相川君なら、先ほど自縊死しました」


「え、そうなの?」


 その言葉に、保険医の先生が周囲を見渡す。生きた学生は既にどこかへと逃げ去り、建物の壁には見知らぬ学生らの自縊死体はあるがそこに相川の姿は無い。


「ここにはいないみたいだけど……」


「さっき清掃車が持って行きました。ここにあるのはその後に自縊死した人の分です」


「そうなの。ならもう一回連絡して、取りに来て貰わないとね。……残念だわ。彼、何かストレスを抱えてたみたいだから」


「……あの、先生」


 思っていた状況と違う光景に、青貝が口を挟む。


「先生は、?」


「え、別に何も無いけど?」


 その平然とした様子は、二人の肝を冷やすには十分だった。保険医の先生は不思議そうに首を傾げると、頬に手を当てながら去って行った。


 先生を見送ってから、青貝が口を開く。


「保険医の先生は旧人類じゃなかったのか? あの無関心さはどう見ても新人類だぞ」


 自分の事は棚に上げつつも、青貝は少女に指摘する。旧人類でありながら学生大量死の現場を見て平然と出来るというのなら、とんでもない精神安定率だ。安定を通り越していかれていると言っていい。


「彼女が旧人類だったのは間違いない。でもきっと、今は違う」


「今は?」


「彼女はほんの少し前に、新人類に成ったのよ。保健室なら旧人類やアンデスの機能が停止しかけた学生の為に無記録の物が存在するから、きっと相川君が襲ってきた時にでも注入したのでしょう。まさか同胞である相川君が化け物になって襲ってくるとは思っても無かったでしょうし」


「同胞って事は……」


「ええ。彼も旧人類だったのよ」


 少女の言葉に、二人は驚く。彼が旧人類だった事もあるが、彼女はあの天使を見知った顔だと知りながら、眉一つ動かさずに身体を細切れにしたのだ。


「先生の言う通り深く話した事は無かったけど、相当にメンタルを病んでいたわね。それでも彼は頑なにアンデスを拒んでいて――」


「殺されちまったって事か。同胞の先生はアンデスに逃げたっていうのによ」


 憎たらしげに鹿島が言うと、少女は鋭い目で彼を睨んだ。


「それは違う。目の前に怪物が現れて今にも殺されるって時に何かに縋ろうとするのは、人間として当然の事だわ。そのお陰でターゲットから外されて助かったんだから、彼女の行動は百パーセント正解なのよ」


 彼女の言葉を聞きながら、鹿島は不思議な感覚に陥っていた。


 自分は先ほど何と言った? アンデスに〝逃げた〟と言ったのか? アンデスを身に宿していながら、俺はアンデスを嫌悪し始めているのか? ならば俺の中のアンデスは、何故その感情を削除しない?


 鹿島の想いとは裏腹に、青貝はふうと気の抜けたため息をつきながら少女に尋ねた。


「さすがにもう、これで終わりだよな?」


「ええ。今ここにいる天使は、全部狩ったとみていいでしょう。オリジナルが人を羽化させるのはせいぜい二、三体だから、後は様子見するしかないわ」


「結局後手に回るのかよ」


「最初からそうでしょう? 相手は神で、こっちは人間。しかも今はただの死に損ないなんだから」


 その後三人で構内を余す所無く見渡したが、少女の言う通り天使の存在はどこにも無かった。自縊死した学生の死体は後に清掃車によって回収され、今朝に見たサラリーマンと同じ場所に運ばれるのだろう。


 帰り際に鹿島は手荷物を回収する為にゼミ室に向かい、窓から外を眺めた。


 それはいつもと同じ景色だった。


 いつもと同じで、どこか狂った世界に見えた。

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