(2)

 少女の方を見ると彼女は黒髪、メンタルフォルスの糸を縮ませながら床を見つめていた。床にはもはや、教授が存在した証は何一つ残っていない。


 一点に床を見つめる彼女の顔は、ここからでは泣いているようにも見下しているようにも見えた。あるいは単に戦闘に疲れて疲弊しているだけかもしれないが、仏頂面で息を整える姿からは何の起伏も感じ取れなかった。


「さすがにもう、これで終わりだよな?」


 そう言った青貝の声は、足元から聞こえてきた。青貝はしゃがみこんで、また何も無い虚空に掌を合わせている。


「分からないわ。水谷教授は誰も天使にしていないけど、東雲さんが教室に来るまでに誰かしらを繭にしてる可能性がある。既にこの構内で、何匹か暴れ回っている可能性はあるわね」


 言われた途端に勝利の余韻は消え、場を包んでいた空気が不安と恐怖へ移り変わった。周囲に広がる人の声、壁板の軋み、窓を叩く風の音の一つまでもが黒々としたモノに変貌していく。


 鹿島と青貝の中に、最悪の光景が浮かぶ。人を殺して繭にし、繭からは同じように安らかに殺す事だけを考える怪物が生まれて来る地獄。もはやゾンビパニックというより、旧時代に存在したカルトか何かのようだ。


「だったら早く見つけないと! 繭を見つけるにはどうすればいい」


「足で探すしかないわ。でも見た目には天使は普通の人と変わらないし、新人類は自縊死体には無関心だから難しいかもね」


「なんだよそりゃ。その髪、探知とかレーダーとかは出来ないのかよ?」


 ムッとした顔を浮かべた少女が言い出す前に、青貝が割り込む。


「じゃあ、狙われる人の特徴みたいなのは無いのか?」


「そうね……。天使は絶望させやすい人を好むから、それを目安にすればいいかもしれない」


「絶望させやすい人?」


「第一目標はアンデスの無い旧人類。精神攻撃がダイレクトに伝わるから、捕まればほぼ一撃で逝く。次に、アンデスが追いつかず摩耗する程にストレスを溜め込んだ新人類。これは社会人には多いけど、学生にはあまりいないと思う。最後は、アンデスの型番が古い旧型新人類ってとこかしら?」


 型番という言葉に、思わず青貝を見る。そういえば先ほどの東雲天使も、多くいる学生の中から真っ先に青貝を狙ってきた。自分の隣にいる友の型番は、現行型よりも一つ分古い。


 言いたげに鹿島は青貝を見つめるが、彼は一向に気に留めていないようだった。正気と元気を取り戻し、いつでも行けると言わんばかりの笑みを向けてくる。


「何だ、どうした?」


「いや、何でもねえ」


 いつだってそうだ。こいつは自分の死の可能性の高さより、他者の微弱な死の可能性を懸念する。父から教えられてきた教えを順守するかのように、人を慈しむ事に固執する。それが鹿島を苛立たせる。


「それで、君が考えうる中で、構内で一番天使が来やすい場所はどこだ?」


 少女は頬に手を当てながら思案した後、ぼそっと呟いた。


「保健室。怪我や病気、課題の行き詰まりにストレスを抱えた学生が多く集まるし、保険医の先生も確か旧人類だった筈」


「保険医の先生も旧人類なのか?」


「ええ、そう。私はこの大学にいる旧人類は全て覚えているわ」


 さも当然のように、少女は言う。もしかしたら彼女がやたらとゼミに顔を出していたのも、水谷教授が天使の襲撃を受ける可能性を危惧していたのかもしれない。


「なら急がないと! あんなバケモンが何匹も出たら大勢の人が死ぬぞ」


「……一つ気になってたんだけど」


 慌てる青貝を制しながら、少女は静かに二人に尋ねる。


「何故貴方達は、他人を心配出来るの?」


「……は?」


「新人類とて他者を慈しむ感情は持っているけど、自ら死にゆく人間を守るような思考形態は持たされないようにしている。アンデスの使命は、内蔵された人間の精神をフラットに保つ事だけ。自縊死体や精神的苦痛、ましてや天使なんか普通は見ただけで自我と記憶が飛ぶわ」


 確かに先ほどまで陶酔していた連中も、チャイムが鳴ると同時に何事も無く出て行った。頭と心の中に「異常事態が起きた」という恐怖と不快感は残っているのかもしれないが、ゼミ仲間が変貌して教授を殺したところまでを仔細に覚えているかは分からない。


「でも貴方達は記憶を改ざんするどころか、自ら天使と戦おうとまでしている。新時代の常識で考えれば、狂人に近い変人よ?」


 その言葉に、鹿島と青貝は互いを見る。さすがに面と向かって変人と言われると少し凹むが、それでも心は不思議なくらいに落ち着いていた。極限状態を経験したが故の余裕かもしれないし、隣にいる友の存在もあるのかもしれない。


「ねえ教えて。貴方達を動かすモノは何?」


 その言葉には自分よりも先に、青貝が口を開いた。


「俺の父は、最初に天人に殺された五人の内の一人だ」


 青貝の言葉に少女は開きかけた口を閉じ、細めていた目を少しだけ見開かせた。


「最初の被害者らは有名だからな。世間や記録じゃ英雄とか殉教者だとか宣っているけど、俺の父は違う。父は……、父さんは英雄にして貰えなかった」


「どういう事?」


「簡単な話だ。父さんの仕事が、ただの警備員だったからだ」


 青貝の言葉に、鹿島は視線をずらす。幼馴染である彼の父の事は、物心ついた時から知っている。誰よりも優しく誰よりも家族を愛し、誰よりも真っ直ぐで曲がる事を知らなかった。

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