(1)
十次元戦争から五年経ち、永遠に暗闇に閉ざされると思われていた世界もすっかり平穏を取り戻していた。神や天人こと「十次元極地支配概念状生命体」からの永続的な侵略的精神汚染攻撃にも人類は耐え忍び、色の無い戦争とまで言われた争いは終焉を迎えた。
アンデスがもたらしたのは平穏だけではない。永遠の安寧と平和、抗争の断固拒絶と引き換えに人類は立ち向かう勇気と開拓心を捨てた。第五次作戦〝
神が八億もの人間をお迎えし、残った人類で絶望をプログラム管理して、あらゆる苦痛や恐怖を頭のゴミ箱に
アンデスは断固として〝悪〟を許さず、人間の持つ意識すら介入し統制する。人類同士の抗争が存在しない世界平和は五年目へと進み、勇気と開拓の心は今では誰も覚えていない。
〇
「曲がり角に消火器がある筈よ。それを取ってきて」
少女の言葉に、鹿島らは視線を泳がす。消火器なら目と鼻の先にあるが、それには一度教授天使の横を通り抜けなければならない。教授天使は既に自分らを意識の中に入れている。背を向けていようとも自分達は攻撃対象であり、一つのミスで瞬時に死が訪れるだろう。
だがここで棒立ちしていても、結果は同じだ。青貝は鹿島の考えを察すると一度顔を横に振ったが、それも直ぐに諦めた。産まれた時からの付き合いの友人は、自分が絶対に譲らない状況をよく知ってくれている。
「青貝。イチ、ニで行くぞ」
「ああ。イチ……ニ、今だ行け!」
青貝は辺りに散らばる本を掻き集めると、片っ端から教授天使に向かって投げ始めた。教授天使の意識が彼に向けられると同時に走り出した鹿島が、天使の横を通り抜ける。
消火器が手に触れようとする瞬間、何者かに背中を押し倒された。柔らかな感触に振り向くよりも先に、目前の壁に横一線が刻まれる。先ほど少女を追い回していた、見えざる斬撃だ。
押し倒したのは少女の黒髪、メンタルフォルスの糸だった。流れる湖水のような光沢と女性特有の匂いに包まれながらも、一本一本が意志を持った針金のような強度を持っているのが分かる。
「間一髪ね。まさしく」
冗談めいて言う少女だったが、その顔に喜びの表情は浮かんでいない。疲弊しているからではなく、単にどうでもよい感情が滲み出ている。
「すまない。助かった……」
「礼は要らないわ。それよりも貴方のおかげで、あの攻撃の正体が掴めたわ」
指差した教授の背中を見ると、太めのパイプを刺したように飛び出た荒縄の隙間から何かが飛び出ていた。ささくれた麻色の合間を縫って、細く透明な糸が鞭のようにヒュンヒュンとしなっている。
「ステンレス製のワイヤーか何かかしら? 思った通り無機物が入り込んでいたようね」
見えざる斬撃の正体はこいつで間違いなかった。荒縄の強度と纏まりを強める為に入れてあるのだろうか。透明かつ艶消しでもしているのか、目を凝らさなければ殆ど目視出来ない。
鹿島は消火器のコックを外すと、教授天使に向かって白煙を噴射した。同時に少女も縛り付けた黒髪を解くが、教授天使は微動だにしない。代わりに透明な細糸が辺りを探るように、うねうねと動き回っている。
「青貝、今なら見えるだろ? あれが攻撃の正体だ」
教授の横を通り抜けて、鹿島は言う。ようやく青貝の目にも暴れまわる触手の正体が映ったようだ。
「な、何だよあれ?」
「恐らく複合したタイプね。厄介だわ」
「複合?」
「私たちイモムシには聞いた事無いけど、天使にはままあるわ。親の絶望と子の絶望が同調すると、ああいった
「同調って?」
「文字通りの意味よ。きっと東雲さんは、水谷教授の大切な生徒だったんでしょう」
その言葉に、鹿島も青貝も何も言えなかった。自身が絶望に狂いながらも、他者の絶望に同調してしまう。それはきっと、人間にしか持つ事の出来ない感情だ。
東雲さんに喉を貫かれた時、水谷教授はどのような想いを抱いたのだろう。他者に同情した結果がこんな怪物を産み出すというのなら、神とやらは本当にふざけた存在だ。
「さて。正体も見えた事だし、そろそろ片づけましょう」
そう言うと少女は教授天使の前に立った。目前の天使には見えていないのだろうが、背中の透明な糸はまるで彼女を探知するかのように慎重に揺らめいている。
消火器の白粉が薄れ始め、少女と天使が目を合わせる。
教授天使は手を上げると、また少女を指差した。恐らくあれは距離感を測る為の行為なのだろう。
だがそれも一手遅かった。教授が手を上げ切るよりも先に、少女の黒髪は動いた。
「初手終え〝
散らばりながら固められた少女の髪が熊手のようになると、そのまま包み込むようにして教授天使の体を引き裂いた。
断末魔をあげる暇も無くスライスされた教授の体はその場に崩れ落ち、縄も糸も共にゆったりと床に落ちていった。縦に四分割された教授の体の形通りに黒い染みが生まれ、それも床に染み込んでいくかのようにして消えた。
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