3 兆し
(弐)
建物の一つに入ると、一人の女性が泣いていた。見たところ二十代前半かそこらで、年頃は自分と同じくらいかもしれない。尤も、自分の歳が分からないので見た目で判断するしかないが。
「何を泣いているんだ?」
自分が話しかけるよりも先に、傍らの初老の男性が彼女に言った。その言葉に両手のひらを濡らしていた女性は顔を上げ、ゆっくりと口を開いていく。
「怖いんです。これからどうすればいいのか分からなくて、どこへ行けばいいのかも分からない……」
「君もなのか? 私達も同じだ。ここが何処かも分からず、どうすれば良いのか途方に暮れている」
「貴方達も?」
「ああ。見たところ君は、私達と同じ人間のようだ。きっと君と私は、同じ世界から迷い込んでしまったのだろう」
そう言うと女性は初めて顔を上げ、二人を見た瞬間に目を大きく開いた。
「私、貴方達を知っている気がします。特に貴方のほう……」
そう言って指差した先は自分ではなく、初老の男性の方だった。それを見て驚きと同時に、どこか悔しさのような感情が沸き上がる。新たな情報の示唆とどこか自分の情報が遠のく思いが交互し、女性を見る目に力が入る。
「君は、この人を知っているのか?」
「分からない。でも、見ていると安心するんです。まるで頼りたくなるような、謝りたくなるような──」
瞬間、女性は頭をガクンと後ろに退き伸ばした。音の無い世界で心底良かったと思う。見えない力によってへし折られたように曲がる首筋は否応にも肌を総毛立たせ、男性と互いに怯えた顔を見合わせた。
だが少女はゆっくりと首を戻すと、初老の男性を見てぽろぽろと涙を流し始めた。
「ああ、……ああ! 先生。ごめんなさい、ごめんなさい。私のせいで……」
「センセイ? 君は何を──」
その言葉と共に、今度は初老の男性が喉元を抑えて膝を着いた。慌てて腕を取ろうとすると彼は優しく払い除け、ゆっくりと立ち上がった。
立ち上がりに見た彼の顔はどこか寂しい目を浮かべながらも、僅かに浮き出ていた憂いを全て取り去っていた。
「……いや、いいんだ。どのみち私は長く無かった」
そう言った瞬間、二人は一点の方角を見つめた。男もまた釣られるようにそちらを見るが、視界の先には何も存在しない。音も匂いも無い、完全な虚空が存在するだけだ。
「……行かなくちゃいけませんね」
「ああ、そうだな」
二人は自分を無視し、見つめた一点へと向かって行った。男が慌てて付いて行こうとすると、初老の男性が手をかざした。
「君はまだ来てはいけない。君にはまだ早い」
「え?」
「私達は全てを取り戻した。だが君はその様子だと、あれが見えないのだろう? あれが見えないという事は、君にはまだやるべき事があるという事だ」
既に彼らの目には、自分の姿は写っていなかった。女性の方は自分にまるで見向きもせず、初老の男性もまた誘惑を断ち切るように自分へと向き合っているかのようだ。
何となくだが分かる。彼らはもう、この世界に用が無くなったのだ。憂いは全て取り祓われ、様々な単語で示される魂の終着点へと誘われている。自分に何も見えないのはまさしく、全てを取り戻していないからだろう。
「待って下さい。こんな、こんな所で……」
それでも初老の男性は自分にとって、ようやく出会えた生の感触であり絆だった。例え相手が今まさに天国へと向かう最中であったとしても、先行きがまるで見えない中で独りぼっちにされる事の方が末恐ろしかった。
「いずれ君にも見える時が来る。今は出来る事限り、生き延びなさい」
「生き延びるって、何をですか? 貴方には何が見えるんですか? 俺はただ──」
言い切るよりも先に、二人はどこかへと進んで行った。二人に追いつこうと歩みを早めるが、二人との距離は離れていくばかりだ。
いつの間にか女性の姿が消えていた。初老の男性の方を見ると、うっすらと姿が陽炎のように揺らめき始めている。この虚ろな世界に存在していた彼の姿が、再び何処かへと消えていく。
「これで会うのは最後だろう。私が言えた義理では無いが、達者でな」
「達者でって、俺はどうすればいいんですか?」
「ただ待つんだ。待てば必ず君の役割が産まれる筈だ。私の役目はもう終わった。私を待っていてくれる者があちらにはいるんだ。君を待っている人はまだそこにいない」
初老の男性の姿が消え始めると、胸の奥で何か辛いモノが込み上げてきた。この喪失感を自分は覚えている。空っぽの器だった身体の中に強い後悔と絶望の水が溢れ出し、彼を始めて喪失した時の感触がありありと浮かんできた。
そうだ。俺はこの人を知っている。そして俺はまたしても、この人を失ってしまう。
「行かないでください、先生! 俺は……」
「達者にやりなさい。それと、もうお喋りは禁止だよ」
そう言って初老の男性の姿は、完全に霧散した。
男は一人残されると、静かに涙を流し始めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます