(2)

 鹿島は高まる鼓動を抑え込み、周囲を見渡した。こんな状況ながらも意外な事に、一人もパニックに陥ってはいない。天人関係に強いトラウマを持つ青貝は特に心配をしていたが、土壇場の胆力かそれとも思考が立ち止まったのか、冷静に場の空気に潜航している。


 他の学生らも皆、リラックスした自然体な姿でそこにいた。緊急事態にアンデスが作動して、超強力なリラックス効果を生み出したのだろうか。


 いや違う。そんな訳が無い。これはれっきとした〝命の危機〟だ。事故や災害などの命の危機の際には、生存確率を上げる為にアンデスはむしろ恐怖をピックアップする。恐怖心や警戒心が無ければ、人は転んだ時に手を付く事すら出来なくなってしまう。


「まさか、アンデスが……」


 青貝も同じ事に気付いていた。今の彼らは平穏なのではなく、狂っているのだ。何故かは知らないが、彼らはいま強烈な陶酔状態に陥っていた。今の彼らは転んでも不動のまま倒れ込むだろうし、目の前で何が起こっても笑みを浮かべて死んでいくだろう。この教室で正気を保っているのは、自分と青貝だけなのだ。


 鹿島は東雲だったモノを見た。あれは見間違いでも思い違いでもない。あの時見た彼女は、間違いなく死んでいたのだ。そこから何があったかは分からないが彼女は生まれたての赤子のような心と羽を生やして、


 視線に気付いたのか、東雲がこちらを見る。どこまでも優しげな笑みに、小便を漏らしそうになる。恐ろしくもどこか神々しさを持ち合わせているその姿に対し、形容する言葉は一つしかない。


 天使だ。人々に安寧と福音を届けに、天の人かみからの残酷な宣告を告げに、死を看取りに来た天の使いにしか見えなかった。


 手先が震え始める。安寧を超え、恐怖がアンデスの張ったプロテクトを打ち破ろうとしているのが分かる。


 東雲天使は周囲から青貝を見定めると、足音一つさせないで彼の前に向かって来た。


「ア、青貝!」


 鹿島は棒立ちする青貝を突き飛ばすと、東雲天使の前に立ちはだかった。彼女の顔を見た瞬間、頭の中で形の無いモノが暴れ出す。


 体内のアンデスが危険信号を出している。『これ以上の精神圧迫はアンチ・デストルド・システムの許容範囲を逸脱します』と、ナノサイズの友人は叫んでいる。精神汚染防御と言っても新時代の常識の範囲内での防御壁だ。学友が転生して鋭利な羽を生やして殺戮に来たなど、マニュアルのどこを探しても存在しないに違いない。


 息が乱れる。肌が粟立つ。このままでは恐怖が最高潮に達し、アンデスが摩耗しきって自縊死してしまう。だが下手な動きをすれば教授のように、天使は物理的に息の根を止めに来るに違いない。


 その時、カチッと鹿島の体内で何かが音を立てた。この音には聞き覚えがあり、今際になってその正体が分かった。留まる事無く襲い掛かる恐怖心に対し、アンデスが抵抗を止めて受け入れ準備を始めたのだ。


 音を聞いた途端、悲しくなる程に心がどんどんと落ち着いていくのが分かった。アンデスは恐怖に打ち勝つ事を諦め、安らかな死の感情をデザインし始めた。ナノサイズの友はどうせ死ぬなら安らかにと、自分の意思を無視して介錯する事を決してしまった。


 無機物の心は安らかな死を求め、自然の心は恐怖し抗う事を望む。誰よりも俺の幸せを願う筈の俺の心は、生きる理由を放棄した。


 死を目前にして鹿島は、ようやく青貝の言いたい事が理解出来た。八億もの骸の上に立つ俺達は絶対の安寧を求めていたのではなく、仮初かりそめの安寧に逃げていたのだ。身も心もリラックスしていく中で自分の中にある一番奥の感情は、生きる為の絶望を求めていた。


 だがその意識も今、消えようとしている。自分の人生はここで終わる。偽りの感情の中に沈み、俺は俺を喪失したまま死んでいく。


 鹿島は背中越しに青貝の肩を叩くと、東雲天使とは逆にある扉を指さした。肩を叩かれた青貝はハッとしつつも、意図を察知する。


 安寧の中で鹿島は思う。どうせ死ぬのなら、せめてお前だけでも助かって欲しい。彼女が俺の死体をむさぼる間に、警備でも警察でも首相官邸でもいいから行って、新たな侵略者の存在を伝えて欲しい。


 絶望に打ち克とうとする予期せぬ拒絶感情に、アンデスは更に強い安らぎの感情を与えてきた。青貝が行ったのを確認して振り返ると、互いの鼻が触れ合う程の距離に東雲天使はいた。


〝死〟だった。死が実質を持って、そこにいた。今にも接吻出来そうな距離だというのに東雲天使の顔からは息もかからないし、呼吸の音も聞こえない。


 鹿島の心から完全に恐怖が消え、安らぎ始めた。彼女の優しい笑みを見ていると、幼い頃の記憶が蘇ってくる。青貝との出会い、父や母との思い出、旧時代の懐かしき日々……。例えその全ての思い出を絶え間なく話し続けたとしても、彼女なら優しく微笑みながら全てを聞いてくれるだろう。そんな気分になってくる。


 東雲天使は何も言わない。ただ鹿島の胸に預けるように頭を下げると、右肩からセロファンの翼を取り出した。目を凝らして見れば肩から生えているのはセロファンではなく、アクリルの毛糸のような物が薄く延ばされて固まったモノだ。白い糸を細く紡いで、刃のように延ばしたモノのようだ。


 死化粧のように白く無機物な羽は鎌首をもたげ、ゆっくりと鹿島の顔へ近づいてくる。白い羽は鈴のように小さく振動した音を鳴らしながら、鹿島の目元へと近づいてきた。


 廊下から生徒を逃がした青貝の叫び声が聞こえたが、その声も鹿島の心には届かない。どこまでも安らぎながら、それでも鹿島の心の奥は何かを叫んでいた。このままではいけないと、逃げろと心が叫んでいる。それが頭では分かっていながら、逃げる事が出来ない。


 その時鹿島の頭の中で、何かがプツンと音を立てた。


 遂に鹿島の心から、逃避の感情が消えた。


「か、鹿島!」


 最期に残す言葉は何にしよう。鹿島は最後の力を振り絞り、友へ向かって口を開いた。


「すまんな、アホガ──」


 だがそれを言い切るよりも前に、東雲天使の前に一人の人間が立ち塞がった。


 それはいつもゼミにいる、謎の少女だった。


 青貝が彼女に気付く。


「……え? おい君──」


 続きを言う前に少女の元から何かが飛び立ち、鹿島の顔の横を通り抜けた。


 途端に東雲天使が歪んだ叫び声をあげた。見れば天使の胸元に、長く黒々としたモノが突き刺さっている。


 髪だ。少女の頭から伸びた長い黒髪が、天使の胸元を貫いていた。


「一枚羽の白い毛糸。ガイアかミネラルね」


 ぐいと少女が頭を上げると、髪は巻き尺のように引き戻されていく。そのまま一気に距離を詰めると、天使の胸元に拳を叩き込んだ。


 グチグチと、水分の多い粘土をこねているような音が教室内に広がる。見れば彼女は天使を殴ったのではなかった。穿った彼女の胸の穴に、その手を捻じ込んだのだ。


 東雲天使は悲鳴を上げ、狂ったようにもがき出した。発狂し揺れ動く体にも少女は微動だにせず、棒立ちした鹿島をもう片方の手で払い除けた。新たな衝撃的光景に鹿島は受け身をとれず、尻を強かに打ち付けた。


 肉と血のグロテスクな音階が心を蝕み、二人の吐き気を込み上げる。あれ程までに美しいと感じていた天使の顔は歪んでいき、ただの女学生の死体へと変貌していく。


「あった。これね」


 少女の手首に、血管が浮き立つのが分かった。天使の体内を蹂躙していた小さな掌が抜き取られていき、美しかった二枚の白羽が崩れ落ちていく。


 遂に力尽きた東雲天使の口から、言葉に似た何かが漏れ始めた。


『ひとり。きらいはいない、わたしをみすてない……』


 水谷教授の時と同じく、何を言っているかは分からなかった。


 少女はそれを無視して東雲の胸から手を取り出すと彼女の体は崩れ落ち、糸がほどけるようにして消えていった。

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