(4)

「何が気に入らなかったんだろうな?」


 鹿島の言葉に、青貝は蕎麦を啜りながら答えを咀嚼する。学食価格で一杯百五十円。具無し、ネギと揚げ玉と刻み海苔のトッピングは無料。安価ながらコシが強く食べ応えがあり、ぐちっと麺を噛み千切る触感と感覚はストレス解消に効果的だ。


「そりゃお前、発端はお前の一言だろう?」


「一言って、旧人類のことか?」


「そうだ。旧人類の中には、その単語自体に多大なストレスを感じる場合もあるんだ。曰く、差別や疎外感を感じるらしい」


 友の言葉に、鹿島はわざとらしく仰け反る。


「一つの単語で神経衰弱を? よく自縊死じいしせずあの年まで生きてこれたな」


「あの年だからだよ。教授はもう、とっくの昔に歩みを止めたんだ。それに旧人類に自縊死は出来ない。死ぬ時は自分で縄を用意するんだ。忘れたか?」


 青貝の言う「とっくの昔」を思い出す。空に穴が空いて神様が滲み出て来るよりも前、全ての人類の心が常時不安定だった精神の開拓時代。〝自殺〟という死因が世に存在していた、悪夢のような時代。


 今の人類の殆どはその時代を生き抜ぬいた人間だが、大半の人間がその時代の事をよく思い出せないだろう。アンデスの力によって全ての苦痛や困難の記憶に華が添えられ、行き過ぎた天の人の横暴に対しても人類の勝利と賛歌の伝説譚サーガとして刻まれている。


「今じゃ苦しみや悲しみから命を絶つ奴は一人もいない。短い間だったが、俺達もあの〝心を凶器にする日常〟を生きてきただろう? 歴史の汚点だと言う奴もいるが、教授にとっては四十年以上過ごした大切な日々だったんだ」


「そういうものなのかねえ……」


「そう言うお前は、たまにはあの時代の事を思い出さないのか?」


「あの時代か」


 そう言って鹿島はカツ丼を頬張る。三百六十円。カツは肉厚で衣はクリスプ状になっているので、噛む度にサクサクとした音が鳴って心地良い。


 旧人類。新時代を拒み、苦痛を伴ってでもアンデスによる心の平穏を拒否した者達。心は常に不安定で、絶望が身を包んでも自然に死ぬ事すら出来ない悪夢の狭間で生きる人種。


 旧人類の殆どは自ら神経を乱す事を望んだ退廃的思考の持ち主で、全体の八割が何らかの犯罪行為に手を染めていると言われている。アンデスの影響に阻害されないで刺激を貪る重度の薬物中毒者や、創作神話を信仰した異端思考者ばかりだという。


 教授はいい歳なので、おそらくは自然死信仰の持ち主だろう。あるがままに生き、苦痛もまた喜びであり、死を恐れず受け入れるという狂気的意思に似た概念。十次元戦争以前、空から神が現れるまでの混沌が日常であった日々に縛り付けられたテクノロジー恐怖症テクノフォリアだ。


「俺は、人が自分を追い詰めて死にまくる時代に未練は無えよ」


 鹿島は窓から空を見上げた。今日も空に開いた穴は大きい。穴の奥には虹色に輝く不思議な空間が見えるが、青貝にはきっと違う景色が見えるのだろう。天人がやって来た際に拓かれた穴はどこへ繋がっているかも分からないし、新たな災厄を恐れて誰も近づこうとしない。


 そもそもあそこに存在する穴は物理的な欠落ではなく、概念のようなモノだ。次元の壁を幾つも超えた先にある理であり、三次元を生きる人類にとっては全ての人類がたまたま同じ幻覚を見続けているに過ぎない現象だ。


 ふいに鹿島は息が苦しくなる。首元を手で抑えると、青貝が心配そうに覗き込んできた。


「大丈夫か?」


 その言葉に、鹿島は咳払いをして頷く。


 まただ。また何かが首に絡まっている感触がする。幼き時代、父に手を曳かれて歩いた記憶が自分を苦しめる。体内のアンデスにいくらクレームを送っても、精神が安定する兆しが見えない。


 父に辛い想いがある訳では無い。父はいつだって優しく、忙しそうに部屋の机に向かっていた。それでも普段は愛嬌とユーモアに溢れた人で、殴られた事も乏しめられた事も一度だって無い。


 そんな父も天人の襲来時に死亡し、どこかの簡易火葬場で炭になってしまった。あの時死んだ人間は疫病を恐れ、骨すら残して貰えなかった。


 鹿島は呼吸を整えると、小さく息を吐いた。アンデスという永久精神安定薬があろうとも、人は親しき人の死からは逃れられない。胸の奥では常に死への〝悲哀〟や〝恐怖〟が心を蝕み、それをアンデスがポジティブに変換、結びつけようとする輪廻にも似た鼬ごっこを繰り広げている。


 ふと、あの自縊死したサラリーマンを思い出した。人は常に何かと戦いを繰り広げている。過去の苦痛、未来への不安、現代の焦燥。大型哺乳類と戦い、隣人と戦い、隣村と戦い、隣国と戦い、神とも戦い全てに勝利を収めた後、最後に立ち塞がったのは己の心だった。


 そして一人で戦う事の知らない人類が作り出した友が、アンデスこと自律神経失調予防プログラム細胞「アンチ・デストルド・システム」なのだ。


 もしこれが無かったら、自分はこの世界でどんな生き方をしているのだろうか。 水谷教授はアンデスの福音がある生活を知らない。知れば永遠の安寧を約束されると分かっている筈なのに、何故かそれを拒んでいる。


 そもそも、自分だって昔はそれを知っていた筈なのだ。だが今は幸福な感情が、己の心がそれを知るべきでないと立ち塞がっている。


 鹿島は友の顔を見ながら思う。もし神が現れる事無く暮らしていたら、自分達はどのような人生を歩んでいたのか。


 絶望とはどんな感触なのだろうか。


 どんな感触だったのだろうか。



 二人が教室への道筋を歩いていると、わらわらと学生が集まっていた。


「なんだあれ?」


 集まる学生の間を縫って、青貝は興味深そうに首を伸ばした。学生同士の喧嘩か愛の告白、あるいは文化系サークルのパフォーマンスでもあるのかと見てみると女性の首吊り死体があった。死体は白い毛糸のような物でグルグルに巻かれており、蒼白とした顔を飛び出させている。


 自縊死体だ。敷地が広大故に構内にも適度に清掃車は立ち寄るが、それでも大学内で自然縊死が発生するとは中々に珍しい事だ。


 集まっている人間は彼女の友人か何かだろうか。もしそうならこれだけ大層な数の人間に慕われていたと思えば理想的な死に方とも言えるが、逆に言えばそれだけ慕われても死んでしまいたい人間は現れるという事になる。興味深い考察ではあるが、いきなり首吊って死んだ友人を見てしまった学生からすればたまったものではない。


 ぼうっと眺めていると、ふいに青貝が悲痛そうな顔を浮かべた。


「どうかしたか?」


「いや、何でもない」


 そう言って青貝は行ってしまったが、背中は明らかに釈然としていなかった。歩幅と共に上下する両肩が地面をピストンするかのように、解決出来ない思いをぶつけているのが分かる。


 それを見た鹿島は、小さく鼻を鳴らした。今まで何度も見た光景だ。小学校の前々時代的な体罰効果を信じ切っていた先生とか、中学時代のアンデス至上主義派だったクラスメイトの旧人類である生徒へのからかい行為なんかに、彼はいつも首を突っ込んでは要らぬ傷を負っていた。


 時代も人も聖書のように新旧に分かれたというのに、こいつは子供の頃からまるで変わっていない。正しいとは思うけど何だか気に入らないという時は、いつも肩を揺さぶっている。滾る怒りの炎が溢れ出ても周りを見渡しては自分が少数派だと知り、釈然としない気持ちを血流のように体内に流し込んではアンデスに負荷を掛ける。


 そうした後に、決まって彼が言うセリフがある。


「なあ鹿島、俺は間違ってるのか?」


 予想通りの答えに、鹿島は小さく笑う。そう言った後に自分が言うセリフも決まっている。


「お前が正しいと思ったのなら、それでいいだろう?」


 親父さんの影響か、アンデスが投入される前から博愛と自己犠牲の心が青貝には叩き込まれていた。ただ勇気だけはどうしようもなかったようで、義憤にかられても長い物には巻かれ続けていた。


 どれだけ憤ろうとも青貝の怒りはアンデスに処理され、誰も救われる事は無い。体罰主義の教師は今も元気に教鞭を取っているし、旧人類のクラスメイトは二年前にアンデスを投入して青貝の正義心なんか覚えてもいないだろう。


「昔はこんなんでは無かった筈だ。人が一人死んだのに、どいつもこいつも平然としすぎていないか? 平然とする事に慣れ始めているというか……」


「慣れても不思議じゃないだろ? 自然縊死は十次元戦争から今の今まで、絶える事無く発生し続けているんだ。アンデスの無い生活はそれそのものが自殺に等しく、一つの死に対して四十九日かけるような生き方は今の時代ではやっていけない。青貝、お前が言った事だぞ?」


「それはそうだけど……」


「だいたいよお。俺らが小学校に通って糞漏らしてた頃だって、電車に飛び込む奴や人を巻き込んで心中する奴とかいただろう? あんなのに比べれば今の自縊死なんて実に合理的じゃねえか。野生のテルテル坊主が出たと思って諦めろ」


「……一つ言いたいのは、俺は学校で糞を漏らした事は無いぞ!」


「あれ、無かったか? お前漏らしてただろ」


「幼稚園の話だ、バカシマ!」


 青貝の言葉を皮切りに、うろ覚えな幼き頃の記憶が蘇る。あの頃は自殺をするのに道具が必要で、一人死ぬだけで大事件のように世間が動いていた。


 筆箱みたいな大きさだった携帯電話も今では口に入る程の小ささで、機能も数百倍多様化している。自殺もまた場所や道具や周囲の圧力の全てを破棄して、アンデスのメンテナンスを怠って絶望するだけで死ねるようになった。旧時代においては悲痛な事件であった自殺も、今の新人類にとっては自己管理不足による間抜けな事故死でしかない。


「あまり思い詰めるなよ? たまにはノスタルジーに浸るのもいいが、のめり込むのは害悪でしかない」


「文明や郷愁が害悪だって言うのか?」


「俺達が過ごしていたあの日々はもう、過去じゃなくて歴史なんだよ。人類の危機に仏陀や基督は何もしてくれなかったし、実際に現れた神は八億もの人間を死に追いやって精神をドブにする絶望をばら撒いて去って行った。あの世界に希望は無いと知っちまったから、アンデスは産まれたんだぞ」


「……なら今の俺達は、何を思って生きてるんだ?」


 青貝の言葉に、鹿島は一つ息を吐いた。呼吸は心身の安定において、最も手軽で効率の良い方法だ。数百年も前より証明されていた、命の脈動の確認作業だ。


「俺にも分からない。だがそれを見つける為には、やっぱり生きるしかないんだ」


「生きる為か……。そうか、そうだよな」


「お前にはやるべき事があるだろう? 自ら絶望に近づいてどうすんだ。ちゃんとアンデスのメンテはしてるのか?」


 その言葉に、青貝はふっと笑う。


「心配すんな。ちゃんとしてるし、俺も死ぬ気は無えよ」


「ならいいんだけどよ。あんまり考えすぎんなよ?」


「分かってるっての」


 そう言うと、丁度チャイムの音が鳴り響いた。次の時間はゼミの講義だ。先ほどの授業態度の手前、水谷教授と顔を合わすのは非常に気まずい。


 だがこんな時こそ、アンデスの出番だ。存分に俺の羞恥心を慰めて、教授と上手くやれるような心を用意しておいてくれよ。


 鹿島と青貝は互いに顔を見交わすと、急いで教室へと走って行った。

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