俵藤太草子(伝藤原秀郷公蜈蚣討伐之事)
麗玲
第1話 藤原秀郷公。近江國勢田橋の大蛇の上を歩く
*
天から妖し気な赤光が指し込み薄闇と鬩ぎ合う時、蝉時雨がいんいんと響いては止む。
蒼褪めた琵琶湖の水面は斜光に映える夕日はそよとの風を受け朧気に
怪力乱神達が眠りから醒める刻、
三尺あまりの黄金の太刀を佩き、
彼の者、名を藤原秀郷と言う。
後年に新皇を平親王を称す平将門と相対する事になる豪の者である。
だがこの頃彼は叛逆の罪で**京の地を離れ近江に居を構えていた。
後世武神の如き伝説を残す秀郷もこの頃は朝廷に疎まれ、支那王朝蜀漢の劉備玄徳がかつてそうであったように***
特に天下に高名を知らしめる機会も与えられぬまま馬齢を重ねていた彼は、ある日琵琶湖にかかる勢田の橋に大蛇が現われると言う噂が
彼は勢田の橋に向かい件の大蛇を一目観ようと思い立った。
もしかしたら百年河清を待つ気分の自分が再び世に出るため啓示を与えられたのでは秀郷はそのように考えていた
橋の袂には夕刻であるにも関わらず上下の貴賤を問わず大勢の人が集まっていた。
「方々如何なされた」
秀郷は尋ねた。
衆人は悠然たる態度の美丈夫である秀郷に訴えた。
「これなる勢田の橋に身の丈二十丈(約六十メートル)に及ぶ大蛇が橋桁に横たわっております。今は逢魔ヶ刻。一刻でも早く帰りたいのですが大蛇が怖くて通る事が出来ません」
成る程。そこには人々の心胆寒からしめる異様な大蛇が横たわっていた。
冬枯れの森の梢の如き十二の鋭利な角と、白刃と見紛う牙を持ち合わせたその威容は蛇と言うより絵巻で見た竜に近い。秀郷はそう考えていた
爛々と輝く黒曜石のような大蛇の瞳は瞬きもせず真っ直ぐに秀郷を見据えていた。
畜生であるにも拘らず、その眼光には明確な意識が宿っているかのようにも見え、
まるで何かを訴えかけているかのようだった
しばしの間、秀郷は
大蛇は威嚇するかのように二枝に分かれた焔の如き真紅の舌は薄気味悪く蠢動させていた。
大蛇に近づく秀郷は一呑みされるのではないか。
衆人は堂々とした態度の秀郷を留める事も出来ず不安そうに見守っていた。
一方の秀郷は特に恐れる様子も無く一歩二歩と大蛇に歩を寄せていく。
やがて大蛇の舌先が届く程の距離まで近づいていた。
顔だけでも自分の背丈に匹敵するような大蛇の眼光は文字通り目の前に迫っていた。
衆人はあっと悲鳴をあげた。
何としたことか。
秀郷は大蛇の鼻先に足をかけるとそのまま大蛇の体を踏みつけながら背中を橋桁代わりに歩き始めた。
その様子は大蛇など居てもいなくても同じように普通に橋を渡るかのように悠然としていた。
やがて対岸へ辿り着いた秀郷は衆人の歓声も余所に何事も無かったかのように立ち去った
大蛇は秀郷の後姿の方に鎌首をもたげた。
後ろから襲われたとしても恐れないのか、秀郷は大蛇の方に振り返る事も無かった。
意識があるかのような大蛇の瞳は秀郷の姿が見えなくなるまでその背を見つめ続けていた。
秀郷が去った後、大蛇は重そうな体をゆったりと這わすと恐れ慄く衆人を尻目に、琵琶湖の中にその巨体を消した。
◇用語解説
*逢魔ヶ刻……昼と夜の境の時刻(つまり夕方)妖怪や物の怪が現われる時間として恐れた。
**京の地を離れ近江に居を構えていた……史実ではそのような事実は無いのですが原作に合わせました。
***髀肉の嘆……強い意志があるにもかかわらず、力を発揮する機会に恵まれない状態。
三国史の時代、後の蜀漢の皇帝劉備が知人の家で暮していた時。「戦場を駆け回っていた頃は、髀肉が引き締まって鞍にぴったりくっ付くほどだったのに、今はすっかり贅肉がついてしまった」と嘆いたことからこの言葉が生まれた。
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