ケモノと獣
春野訪花
ケモノと獣
そこらから唸り声が聞こえてくる。
眼光がこちらを捉え、今にも襲いかかってきそうな気迫だ。
薄暗い巨大テントの中、灯りは一切ない。唯一の光源は、先を行く店主が持つランタンだけだ。大して大きな光源でもないのに、周囲を明るく照らす様に、いかにここに光の一筋も入っていないかがわかる。
外套に身を包む目の前の男は、迷うことなく、檻の間を縫い進んでいく。
大小様々な檻は所狭しと並んでいるが、目的はただ一つ。
一番奥。そこは壁だった。テントの布が垂れ下がっており、よく見れば切れ目がある。つまりはめくってその向こうへ行けるということだ。
店主である男は振り返る。目深に被ったフードの影から、重々しい眼差しがこちらを見てきた。
やめておくか?
と、言外に尋ねてきているのだ。
ふっ、と笑みをこぼす。
「馬鹿言え」
一歩前へ出て、布を払った。
瞬間、耳をつん裂くような唸り声と、けたたましい金属音がした。
そこにあったのは一つの檻。
人一人が入れるほどのサイズの、大きめな檻だ。
それだけがその空間にある。
そして、中には――一人の男。
歳は、自分と変わらないだろうか。二十前半。顔立ちは整っているが、鋭い眼光と唸り声を上げて薄く開かれた口は獣そのものだ。
首には枷がついており、檻の奥に短い鎖で繋がれている。両手首にも枷が嵌められ、それは肘を伸ばせないほどの長さの鎖で首枷に繋がれていた。
その男の唸り声は、他の唸り声を消した。背後を振り返れば、無数の眼差しは怯えの色を混じらせながら、獣の男を窺っている。
笑いが溢れるのを、止められない。頬の緩みをそのままに、獣の男に向き直った。
「グルルルル……」
人ではない声。鳴き声だ。
ランタンを持つ店主は、さすが獣を扱うだけあって怯えた様子こそなかったが、どうするつもりもないらしい。ただジッとその場から動かない。獣の男を静かに感情の読めない目で見ていたが、ふっとこちらへと目を向けてきた。
「自己責任、ですから」
「ああ、もし死んだらその辺のやつの餌にでもしろよ」
ランタンを受け取る。
「ま、アイツに俺が殺せるとは思えないけどな」
一人前へ出た。
檻の向こうの獣は、近づくとより一層威嚇を強めた。飛びかかってこようとする。が、それは戒めに阻まれる。それでも構わず突っ込んでこようとするので、首も手首も擦り切れて血が滲んでいた。
「お前、俺の言葉は分かるんだよな」
声をかけながら、ランタンを地面に置く。そして膝に手をついて中腰になった。体勢低く唸っている獣と目の高さが合う。
ボサボサになった髪の隙間から、ギラギラと光る燃えるように赤い瞳が見えた。それと目を合わせ、ふっと笑う。
「弱いな、お前」
獣が叫ぶ。そしてまた飛びかかってこようとする。ガチャガチャと鎖が鳴り叫ぶが、一ミリも近づいてくることはできない。
「おい」
振り返る。そして手を差し出した。
店主は顔を顰めた。
「餌代が浮くからと言って血肉を触る趣味はないんですが」
「いいから」
手を振って催促すれば、店主はため息をついて胸元から鍵束を取り出した。無数に思えるほどの鍵の中から、あっという間に一つの鍵を見つけてリングから取り出して、投げよこしてきた。
それをキャッチして、また獣を見る。向かってこようとはしていないが、未だにこちらを見て唸っている。
一見勇ましく見えるが、なんてことはない。
威嚇をするのは、相手が自分より強いと思っているから。
つまりは――こいつは、俺に対して怯えているのだ。丸腰の一人の人間に。
「はははっ!」
びくり、と獣が体を強張らせた。だがそれは一瞬で、次には火をつけられた燃料のように、瞳に鋭さを宿していた。
檻の扉を開ける。
そして普通に、至って普通に獣へ歩み寄った。
目を見開いた獣が、「うがぁ!」と喚く。が、こちらに向かってこようとはしない。ただ、唸って喚いているだけ。
「やられた人間がいるって聞いて、どんなやつかと思えば……」
獣のすぐ目の前で立ち止まる。
獣は唸りもせず、縮こまっていた。が、その瞳だけは逸らされることなく、目と目が合ったままだ。
「目を逸らさないか」
「…………」
獣は無言だ。
体を強張らせてはいるが、逃げ腰ではない。いざと言うときには噛みついてやろう、そんな気概が見えた。
へぇ……、と目を細める。
「悪かったな。思っていたより弱くなさそうだ」
ぴくりと、獣の眉が反応した。
ジッと獣の目を見つめる。その瞳に揺らぐのは闘志だ。
拘束され、怯えてもなお、消えない。
怯えが混じれば途端に闘志というのは消えるものだが、それが消えないというのはよほど生に執着しているか、それとも――。
獣と目を合わせたまま、
「鎖の鍵はこれか?」
と、檻の錠を掲げて店主に尋ねた。
「……違う鍵です」
やや間を開けて、少し硬い声が返ってきた。
檻の外を見ずに鍵を投げた。
「……自己責任ですから」
「全く」
振り返る。檻の向こう、店主がさっきから立っている場所は変わっていない。
「俺が負けたことないだろ」
店主はしゃがんで足元の鍵を拾った。
「この世に『絶対』はありません」
そう言いながら檻に近づいて、扉を閉めて鍵をかけた。こちらを見てくる目は、心底呆れていた。
「骨の一欠片も拾ってやらないです。気持ち悪いので」
「勝手にしろよ」
檻の隙間から鍵が飛んでくる。探さずに渡してきたので、こうなることは分かっていたようだ。
キャッチした鍵で、首輪をまず外す。そして両手の鎖も。獣は真っ赤に擦れたそこを労るでもなく――。
耳元を爪の先が掠った。
「早速か」
大きく後ろへ飛んだ。
フーッ、フーッ、と荒く深く呼吸する獣は、背中を丸めてゆらりと上半身を揺らしている。
「そんなに弱いって言われたのが悔しいのか?」
笑って告げると、獣の目線が鋭くなった。
はははっ!と声を上げる。
「可愛いな、お前」
獣が目を見開き、突っ込んでくる。見開かれた目は瞬き一つせず、研ぎ澄まされた闘志に光っている。
腰を落とす。同時に纏う外套の裾を広げた。
眼前に獣が迫る。大きく開いた口に、研ぎ削ったかのような刃のような歯が並んで見えた。
口が緩むのが堪えきれない。
右足を軸に身を翻す。獣の背後に回り込んで、首に腕を回す。と、同時に、腰から抜き取ったナイフを、その目先に突きつけた。ピタリと獣が動きを止める。切先が眼球に触れる寸前だった。
「おっ、止まったな」
「……っ」
獣が息を呑んだ。
腕をそのままにナイフを下ろした。
興奮と緊張に息を荒くする獣は、顔だけこちらに向けてきた。とはいえボサボサの髪で遮られて、視線が合うことはなかったが。
込み上げてくる笑いは、ワクワクしているからだ。こんなにワクワクしているのは、久しぶりだ。
「いいな、お前。育てがいがありそうだ」
ナイフを手の中で回転させて、腰に戻した。
そして耳元で囁く。
「まずは風呂だ。お前、いつから洗われてないんだよ」
ケモノと獣 春野訪花 @harunohouka
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